副題に「地球システム論と文明」とある。
「科学の力によって圧倒的な時空を手に入れた20世紀。我々は、宇宙、地球、生命、文明について、どこまで知り得たのか」「地球を飛び出し、地球を俯瞰する視点を手に入れた21世紀の我々・・・・・・。その圧倒的な情報を元に、新たな自然観、歴史観、世界観を確立し、それを元に新たな思想、哲学を探ること。それこそが現代において『我々とは何か』を問うことだ」と松井さんはいう。
その「我」は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の「我」とは少し異なる。「外界、すなわち家族や社会、自然との関わり、その過程を通じて形成されるのが我であり、そのあらゆる外界との関わりの中で、脳の中に蓄積された内部モデルが人生ということだ。我関わる、ゆえに我あり」だ。つまり「我」は外界との関わりのなかでつくられる。だからこそ「人間はどのように生きるべきか」は「人間圏はどのようにあるべきか」「人間圏の議論を深めることが、人間論を深めることにつながる」――。
松井さんの著書「地球・宇宙・そして人間」を読んでもう25年にもなる。その後も根源的な視点を常に示してくれている。昨年の3・11の津波・原発事故以降、こうした「地球システム論と文明」を問う根源的思索が不可欠だと思う。「3・11と人間圏の創造」で松井さんは「自然の前に我々は無力だ」という前に「自然のことを、我々はまだ何も知らなかったに等しいのだ」と言う。
137億年の時空のなかで、我々とは何かを問い続けるとの指摘とともに、仏法の成住壊空、住劫第9の減をも考え、感慨を新たにした。
ありとあらゆる商業主義の実例が出てくる。現実の今の話だ。
医療、教育、スポーツ、出産、子ども、死、臓器、戦争、政治――あらゆるものがカネで取引され、売買されてしまう時代。しかもそれが全方位で浸透している。市場の論理でいけば、こうした取引は問題はない。裁判で争われることはあっても。
しかし経済学的に、問題はないとしても、「これでいいのか」との違和感を多くの人々がもっている。何か違う。これでいいはずがない。マイケル・サンデルは、誰も説明してくれないこれらの問題に「何が問題なのか」と切り込む。この世には「買えないもの」も「買えるがそうすべきでないもの」もあるはずだ。
「善き生とは」「高級な生き方とは」「人間として生きるということとは」「われわれはどんな種類の社会に生きたいのか」――。商業主義に潜む「退廃」「冒涜」「下品」「失望」「汚染」、そして「神聖さ」「精神性」の喪失。
「経済学者的美徳観は、市場信仰をあおり、本来ふさわしくない場所にまで市場を広げてしまう。・・・・・・利他心、寛容、連帯、市民精神は、使うと減るようなものではない。鍛えることによって発達し、強靭になる筋肉のようなものなのだ。市場主導の社会の欠点の一つは、こうした美徳を衰弱させてしまうことだ。公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある」
「われわれが望むのは、何でも売り物にされる社会だろうか。それとも市場が称えずお金では買えない道徳的・市民的善というものがあるのだろうか」と結ばれている。
「拝金主義」とまではいかないが、「美質の国・日本」にも商業主義は浸透してきている。「どういう社会に生きたいのか」ということを考えることだ。「見えざる社会保障」が社会の進展とともに崩れた日本は、その共同性をいかに再建するか、それもまたこうした問題だ。
東日本大震災から500日余。発災直後から道路の啓開、命のルートを開いた「くしの歯作戦」、救援ルートの確保や人的、物的の両面から市町村支援に全力を上げてきた国交省東北地方整備局。その活動を記録した貴重な本だ。
重要な働きをしたのは、3.11深夜から直ちに始まった被災市町村へのリエゾン(災害対策現地情報連絡員)派遣。そして「棺桶でも大丈夫ですよ」「私のことを"整備局長"と思わず"ヤミ屋のオヤジ"と思って下さい」という3月21日の徳山局長から被災市町村への文書だ。こんな役所の文書があるのだ。国交省が今回、従来の役所の常識を打ち破って重要な働きをしたことがよくわかる。
東日本大震災は、被災地の方々の頑張り、官も民もボランティアの方々、全ての人間の魂の戦いによって、未曾有の国難を突き破ってきていると思う。今も......。
神と人間存在を問うドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の続編を書き、カラマーゾフ事件の真相を究明するというのだから、その勇気にまず驚いてしまう。しかも江戸川乱歩賞だ。物語は「カラマーゾフ事件」から13年後のこと。次兄イワンが未解決事件課の特別捜査官となって、真相究明のために郷里に乗り込んでくる。それに帝国科学アカデミーの会員であり心理学者でもあるトロヤノフスキーが加わる。
無神論者・イワン、そして「天使的」な性格とみられる元聖職者アレクセイ(アリョーシャ)を中心に物語は展開されるが、その命の深淵にはカラマーゾフ家に生まれたばかりのか弱い妹の死がある。イワンの多重人格、アレクセイの倒錯・異常の心の深淵だ。
「カラマーゾフの兄弟」は「大審問官」で神と人間、国家、教会などを圧倒的な力で迫ってくる。重苦しいほど存在そのものに迫る。この「カラマーゾフの妹」は、そうした小説ではないが、「神がいなければ、全ては許される」「神はいない。だから全ては許されている」とイワンとアリョーシャの心因を突きつけつつ、スメルジャコフ、リーザなど関係者の打ちのめされた心理をも加えて謎解きにとりかかる。1800年代後半から立ちあがるニヒリズムと科学をその背景として描いている。
経済、政治、教育、社会保障、エネルギーについて、各分野の若き研究者がそれぞれ語る。従来の大上段の分析、理論、解決策の提示とは全く違う。若い、新しい、自らつかんだ現場のデータを駆使、具体的、実行している側に立ってのもので、刺激的だ。
一般の風説に惑わされない。的はずれの一点突破ではない。理屈をいっても動きをつくれなければ意味はない。データを積み上げなければ行政は動かない。そうしたクールな世界が開示される。
エネルギーでも小規模分散型の自然エネルギーを事業として成立させるにはどうするか。地域から現場から具体例を示しつつ打開策をたんたんと語る。「ひきこもり」に対しても原因を示すだけでなく、実際に行なっている大学のひきこもり支援政策と成果を示す。経済では従来からの経済学ではなく、現実の制度を修正・設計していく「マーケットデザイン」「ゲーム理論」を紹介する。大野更紗さんは本人の生を尊重するQOLの向上について述べる。
新しい理念、理論と行動を提示しており、そこには情緒やイデオロギーによる思考停止はない。