「『アマチュア資本主義』を活かす途」が副題。日本はなぜ30年もの長期停滞から抜け出せないのか。それは時代に合った果敢な「投資」をしてこなかった当然の帰結だ。設備投資額の低迷、人的資本への投資不足、デジタル化の遅れに見られる投資の質の低下。要するに供給サイドの政策不足であり、日本は「開発独裁」から「プロフェッショナル資本主義」への切り替えに失敗したとデータを徹底検証して解き明かす。
なぜ日本の投資はここまで増えなくなったのか。「日本企業は需要に合わせて設備投資を行う傾向が強く、バブル崩壊後の低成長期には過剰設備となった」「1997年からの金融システムの崩壊で、日本企業は単独で投資リスクを超えなくなった」「2010年代初頭の円高で、製造業は内需の成長ではなく生産拠点を海外に移した。円安となっても戻ってこない」「デフレが続き、実質金利の高止まりは設備投資を減少させ、収益を実物投資に回すより現預金の蓄積に向かった」とし、最大の要因は「日本企業が収益率の高い投資機会を見出せず、米国のICT革命の時期はリストラの最中。新たなビジネスチャンスとなる技術革新に乗り遅れた」と分析する。日本は新たな分野への挑戦なしに既存設備の削減がダラダラ続いてきた、需要を掘り起こす進取がない。資本蓄積が極端に低下して供給力低下した。その背景には、日本企業の躍進を支えたメインバンク制などの資金面、長期雇用・年功賃金制など労働面の慣行の崩壊がある。日本の個人レベルの行動よりも「ムラ」レベルの意思決定が優先される「アマチュア資本主義(意思決定は遅く、人間関係の協調性が重視され、労働者の満足度も専門的な能力が賃金に反映されず低い)」だと断言する。それが中途半端なデジタル投資に反映してしまっているし、人の配置にも改革が行われていないと言う。
そこで「日本経済の選択肢」を示す。2000年以降、マイルドなデフレ現象が経済の停滞をもたらしたということから「財政金融政策」に関心が集中したが、それは基本的には短期的な政策である。大事なのは真の成長戦略。そのために「デジタル化なくして真の成長なし」と強調する。「ソフト面での遅れが顕著な日本のデジタル化は、ビジネス面だけでなく、安全・安心面での進化にとっても必要である」と言う。
もう一つは「人材への投資」だ。デジタル投資はハードの投資に対して、ソフトウェア投資の比率が高いがゆえに、優秀な人材をいかに集められるかにかかっている。そこでは「少子化が人手不足時代に入った」「キャリアの上昇が図れる労働市場の流動化」「学校教育と企業内外の人材育成システム」の重要性を示す。
そして「市場経済では『プロフェッショナル資本主義』に基づく競争を徹底させ、非市場経済については『アマチュア資本主義』で運営すべきである」「日本では、市場経済でも、アマチュア的な考え方が入り込んでいることが問題」「豊かさで、経済的豊かさ以外の部分がクローズアップされることはあるが、経済的豊かさが維持されなければ、全体の『豊かさ』も低下していく」と述べる。
いずれにしても、幅広い新たな「投資」の重要性を指摘する。金融・財政政策が強調され論議されることが多いが、「投資」「成長」「生産性」「日本企業」にデータを示しながら迫る大事な著作。
「大規模調査から見えてきた『隠れた多数派』」が副題。リベラルが衰退してると言われる。最近の選挙でも既成の左派政党が伸び悩んでいるのは事実だ。もちろん時代が「デジタル・ポピュリズム」「アウトサイダー・ポリティクス」で多党化時代となっていることはある。では、リベラルと言われた人はどこに行ったのか。人々のあいだで、本当にリベラルな価値観は忘れ去られたのか。そうではない。本書は、従来のリベラルではない「新しいリベラル」という人々が存在している。「社会的投資国家」「人間の成長に希望を見出す」という「新しいリベラル」が日本には存在し、この人たちが実は最多数派を占めていると大規模な社会調査から示している。貴重な実証的研究だ。
「従来型の『旧リベラル』は、日米安保反対、憲法9条改正反対、天皇制反対、従軍慰安婦問題への謝罪を根幹としながらも、福祉国家政策の支持や伝統的社会からの解放を枝葉とするイデオロギー」で「私たちの調査では1%に満たなかった」と言う。自衛隊違憲、非武装中立などはかなり遠くなっており、それは姿を変えているものの軸としての「従来型リベラル」は衰退している。
そこで「新しいリベラル」――。「従来型のリベラルは『弱者支援』型の福祉政策を支持するのに対して、新しいリベラルはすべての人を成長させる『成長支援』型の社会福祉政策を支持する」「従来型のリベラルは高齢世代への支援を重視するのに対し、新しいリベラルは子育て世代や次世代への支援を重視する」「従来型のリベラルは、反戦平和や戦後民主主義的な価値観を抱いているのに対し、新しいリベラルは『戦後民主主義』的な論点には強くコミットしていない」ことを調査に基づいて論証する。決して弱者を切り捨てるのではなく、社会的投資を通じて人々の潜在能力を発揮できる環境整備を目指す。救済と言うより成長を促す未来に向けての人への投資である。
この社会調査は、6つのグループ、「新しいリベラル」「従来型リベラル」「福祉型保守」「市場型保守」「成長型中道」「政治的無関心」の6つに分けて分析をしている。そしてこの中で「新しいリベラル」が最多数派を占めると言うのだ。この「新しいリベラル」の特徴は、①子育て世代の割合が高い②女性も多く、大卒・院卒の割合も高く、正規雇用や公務員の割合も高い、安定的に生活を営んでいる人が多く、仕事を通じて成長したいと思っている人③身近な人間関係重視しており、家族や友人と過ごす時間を大切と考えている――ようだ。ちなみに、「従来型リベラル」はやや苦しい生活を送っている高齢女性の割合が高い。「福祉型保守」は、安定した生活を手に入れた高齢者の割合が高い。「政治的無関心」は独身の男性中年層が多いと言う。
「新しいリベラルの政治参加」は注目される。社会的投資型の社会福祉政策を望ましいものと考える意味で、成長論的な自由主義の支持者でもある。戦後民主主義的な価値観とは強くコミットせず、自身の政治的立ち位置についても明確なイメージがなく、子育て世代が担い手となっているが、幅は広い。注目すべきは「新しいリベラルは、自身の政治的価値観に合致する政党を真摯に探しているのだが、そのような政党を見つけられずにいる」「子育て支援や教育政策に力を入れる政党に投票したいと思っているが、現在の日本においてそのような政党は見当たらない」と指摘している。公明党はまさにそうだと思うが、その受け皿になっていないと言う調査となっている。「子育て世代の声」が政治の世界に届いていないということになる。
リベラルは、従来から人権など極端な政策を提起していくようだが、「新しいリベラル」は、LG BTQについても改革的ではあるが極端に神経質ではなく、また平和の問題では戦後民主主義的な反戦平和主義にはコミットしていない。軍事的なリアリズムの立場に理解を示すが、しかし「非核三原則」については堅持が強く出ている。この点の分析もされているが、現場を歩いて多くの人と接しているがわかる気がする。
思想的に論陣を張るのではなく「大規模調査」から「新しいリベラル」「将来への社会的投資重視」「人への投資」を可視化した貴重な研究に敬意を表したい。この未来を志向する「隠れた多数派である新しいリベラル」にはバラマキは通用しないことになる。
「ポピュリズム時代の民主主義」が副題。近年、世界各国の政治は、ポピュリズムにSNSなどが加わる「デジタル・ポピュリズム」に覆われている。日本では7月の参議院選で、「右のポピュリズム」参政党など、「左のポピュリズム」れいわ新選組などが躍進。既成政党は、いずれも苦戦を強いられて敗北、一気に多党化時代に突入した感がある。この世界を席巻するデジタル・ポピュリズムの時代――SNSなどを活用して既成政治を批判し、その周辺から攻撃的に勢いを増す各国のアウトサイダーの政治(家)たちの実像を、水島治郎さん、中北浩爾さん、古賀光生さんら各国政治研究の第一人者たちが分析する研究論文集。10年以上遅れて、日本にその波が押し寄せてきたことがわかる。
「ポピュリズムは、反エリート主義とともに反多元主義を特徴とし、直接民主主義的な政治手法を重視する。現在、欧米諸国では、①自民族を優先する排外主義を掲げ、権威主義的な色彩の強い右派ポピュリズム②新自由主義に基づく緊縮政策に反対して公正な分配を求め、平等と包摂性を重視する左派ポピュリズム、の2つが潮流となっている(中北浩爾)」。ヨーロッパの左派ポピュリズム政党は、伝来の社会主義政党が中道化して、新自由主義的な政策を採用するなか反エスタブリッシュメントとして台頭、日本のれいわ新選組は、格差是正のための反緊縮と財政出動、消費税の廃止、権力と戦う姿勢の強調など、ヨーロッパ左派ポピュリズムと同様の行動をとる。一方、欧米の右のポピュリズムは、グローバリゼーションの中における自由化・市場化による格差と敗者、加えて移民問題の脅威との相互作用によって、反移民急進右翼政党の「主流化」がもたらされているとする。
本書は「転回するヨーロッパ政治――既成政治の融解」として英国、ドイツ(ドイツのための選択肢AfD)、イタリア(五つ星運動の盛衰)、フランス、ベルギー、オランダ(空き家占拠運動の60年)を取り上げ、そのポピュリズムの明暗を政治学者が分析している。極めて興味深い。「グローバル化や欧州統合のもとで、各国の市場化・自由化の違いが、民衆階層における地位低下の脅威感の現れ方に重要な相違を生み出したことが明らかになっている」ことが分析される。それぞれの国のポピュリズムが、違う結果をもたらしているのだ。
「『アウトサイダー』時代のメディアと政治――脱正統化される『20世紀の主流派連合』」(水島治郎)はメディアに注目する。かつてはメディアと政治は相互協調にあったが、「新興勢力たるアウトサイダー・メディアやアウトサイダー政治家による『脱正統化』攻撃にさらされている」と言う。「ジャーナリストと政治家という職業がいずれも『半専門職(資格試験があるわけではない)』であり、アウトサイダーによる批判・参入に脆弱である」ことを指摘する。大変困難な時代になったということだ。「ネット空間を活動の場とするアウトサイダー・メディアなくして、アウトサイダー政治家(政党)なし」であり、既存メディアの正統性が揺らいでいる状況だ。「フェイクニュース現象はデジタルメディア時代の落とし子」である。それにどう対処するか、相当の模索と努力が必要となる。
さらに根源的、本質的変化がある。政治家にとって有権者にアクセスするためには「大量の印刷物や組織」は不可欠、つまりメディアや主流派政党への帰属が重要であったが、デジタルメディアの発達はその参入障壁を簡単に突破する。アウトサイダーによる批判、「脱正統化」にさらされるわけだ。アウトサイダー政治家とアウトサイダーメディアは手を携えつつ、主流派政治家・政党と主流派メディアを下から批判し崩すわけだ。しかし、欧米を見ると、アウトサイダーからインサイダーに入ったとき、「アウトサイダーのジレンマ」に遭遇する。「アウトサイダーはインサイダーの敵が必要である」わけだ(イタリアにおける五つ星運動の盛衰)。妥協困難な対立にさらされ、不安定にならざるを得ない。アウトサイダーたちが主役をはる民主主義は、いつ瓦解してもおかしくない「薄氷の上の民主主義」のようなものと水島さんは分析する。
「アウトサイダー・ポリティクス」「ポピュリズム時代の民主主義」「デジタル・ポピュリズムと政治」という現在、最も重要なテーマに挑んでいる素晴らしい学術研究の書。
数学者・新井紀子さんのはじめてのエッセイ集。いやあの名著「AI vs.教科書が読めない子供たち」で「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞したというから2冊目ということになるのだろうか。数学者のエッセイと聞いただけで、硬い論文のように思うが全く反対。面白すぎる。深いしとても刺激的。
ごく日常を率直に語っている。数学嫌いだった新井さんが今、AIデジタル社会の希望と危険性の最前線を牽引している。その波瀾万丈の人生折々のドラマにも驚くが、それを生み出し捉える生命力と感性に感心した。「面白い」とは「面の前がパッと開ける」、問題解決のあの瞬間を言うようだが、一つ一つ率直に語るエッセイはまさにその面白さの連続。ベルクソンは「問題は正しく提起されたときそれ自体が解決である」と言う。本書で「宇宙は数学の言葉で書かれている(ガリレイ)」「定義は何もないところから言葉、そして概念を生み出す行為」と数学を語っているように、常に本質に迫ろうとする姿勢が、日常を語る各エッセイにも奔り出て楽しくなる。文章はうまい。リズムがある。しかし文章がうまいとか、話が上手などと人はよく言うが、中身があるからこそ面白いのだ。とにかく数学だけでなく、料理といい、犬や猫といい、ボウリング、編み物、そして人との出会い・・・・・・。驚くことばかり。とても良いエッセイ集。
「話芸が好きだ(猫と金魚と喫茶店)」「そんなに楽をすると大切な何かを失うに違いない。学生の知性が低下したのは、生協にコピー機が導入された年からだ。・・・・・・『文字で残す』ことの利便性に興奮するプラトンをソクラテスは戒めた。得たなら必ず何かを失う(夏蜜柑とソクラテス)」「我が家の年末も忙しい。お節料理の準備を始める(昆布を炊く)」「物心ついたときには、私はすでに倹約家だった。・・・・・・私は編み物をよくする(筋金入り)」「1984年。22歳の冬休みを私はイリノイ州のシカゴで過ごした(マンザナールの子供たち)」「(イリノイ大学に留学して3年)落ち込んだときほど、生きている人間の音楽を聴く。今は前が見えなくても(赤い雨)」「手作りの縫いぐるみの人形を娘に(うちのリカちゃん)」・・・・・・。
「書かれた通りにやってみれば、必ずや確かな数学とおいしい料理をテーブルに並べられること請け合い(これさえあれば、生きていける)」「私は定理を理解するより、定義が示す世界観を感じることに強く惹かれるようになった。・・・・・・わかったときにこそ、見える景色は広くなる(「解ける」より「わかる」が尊い)」「このような経験の蓄積による因果関係の把握のほかに、人類は未来予測のための別の手段を手に入れた。それが数学という言葉である(数学の言葉が果たす役割)」「もしAIが、eとπ以外の『本質的な超越数』を発見したなら、人間だけでは見られなかった光景だな、と思うかもしれません(博士に愛されない数)」「ホワイトカラーの仕事の5割をA Iが奪っても、介護や屋根の雪下ろし、公衆トイレの掃除などをAIやロボットが担える日が来る見通しは全く立たない(ロボットは東大に入れるか)」「GDPは富の指標にはなりますが、幸せを保証しない。過去に受賞された女性の書き手と同じように、私にとっても最大の関心事は身の回りの具体的な小さな幸せです(卵を料る:日本エッセイスト・クラブ賞受賞の言葉)」・・・・・・。
「結婚した相手が無類の蕎麦好き。・・・・・・政策決定を、AIという名の統計に任せてはだめ(雪降る里の蕎麦)」「あるお茶会の話」「怪しいメール(メインステージからの風景)」「フィールズ賞が3人も(ハーバードのお誕生日会)」「定理を釣る」「人間キャンセル界隈」「AI技術は『正しさとは何か』という哲学的な問いを捨て去ることによって発展した。ChatGPTという『パンドラの箱』を開けてしまった(哲学を捨てる)」・・・・・・。
「私は根っからの運動音痴だ。なのに、水泳とスキーとボウリングはそこそこできる。学校ではできなかった。プロのレッスンはボールの選び方のような基本中の基本から始まる。スキーも教える『型』がある(運動音痴と読解力)」――これがまさに「リーディングスキルテスト」「シン読解力」だ。最後の「魔法を学ぶ(令和5年度一橋大学入学式に寄せて)」は素晴らしい。師弟の重要さでもある。人生は、師弟の出会いで決まる。
外国人観光客が年間4000万人になろうとしている。外国人労働者は今や日本に欠かせない。外国人と共生する社会――変化する現在の日本で極めて重要な課題だ。それは「国も文化も違う人々とわかり合って生きていけるか」というシンプルな問題だが、「相手の身になって考える」ことが意外に無頓着と傲慢で放置されてきているのではないか。現代日本が直面するこのテーマに、誠実に自分のこととして迫っている秀逸な作品。
中学2年生の桐乃は、神奈川の端、東京寄りの古い巨大な団地に住んでいる。その中の家賃の安い低層団地には日本人だけでなく、ベトナム・中国・カンボジア・フィリピン・ブラジルなど多くの外国人が暮らしていた。学校でも、様々な国籍の生徒がいて、日本語の習得も充分でなく貧富の差も激しく、いじめも横行していた。その苦しんでいる一人が、ベトナム人少年・ヒュウ。一方、桐乃は両親と3人暮らしだが、母親の里穂は外国人へのサポート活動に熱心。桐乃は振り向いてくれない母に苛立ちと疎ましさ、孤独を感じる。学校でも鬱屈を抱えていた桐乃とヒュウは次第に心を通わせる。
一学期が終わって夏休み。ヒュウは自分の母を捨てた父親を捜すために団地を抜け出す。「自分の居場所がない。この国にも、学校にも、家にも」と感じるヒュウ。「娘の私より、他人を優先するんだ」「この団地からとにかく脱出して遠くへ行きたい」と思う桐乃。団地を出たヒュウを追う桐乃。娘の家出に激しく後悔する母・里穂。
「父さんに会いに行く。あの高い煙突のある街に行く」――。そこで職場を逃げて助け合っているベトナム人技能実習生たち、ボートで命からがら沖縄にたどり着いた難民のヒュウの祖父・・・・・・。二人は初めての生々しい話を聞くのだった。
「馬鹿みたいなこと言われて、それにいちいち私が怒って・・・・・・。私が変わって欲しいと思っても、まわりは変わらないと思う。前と同じような毎日が続くんだろうけど・・・・・・だけどね。あんな学校だけどね、私、やっぱり学校に行きたい。勉強を思い切りしたい。知らないことをもっと勉強したい」「ヒュウ・・・・・・、おじいさんの家に連れてきてくれてありがとう。こんな海を見せてくれてありがとう。私、今年の夏休みのことは、一生忘れないような気がする」「フラフラと遊んでいないで勉強するんだ、ヒュウ。ぼやぼやしていると、人生なんてあっという間に終わってしまう。自分の人生を少しでも良くするために、何が必要なのか、必死に考えろ」「生きようと、お前の人生はお前のものだ。誰のものでもない。それがどんな人生でも、自分の人生を愛し、生きるんだ」「おまえにできないことなんて何にもないんだよ。つらいことがあるのなら闘え。それができないのなら耐えろ。終わりのない嵐なんてないんだ。いつか必ず去る。いつか必ず晴れる」「(インドシナ難民の同じクラスの)タオが言ったの。『私は日本が、日本人が怖い』って。・・・・・・でも、私は言ってしまったんだよね。『日本も日本人もそれほど悪くないと思うよ。タオがもっと日本に慣れたらさ』って。・・・・・・いちばん言われたくない言葉だよね。それを私はいちばん大事な友達だと思っていたタオぶつけてしまったの」「(ヒュウの体が震えた)私なら、許すと思ったのか? 私たちが日本の社会に受け入れてもらうために、どんな苦労を乗り越えてきたか、おまえにわかるか? 少しずつ積み上げてきたものを同じ国の仲間が蹴り崩していく、その悔しさがわかるか?」・・・・・・。
それをずっと見つめてきた団地の給水塔。虹がかかるが、また消える。だが、苦しいものの見た虹は心に残る。違うからこそ、共に生きるからこそ世界は広がり面白い。