日本4.0.jpg米国の戦略家エドワード・ルトワック氏。日本人は戦略がないどころか、歴史的にみるときわめて高度な戦略文化を駆使してきた。家康は戦国時代の内戦を完全に封じ込める「ガン・コントロール」で敵対者を消滅させ、江戸システムを作った(1.0)。明治維新と近代化と産業化を達成した(明治2.0)。そして1945年、軍事的敗北を経済成長国家へと変貌させた(戦後3.0)。

今、北朝鮮問題があり、戦争の文化が変わり、米中が戦う地経学的紛争の時代へと進み、日本国内では少子高齢化が進んでいる。どうやってこの国を守るのか。世界の現実を直視しての「日本4.0」に踏み出すことだという。

「日本のチャンスは北朝鮮の非核化が本格的に開始されてからだ。(援助の王)」「北朝鮮問題ではなく朝鮮半島問題だ」「日本は核武装はいらない。先制攻撃能力、リアリスティックな戦闘能力だ」「本物の戦争における特殊部隊論」「現在、世界を脅かすような大国は存在せず、"偉大な国家目的のために戦われる戦争"は起こりにくくなっている」「そこでは犠牲者を出すリスクが過剰なまでに回避される『ポスト・ヒロイック・ウォー』となっている。新しい"戦争文化"を必要としている(総力戦の衰退)」「ポスト・ヒロイック・ウォーの逆説」「地政学から地経学へ」「国家という野獣は地経学的な役割を獲得する衝動に駆り立てられる」「主戦場は軍事的領域から、地経学的な経済、知的財産権、テクノロジーをめぐる紛争に移行しつつある」「イノベーションは小企業で起こる。シリコンバレーの黄昏とテキサス州のオースティンへ」・・・・・・。まさに世界観を変えること、副題の「国家戦略の新しいリアル」を鋭角的に語る。


自動運転「戦場」ルポ.jpg副題に「ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来」とあるが、社会が自動運転の進展によって大変貌し、「社会の近未来」をどう捉えるか。バラ色の楽観的な未来がすぐ来る訳ではなく、あまりにも多くの課題をかかえていることを現場から指摘する。きわめて的確な書だ。

自動運転(AV)技術は猛烈な世界的競争のなかにある。まず、自動運転車の開発の問題だ。"シリコンバレー組"は「完全なレベル5」を目指して自動車業界のイニシアティブを取ることを狙い、既存の自動車メーカーなどの"デトロイト組"は、「車間距離センター」「新時代の信号システム」など、具体的に「レベル2」の技術を徐々に積み上げるという路線をとる。"シリコンバレー組"のAVへの情熱は「世界の年間130万人の交通事故死をゼロにする」などのスローガンを掲げて突き進むが、現実には「人間には不注意や勘違いが付きもの」という人間観、「AIは統計データに基づく計算機であり、突発的な事象への対処は弱い」という問題がある。加えて、人間の運転するクルマと、機械が運転するクルマが混在する「過渡期問題」、「歩行者、気象変動等、イレギュラーに対しての安全問題」「原子力や遺伝子組替作物等にも見られる社会的認知、世間の許容の問題」「民間の技術革新の問題に止まらない交通全般の標準統一の問題」「都市インフラをAV時代にどう築いていくか、その過剰投資問題」「人間の自由な交通や日常生活を制限する場面が出てくること等の問題」「AVに伴うセンサー、演算素子、通信などの消費電力問題」・・・・・・。課題はヤマほどある。

ことは「人手不足時代」「人口減少・過疎高齢化時代」「所有から利用へというシェアリングエコノミー」「ラストワンマイルと駐車場と働く場所への公共交通全体の変化」「陸上輸送と自動隊列走行」など広範囲にわたる社会を激変させる問題であり、都市インフラ全般や交通網の大変化・再編成を促すことになる。「自動運転文明」ともいうべき可能性と困難さをあわせもつ、重大な局面に遭遇している。問題を広く深く把える時だ。


「コミュ障」の社会学.jpgさまざまな「生きづらさ」を抱えている人の現場。不登校、いじめ被害、ひきこもり、ニート、不安定雇用、メンタル不調、貧困・・・・・・。貴戸さんは「子ども・若者と社会とのつながり」を「生きづらさ」の観点から探求する社会学者。御自身が小学校時代を学校に行かずに過ごした当事者だという。社会とうまく馴染めず、"漏れ落ちた"人が感じる「生きづらさ」について、「コミュ障」「不登校」という現象から考察する。

1980年代、不登校は病理・逸脱であるとされ、対応は「学校へ行こうよ」との登校強制が主流であった。しかし、学校信仰は揺らぎ、不登校への偏見は弱まり、学校は相対化されるようになった。次いで「学校に行かない結果」の不利益・リスクを語る「その後」問題が注目され、就学・就労、さらには「社会とつながる」ことそのものの意味を捉え直す位相へと進む。世の中の「学校は行くべきもの」「まっとうな人間は働いているべきもの」との価値軌範は、"つまづき""漏れ落ちた"人は、そうでない人以上に感じ、おびえ、自己否定感・苦しさを増幅させていく。「多くの職場で要求される"コミュニケーション能力"なるものが、こうした人たちにとっての仕事へのハードルを、さらにいっそう引き上げている」という。

「コミュニケーション能力」と「コミュ力」にはニュアンスの違いがある。「コミュ障」に対応する「コミュ力」は、学校や職場で「和気あいあいと」「楽しく」「うまく」やるというのが焦点。「生きづらさ」を抱えたこの社会、空気を読んだり、人と付き合うのが苦手でも、人とつながって生きる――その当事者と周りの模索が語られる。


持続可能な医療.jpg「超高齢化時代の科学・公共性・死生観」と副題にあるように、日本の医療制度の課題とか、超高齢社会の社会保障と財政などという問題を扱っているのではない。「持続可能な医療」という現実的問題を軸としながら「21世紀は世界人口の増加の終焉と人口高齢化の世紀となる」「高齢化問題とは人口動態の一局面である。人口問題を介して環境問題と高齢化問題は密接につながっている」「グローバル定常型社会と日本の位置」「死亡急増時代と死生観の空洞化」「持続可能な福祉社会の理念と政策」などと、視点は深く、広い。

「サイエンスとしての医療」「政策としての医療――医療費の配分と公共性」「ケアとしての医療――科学の変容と倫理」「コミュニティとしての医療――高齢化・人口減少と地域・まちづくり」「社会保障としての医療――『人生前半の社会保障』と持続可能な福祉社会」「死生観としての医療――生と死のグラデーション」の各章を通じて、超高齢社会に向かう今、広い観点からどのような視野をもつべきかを考えさせる。

「実は日本の医療費問題の"隠れた主役"は少子化問題である」「医療の"周辺部分"に現在よりも相対的に大きな配分を行い、通常の診断・治療分野への負荷を減少させ結果として医療システム全体としての費用対効果を高める」「混合診療の拡大は中所得者以上に恩恵があるなど問題が多い」「病院・診療所の医療費配分の見直しを」「公共性という視点が日本の医療では不足している」「介護という領域は市場経済に委ねるのではなく、公的な財政の枠組みで運営」「これからは労働集約的な(人手を多く使う)分野に資源配分を」「環境福祉税」「生命倫理とケアとしての科学」「地域密着人口(子ども+高齢者)の増加に対してのまちづくり」「高度成長期は"地域からの離陸"だが、人口減少・高齢化時代は"地域への着陸"」「子ども、若者への支援が日本の未来の持続性を高める」「基礎年金を税で手厚くし、報酬比側部分をスリム化する」「格差はフローを中心に論じられるが、大きいのは金融・貯蓄や土地等の資産格差(その分配策)」「生き方とともに逝き方の語り合いを」・・・・・・。数多くの提言がある。


国宝上.jpg国宝下.jpg歌舞伎の世界の芸と美と業。梨園の高尚な世界が、これほど業火にもまれ、泥臭く、むき出しの人間として苦闘し、芸と美に奥深く入り込んでいくものか。その一途さと熱量がぐいぐいと迫って来る。「悪人」や「怒り」とはまた違った骨太で美しく鮮やかな作品。

極道の家に生まれ、歌舞伎役者となった美しい喜久雄(三代目花井半二郎)。歌舞伎の御曹司として生まれ、険しい道を歩み続ける俊介(五代目花井白虎)。二人は兄弟同然、心を通わせる。親父の刺殺、先代の糖尿病による失明や襲名口上での吐血と死、俊介の出奔放浪、喜久雄へのいじめ‥‥‥。苦難というより悲劇そのものだが、懸命に支える家族や友人。芸を究める厳しさと孤独が、波打つように伝わってくる。若き二人の役者は、頂点に登り詰めるが、なおも狂うように芸の世界を求め続けるのだ。

歌舞伎の世界、"物狂い"の美の世界と、二人の生き様が、混然一体となる。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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