「九次元世界にあった究極の理論」と副題にある。「超弦理論のような物理学の最先端でも、日本語の力で深く解説できるということを象徴したい」という要請を受けての大栗先生の著作。難解であるのは当然だが、これ以上の解説はできないと感謝したいくらいだ。
空間とは何か、時間とは何か――その自然界の最も基本的な法則を理解すべく野心的な目標を掲げる超弦理論。それは重力現象についてのデータと、素粒子現象についてのデータのどちらとも適合する唯一の仮説でもあり、素粒子物理学における究極の統一理論の候補だという。先駆者シュワルツをはじめ、数多くの学者、哲学者、数学者がいかにかかわって現在の地点に進んで来たかを示している。「原子→原子核と電子→陽子と中性子→クォーク」「素粒子の標準模型では17種類の素粒子を、物質のもとになるフェルミオン(原子・ニュートリノ・クォーク)を、物質の間の力を伝えるボゾン(電磁気力・強い力・弱い力を伝える光子・グルーオン・W粒子・Z粒子)に大別する」「超弦理論では弦が普通の座標の方向に振動するとボゾンになり、グラスマン数の座標の方向に振動するとフェルミオンになる」「超弦理論は、私たちの空間が普通の空間ではなく、超空間であり、普通の数字で決まる座標のほかに、グラスマン数という不思議な数を座標に使う"余剰次元"が存在すると予言する」・・・・・・。そして「空間は幻想」と。
最先端で格闘する大栗先生をはじめとする世界の学者は、本当にすごい。
「陰謀の歴史篇」として17の絵画が取り上げられている。欧州文明の中で生きてきた者として、改めて欧州の歴史の重厚さを知る思いだ。卓越した名文、リズミカルで歯切れがよい。どんどん歴史の中に、引き込まれる。面白い。
絵画にもふれてきた。音楽にもふれてきた。そして欧州文明のなかで生活もしてきた。しかし、高校の世界史以来、学んでこなかったことを思い知る。ドラローシュの「ロンドン塔の王子たち」、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」、ティツィアーノの「カール五世騎馬像」、ラファエロの「レオ十世と二人の枢機卿」、グレコの「ラオコーン」、ゴヤの「異端審問の法廷」・・・・・・。
その時代の権威、権力、宗教、文化、風俗、恐怖・・・・・・。面白く、息吹、臨場感が伝わってくる。
「天国はいらない、ふるさとがほしい」――。ロシアの共産主義革命に批判的だった詩人・エセーニンの詩の一節だ。チェルノブイリの原発事故で汚染されてしまったナージャ村で、村を離れずに生き続けた農夫が、このエセーニンの詩を暗唱したという。
本著は松本健一さんの講演集だが、背景には東日本大震災がある。そして当然、近代、文明、歴史、日本再生、アジア、日中や日韓関係が語られ、確かなる視点、思想が示される。その核心は、パトリオティズムだ。「限界集落」「コメづくり(泥の文明と文化)」「国の自然を保全してもらうナショナル・トラストの担い手」「一所懸命のエートスをもつ民族」等を語る。
「人はパトリを失って生きていけるのか」「パトリオティズムこそ、私たちの長い歴史のなかでの人間の生き方だ」「各国ともネーション・ステート(近代の国民国家)をつくる方向で進んできたが、それはふるさと喪失のドラマでもあった。しかし若者の言語のなかにも、緑の多い風土に安らぎを感じる文化的遺伝子"ミーム"が刷り込まれている」――これからの日本の歩むべき道を根源的に示している。
流通は経済のさまざまな面とつながっている。メーカー、問屋、小売業の関係が激変し、チャネルリーダーの地位を確保する戦場でもある。都市の形成、中心市街地の状況、人口減少・高齢社会の消費行動、ITの技術革新、海外との貿易や投資などの変化がただちに反映する激しい世界だ。
「"そうは問屋が卸さない"というが、最近は"そうは問屋に卸さない"という人もいる」「流通業の変化の縮図が問屋にある」「徹底した少品種多量で勝負するユニクロのビジネスモデル」「情報通信技術が流通業の変化の大きな原動力」「都市の変容と百貨店の反撃(百貨店の内外への商業集積)」「チャネルリーダーの小売店へのシフト(家電、化粧品、大衆薬など小売店の大型化)」「第1回ノーベル経済学賞のヤン・ティンバーゲンのグラビティモデル(引力)と二国間貿易」「アジアの中産階級の台頭で貿易は今後増える」「アジア市場の激化と銀座店によるブランド発信(ユニクロ等)」「観光客に日本ブランド(食、文化、商品)を発信せよ」・・・・・・。
アジアの需要を内需ととらえる肺活量を――そう私は言ってきたが、伊藤先生は現場を踏まえた動体視力をもって、より専門的に分析・提案してくれている。「現場から見えてくる日本経済」が本書の副題だ。
ドストエフスキーの巨大さ、偉大さは「人間とは何か」の問いに全精神力を傾注して、人間実存にひそむ深淵を明るみに出した点にある。「地下生活者の手記」「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフ兄弟」は、悪徳の跳梁する事件の人間心理の日常性をはるかに越え、人間の業、霊性の深奥の次元から人間実存の深刻な問題性を意識させる。「ロシア最大の形而上学者」(ベルジャーエフ)といわれるゆえんだ。
本書では、まず「人間学―社会主義社会の蟻塚と人間的自由」を示す。そこには「神と人間」の苦痛に満ちた問題が常にあり、当時ロシアを風靡する人間理性に基づく科学的、合理主義的ないし功利主義的世界観とそこにふくまれる人間観への批判がある。人間は非合理的存在であり、その主要な目的は、自分自身の恣意によって生きること、自由な意志にある。「功利主義者、実証主義者、科学的社会主義の理論家たち――ベンサムやコントやマルクスたちが提示する理想社会の青写真は眺めている場合にだけ美しいのであり・・・・・・"蟻塚"にすぎず、住まうのは人間ではなくて畜群」なのだという。
その自由探究の途は、背徳とニヒリズムへの"人神"に導くことを、キリーロフやラスコーリニコフ、イワン、カラマーゾフたちの悲劇の人物として描く。「神がなければ全ては許される」――神と最高善とに対する叛逆の途だ。イワンらの悲劇的運命を通して、バクーニンやシュティルナー的無神論の陥弄を暴露している。それは大審問官の「自由(天上のパン)と地上のパン」「人類愛が人間蔑視に堕すこと」「自由の重荷」「従順な畜群と全体主義的権力」に凝縮される。「神と人間」の問題だけではなく、無神論的社会主義、さらにはスターリンの独裁、ナチズムの心理構造としてのエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」へと連なるものだ。全体主義的民主主義の精神的弁証法を指摘したニーチェ、民衆にやさしく、ていねいで、人道的な全体主義的福祉国家が民衆を幼年のままにおく民主政治の危険性を指摘したトクヴィル――ドストエフスキーは早々と世俗的・自然的ヒューマニズムの陥る袋小路を摘発したのだ。「悪霊」の人神、キリーロフはニーチェの哲学を先取りしていることは明らかだ。
神を見失った現代人は、神なき世界のなかで、その空虚を満たすべく一時の思想や理論をあみ出し、また思考停止に日常を委ねている。本書は1968年に書かれた。哲学不在、問うことさえかき消された今日だが、昨年は、ニーチェが静かなるブームを呼んだという。その意味でも本書の意義は大きい。驚嘆すべき力作。
