言葉を失うほどだ。笹原さんは映画「おくりびと」でも知られる納棺師。故人がどんな状態であったとしても、生前と同じ表情、できるだけ微笑をたたえる顔にする「復元納棺師」。3.11東日本大震災のあとは、それこそ不眠不休で復元ボランティアで安置所を回って頑張り抜いた。想像を絶する世界、想像を絶する戦いだったと思う。
死は人に悲しみをもたらすだけでなく、人をやさしくする。受け容れ難い死を受容してはじめて泣くことができる。そして「ありがとう」という言葉や「こっちも頑張るからね」という言葉、笑いまで出るところまで、笹原さんは心を込め、故人と対話し、家族の思いを引き出す。本当に「有難う」「ご苦労さま」としか言葉が出ない。
「文字がはいってきたころ」「呉音と漢音」「医術用語などは呉音」「なぜ同音の字が多いのか」「万葉仮名」「かなもじの発生」「ことばと文字と文章」――意識にのぼってこなかった「ことばと文字と文章」を解いてくれる。唸ってしまうほどだ。
「女の学校」では、若い娘が島を出る、家を出ての長い旅の習慣が出てくる。宮本常一の「忘れられた日本人」にも描かれる世界だが、背景として渡辺京二の「逝きし世の面影」にふれている。
「平田篤胤と片山松斎」では平田の「霊の真柱」について「この本は実にばかばかしいものである」「日本尊しの狂信」とし戦時教育において行われた「日本は神の国である」などの源流を解き明かしてくれる。
「ラバウルの戦犯裁判」では、戦後裁判がアジア各地で行われ、いかに戦後が苦しみのなかにあったか、丁寧に調べて、息苦しいほどだ。
「閔妃殺害」は1895年、まさに日清戦争の時だが「日本・朝鮮・清・ロシア」の支配の背景を抉りだしている。
「昭和十年代外地の日本語教育」も侵略と統治を考えさせられた。日本(人)は、どうもイデオロギー、思い込み、思考停止、に走ってしまう。一つ一つ現場を、文献等を、そして聞き、歩いて、積み上げて、物事を全体的に、また内から把握することがいかに大事かを思い知らされる。
「三つの領土問題はそれぞれの力点が異なっている。北方領土は"歴史問題"、竹島は"政治問題"、尖閣諸島は"資源問題"が主である」と保阪さんはいう。東郷さんは、「日本の国際場裏における力の弱体化が背景にある。経済力、政治力の弱体化に、日米関係の混乱が拍車をかけた」といい、「領土問題が思考停止となっている」ことに警告を発する。
毅然たる姿勢というのは「強気一点張り」ではない、将来にわたっての展望を見、戦略性をもち、外交力を駆使して、命をかけてやれば必ず拓かれる。
たとえば、北方領土問題は、"領土問題"ではない。歴史問題だ。民族の屈辱として受けた"裏切り、残虐、領土的野心"の三つが残ったのだ、と指摘する。
鍵になる文書は(1)1951年署名のサンフランシスコ平和条約(2)1956年署名の日ソ共同宣言(3)1960年のグロムイコ声明――とする。そして「日本の一発勝負案とロシアの妥協案」として三つの合意文書、「1991年の海部・ゴルバチョフ声明」「1993年の東京宣言(細川・エリツィン)」「2001年のイルクーツク声明(森・プーチン)」を示す。当事者だけに生々しく、激しい熱さと息づかいが聞こえるほどだ。2006年からの「面積等分論」の浮上やプーチンの心の動きを歴年ごとに語ってもいる。メッセージをかぎとり、チャンスをつかむことができたのに失敗したという外交の反省も随所に語られている。
竹島をめぐる1905年以前の歴史をたどり、編入時点における竹島「無主」の問題、日韓のギャップのなかでの1998年の日韓漁業協定、そして今日。尖閣については、「あらゆる外交的手段を尽くして武力衝突を回避する施策を」と訴える。
「手遅れになるな」――東郷さんの主張が出ているが、本書は今年2月発刊。事態は進んでしまっている。更に「手遅れになるな」だ。日本の総合力もだ。
本紀から列伝に至る「史記」130巻から選んで現代語訳を加える――大変な作業だと思うが、人物の魅力は活写されている。
「権力にあるもの帝王(堯・舜・湯王・始皇帝・劉邦)」
「権力を目指す英雄たち(伍子胥・蘇秦・張儀・項羽)」
「権力を支える補弼の臣下たち(張良・陳平・韓信など)」
「権力の周辺にある道化・名君・文学者たち(信陵君・司馬相如など)」
「権力に刃向かう刺客と反乱者たち(予譲・荊軻・陳勝)」が描かれる。
私にとって「史記」といえば、衆院本会議でも引用したことのある国の滅亡は「その本を失う」(人間の基本が崩れるゆえ)という一国の興亡、そして司馬遷の人生そのもの、何ゆえにこれほどの大著をあらわしたかという執念だ。
「司馬遷は生き恥さらした男である」から始まる武田泰淳の「司馬遷―史記の世界」は、最初のページから一気に引き込まれるもので、今も衝撃は鮮明だ。前漢に書かれた全世界史「史記」の政治的人間像は常に新しい。