今村翔吾著の「未だ本能寺にあり」を読み、2005年発刊で、話題を呼んだ本書「信長の棺」を手に取った。「信長の遺骸はなぜ本能寺から消えたのか」の永遠の謎を、「信長公記」を書いた太田牛一が探っていくという筋立てだ。
太田牛一は弓の腕を認められ信長の直臣となり近侍する。秀吉にも仕え、自身の手控えを元に、「信長公記」「大かうさまくんきのうち」などを著した。長寿で慶長15年(1610)、84歳の時の書も残っていると言う。
牛一は、「信長さまの17回忌にあたる文禄7年までに、どうしても信長さまの伝記を書き上げたい」「そこには、本能寺で亡くなった信長さまご遺骸がどこに消えたのか、この謎解きも、ぜひ加えなければならない」「牛一の怒りの矛先に、いつも浮かぶのが太閤秀吉である。物書きとして過分の禄で召し抱えてくれた恩義もある。だが、牛一が能登幽居中の天正10年10月、秀吉が織田家一族を差し置いて、大徳寺で勝手に挙行した葬儀は全くの茶番劇だった」・・・・・・。
いくつかの大胆な筋書きがある。「ときはいま・・・・・・」――。光秀のような細心な男が、本能寺からたった4、5里程度しか離れていない愛宕山で、謀反決行前にそのような本心を漏らすことなどあり得ぬ話」であるし、参加者や忍びからすぐ伝わってしまう話としている。
「近衛前久黒幕説」――。「前久卿は、ここで光秀を接見した。光秀の山籠りは口実だった」「(信長に散々追い詰められ)帝は独り言のようにつぶやかれてな、死にたいと・・・・・・。娘婿共々に北面の武士を買ってくだされ・・・・・・」「ここで覚悟を決めましてござりまする。光秀に<信長討伐>の御綸旨をくだされませ」・・・・・・。
牛一は調べ続ける。「なぜの謀反かについては議論百出して定まらず」「ご遺骸の内、本能寺在陣のニ十数体、ニ条屋敷在陣の数十体は、織田家菩提寺の阿弥陀寺に収容され、座主・清玉上人の手により荼毘に付されし由也、されど、本能寺分のうち信長さま、蘭丸、愛平、宮松の四名、ニ条屋敷の勘九郎殿のご遺骸は、明智軍ニ日早朝より三日にわたり本能寺焼け跡を捜索せるが発見できずに終わりたりとぞ」・・・・・・。
家康が早々と逃げたのもおかしい。秀吉の中国大返しも話がうますぎる。あの桶狭間山の戦いでも、何故に敵から目立つ小山に義元が陣を張ったか、これもおかしい。牛一は老齢になったが、大坂天満の新しい隠居所に移る。そして秀吉が作った新しい舟入学問所に呼ばれ、「太閤との約束通り、信長が足利義昭を奉じて上洛する永禄11年、信長35歳から始まり、本能寺の変までで終わる『信長記』を納める」が、懐には若き頃の信長の「信長前記」(首巻)を作っていた。
そして、妻となった女・多志と共に女の故郷「隠れ里・丹波」に行く。そこで清玉上人の近くにいて、全てを知る清如に出会う。
「信長の遺骸」――。「信長の造らせた南蛮寺と本能寺の間に抜け道が造られていた」「本能寺の変の時、それが壁で塞がれており信長たちは抜け道の中で窒息して果てた」「清玉上人の指示で遺骸を阿弥陀寺に運び、信忠様以下の遺骸も収集し全遺骸と一緒に法要した」「秘密を守るために、秀吉の生きている間は、決して近づくなと厳命された」などが、明らかになっていく。驚天動地の結論だ。
安土城の天守閣、暦、信長の思考と構想、朝廷との次元を異にする確執、秀吉や光秀の心の闇、「権力者の嘘まじりの手柄話を書くのは、もうこりごりだ」とつぶやく太田牛一。やっぱり「信長の棺」も面白い。
