「改革派」首長の勢いが増している。国から権限等を分けてもらうのではない、地域主権だ。地域の自主性を強く打ち出さないとますます地域は弱くなり、この国は活力を失う。それにしても、国は何でもがんじがらめで官僚に支配されて旧態依然だ――それが首長たちの主張だ。
田村さんは「国が存在感を示せない。そこに地方政治の劇場化が生じる」「しかし、ポピュリズム的政治手法をとる暴走する首長では、地方も国も救えない」「眼前にある現状の問題を変えることこそ大事だ。制度を変えれば良い結果がもたらされるのは幻想だ。制度改正に注ぐエネルギーを、もっと地域を元気にする取り組みに注げ。制度を変えるのは手段の一つであり、地域をどうするのか、元気にするのかというビジョンと実行が先決」という。そしてこれまでの「改革派」首長には"改革をやりっ放し"が多すぎ、中途半端、検証もないともいう。
大阪都、中京都、新潟州、そして欧米の中央と地方の仕組みの検証をし、本当の意味での地方自治の姿を探っている。景気・経済・財政、外交や歴史、人物論などに比して、あまりにも統治機構、地方自治等の論議が少ないことを感ずる。集中的、総合的な論議が不可欠。
山脇さんが2006年に出した「教室の悪魔」(ポプラ社)は衝撃的な本だった。現在の"いじめ"がいかに集団で、対象が入り替わり、残忍で、巧妙に、隠れた所で、ネット等も駆使して行われているか、その核心を突いていた。
本書では"いじめ"の実態を再び抉るとともに、教師自身が、一日百件もの誹謗メール「死ね」「レイプしてやる」などの"いじめ"にあい、噂によって職場を追われる実態にまでふれている。
「信頼される学校」のために、山脇さんは
(1)複数の教員の目で見守る
(2)保護者全員に知らせる
(3)電話ではなく、定期的な保護者会で話し合う
(4)子どもたちには保護者からも伝えてもらう
(5)被害者への質問はしない
(6)アンケートは、活用のルールを子どもに伝えておく
(7)情報は集めても、事実の調査にはこだわらない
(8)さまざまな大人が見守るオープンな学校に
(9)頻繁な保護者会で、連続的なコミュニケーションを生み出す
(10)子ども同士の話し合い
(11)学校内部で解決できない時は、教育委員会や警察への相談をためらわない
――などを示す。
「人間の心には、生まれた瞬間から愛情で満たされなくてはならない器がある」「満たされないと心を苦しめる」「愛情を注ぐことだ」「愛情の器がカラカラに渇いている子どもが、いじめを起こす」と「愛情の器」を満たすことを山脇さんは訴える。
"成功哲学"の著書を次々と出している佳川奈未さんだが、御本人も息子さんにも何年も続いた地獄のような"いじめ"があったと語る。
「1秒あれば、いじめはできる」「持ち物すべてが、隠され、失くされ、壊され、焼かれる」「着る物もトイレに投げられる」「虫、石、泥、釘を食べさせられる給食」「殴られ、金品を要求される」――面白がってやる気晴らしゲームが、閉鎖された学校空間と世間体を優先させて真正面から取り組まない教師たちによって、地獄を生み出す。
「子どもの"無言のサイン"をキャッチする」「キャッチしたら、すぐ学校を休ませる」「学校に相談に行くタイミングと準備」「200%子どもを信じて、愛をもって守り、解決に挑む」――解決に向けて、やるべきこと、やってはいけないことを具体的に佳川さんは示す。
2学期からとくに"いじめ"はひどくなる。子どもを悪夢の毎日から救い出さないといけない。必読の本。
天道是か非か」「戊辰戦争とは何だったのか」「順逆史観」――。
基本資料を読み解いて、史実の歪みを正す。短いエッセイや史論のなかに、知名度の高い人も無名の人も登場させ、新たな角度を示してくれる。
「知られざる名将・長野業正」に始まり、
「柴田勝家は単なる猪武者か」
「浅井長政・痛恨の大錯覚」
「似た者同士・源頼家と武田勝頼」
「真田昌幸の生き残り策(「東西にみごろをわける真田縞」と川柳にはあるが、とうに決まっていたはず)」
「お江与の方という女」
「徳川家光の生母は春日の局か」
「江戸城天守閣と保科正之」
「殿中刀傷事件・豊島明重の場合」
「江戸時代の名裁き三例」
「坂本龍馬が明治を生きる」
「東洋一の用兵家・立見尚文」......。
さらに「邪馬台国論争」
「私の会津史」
「烈婦・山本八重の会津戦争」等々。
人物の真の姿に迫り、明快で、心があり、面白い。
日本の戦後外交を動かしてきた最大の原動力は、米国に対する「追随路線」と「自主路線」のせめぎ合い、相克であった。米国の対日路線は、世界戦略の変化によって変わる――。前者は吉田茂、池田勇人、中曽根康弘......。後者は重光葵、石橋湛山、岸信介、田中角栄......。そう孫崎さんはいう。
歴史はそれほど二者にくっきりと分けてつくられるものではないことは、先頃の鳩山政権を見ても明らかだが、あえてはっきりと両者を分けて分析しているがゆえにわかりやすいし、回顧録等を駆使して、新たな視点で切り込んで分析しているがゆえに刺激的になっている。
日米安保条約がどこで誰によって調印されたか、行政協定の意味が重いのはなぜか、安保闘争とは何であったか、米軍基地はいかなる論議のなかで存続しているのか――孫崎史観は、本書ではとくに「60年安保」までを抉っている。1990年以降はむしろ「日米同盟の正体」に詳しい。