1789745984509.jpg「リチャード・ローティの哲学」が副題。「分断」の線が100年前のように国と国の間に明確に引かれているだけでなく、同じ国の中で生きる市民たちの間にもはっきりと引かれてるような今の状況。相容れない集団同士の対立、互いに「われら」「やつら」と対立し、さらに昨今、「正しさ」がSNSで攻撃し合う社会となっている。この「『正しさ』で殴り合う世の中で他者とどう語り合えるか」「わかりあえない他者を敵にしないためにどうするか」――。リチャード・ローティの哲学から、「それでも人が共に生きる可能性」を問いかけ、"正しい"結論を求める「議論」「対話」ではなく「会話」の重要性とその可能性を指し示す。

ローティは、リベラルを自認していたが、「『正しさ』を武器のようにふるう攻撃的な立場ではなく、『正しさ』に伴う攻撃性に向き合い、抑制的であるように努め、それを自らに課す態度」「ことばづかいこそが決定的に大切なのだ」と言う。そして「『絶対的な正しさ』や『客観的な根拠』は有害でさえあって、きっぱり手を切るべきだ」「客観性(絶対的・必然的な正しさ)ではなく連帯を」と言う。「否応なくバラバラな世界で、バラバラなまま、しかし共に生きるために、どんなことばを使うべきなのか。事実に向かい合い、お互いに降りかかる苦しみや痛みが取り除かれるよう願うこと、手を携えること、ことばを交わすこと。それが連帯だ」と言う。ネガティブ・ケイパビリティが必要だと思う。

伝統的な哲学はプラトン以来、「真理を探求するもの」「普遍を求めるもの」とされてきた。デカルトも「普遍的なものを客観的にどう認識するか」、西洋分析哲学(言語哲学)である。その意味で、ローティは「アンチ哲学」となる。「哲学の役割は、正解を出して会話を終わらせることではなく(黙らせることを目指さない)、人々が会話を続けられるようにすることだ」「真理ではなく言語実践。哲学は、永久に答えが出ないような話をするのではなく具体的なことばづかいの問題にこそ固執すべきなのだ。ことばを使って自由に自己創造ができる」と言うのだ。

ローティは、「哲学と自然の鏡」「偶然性・アイロニー・連帯」を主著とするが、「アイロニーの対極にあるのは常識である」「自分の終極の語彙が、絶対のものだとは思わず『さらに良い』方向へ向かっていこうとするのがアイロニスト」と言う。常識は「自分が正しい」を招いてしまう。そして「公と私が合致する『共通の本性』などはない」」「『公私の一致』という理想が人を黙らせる」と言う。そして「リベラル・アイロニストであるからこそ、それぞれバラバラなままで、それでも共に生きるという『連帯』の希望を抱くことができるのです」と著者は導き出している。

「ことばによる『非-人間化』に抗う(われわれとやつら、やつらは人間ではなくゴキブリ)」――。「連帯」は、真理の探求や知識の基礎づけによって発見されるのではなく、個別の人間に対して、同情やシンパシーといったものを手がかりに創っていかざるを得ないものだと言う。そして「残酷さ」に対する感性を磨き、天から降ってくるような「正義」ではなく、会話によって「われわれ」を拡張することだと言う。それは「小さな手がかりから連帯せよ」「われわれという範疇を少しでも広げることだ」と示唆する。

「分極化した時代をどう生きるか――ローティの『予言』から考える」――。トランプ現象の予言と「文化左翼」批判、攻撃的な自国第一主義と専制政治批判を通じ、「現状を嘆き、根本的な価値転換を謳い、本質的な解決といった空手形を切って、大衆に『改心』を迫るような『知識人』たちの身ぶりを、老いたローティは肩をすくめながら、しかし真剣に戒めている」と言う。

そして「『正しさ』を乗りこなす――『リベラル』を描き直すために」――。「共生の作法としての『リベラル』」「他者と共にいることに耐え、ことほぐ作法としての『会話』」「バラバラな世界で、共に生きる」。たくさんの「正しさ」に取り囲まれている私たちだが、それぞれに異なる「正しさ」を踏まえてどう一緒にやっていくか、終わることのない営為だ。最も普通のようだが、最も難しい営為。現実を直視した臨機応変の自在の知恵のダイナミズムだと思いを深くした。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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