教育者であり、「人生地理学」「郷土科研究」「創価教育学体系」等の優れた著作を著し、「創価教育学会(創価学会の前身)」を創立した牧口常三郎先生(1871年6月6日~1944年11月18日)の幼少から青壮年期の壮烈な半生を描く。小説ではなく、徹底した実証研究・調査によって、今まで曖昧、不明の部分があったところをくっきりと明らかにした研究の書。入念な調査・研究に感心する。
「風雪と怒濤の大地・荒浜に生まれて(父母の離別から始まる悲劇、優等生として勉強給仕の伝説、北海道に渡った本当の理由)」「伝説のかなたに見えるもの(異母妹の誤殺事件の真実、牧口を札幌に連れていった真の人物)」「『人生地理学』発刊前夜の苦闘(発刊の動機、運命を変える嘉納治五郎との出会い、石狩事件と上京)」「絶望的だった『人生地理学』出版に燭光(北海道から東京へ、新居は長屋の土間付き3畳間か、雑誌創刊の相次ぐ激動期に金港堂に入社、志賀重昂との出会い、志賀の批評文を求め岡崎へ、牧口を心底応援した志賀の校閲作業)」「『人生地理学』出版と二つの初版本(独創的でダイナミックな世界観、幻の『人生地理学』第2版)」「創立した通信制高等女学校の過酷な運命(無料の講習会に目を輝かせる生徒たち、講義録の発行保留、恵まれぬ女性の慈善教育事業に挑戦、牧口の辞職とその後)」「文部省時代の苦闘そして飛躍(柳田国男そして郷土研究会との出会い、東京府出向を命じられたのは左遷か、新渡戸稲造の『郷土会』に参加、柳田国男と二人で道志村へ調査旅、新たに小学校の教育現場に復帰)」――。各章で徹底調査、研究の結実を語る。
幾度かの苦難を乗り越える強靭な意志と挑戦し前へ進む姿勢、何をするにも十分な準備を怠らない人、恵まれぬ人・女性に教育をとの暖かい心、志賀重昂・嘉納治五郎・柳田国男・新渡戸稲造らとの心の通い合いと交流の連環・・・・・・。それらの姿がくっきりと浮かび上がってくる。
「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」と、江別市に住む智代に函館の妹・乃理から母・サトミのことで電話が入る。「パパ(猛夫)はさ、お姉ちゃんにだけは自分たちの弱みを握られたくないから、自分からは頼れないわけよ・・・・・・」という。物語は「智代」の話、智代の夫・片野啓介の弟・涼介の嫁となる「陽紅」の話、「乃理」、「紀和」、認知症になったサトミの姉「登美子」の話とリレーでつなぐ。人生には"店じまい"という仕事をやめる時もあれば、年老いて「家族じまい」という人生の区切りをつけなくてはならない時も来る。誰人も逃れることのできない身につまされる話だ。
「ふたりを単位にして始まった家族は、子供を産んで巣立ちを迎え、またふたりに戻る。そして、最後はひとりになって記憶も散り、家族としての役割を終える。人の世は伸びては縮む蛇腹のようだ」「この道は果たして、戻る道なのか征く道なのか――長い直線道路の中央には、午後の日を浴びた白線が続いていた」「徹は人として、何ひとつ間違ったことは言っていない――自分はもしかしたら彼の『何ひとつ間違っていないこと』がきついのではないか。そう思ったところで、美しく撚られていた何本もの糸の、細い一本がぷつんと切れた」「夫は、自分が初めて産んだ子供だと思えばいいのだった。そして、母も子供へと戻ってゆき、父もやがてこの世を去る。乃理の人生はあらゆるものの『母』になることで美しい虹を描き、宝の埋まったところへ着地するはずだ」「離婚してもずっと『良き父』を演じていた男の娘は『良い男』のイミテーションと本物の違いが分からない女に育ってしまった」「新しい一歩を選び取り、自分たちは元家族という関係も終えようとしている――自発的に『終える』のだった。終いではなく、仕舞いだ」「わたし、今日で母さんを捨てることにしたから、よろしく」「結局、別れずにいた亭主とふたり・・・・・・お互いを捨て合うことの出来なかった夫婦は、足並みの揃わない老いとどう付き合っていくのか」・・・・・・。
折り合いをつけながら渡る生老病死の人生を、赤裸々に、また精緻に、巧みな表現で描く。
地球が新たな年代に突入した「人新生(ひとしんせい)」(ノーベル化学賞受賞のパウル・クルッツェンが地質学的に見て名付けた)。人工物が地球の表面を覆い尽くした時代の「人新生」。人類の経済活動が地球を破壊する「人新生」=環境危機の時代。レジ袋やプラゴミ削減などの温暖化対策も、新たな経済成長を企図するグリーン・ニューディールも、政府や企業あげてのSDGsも、ノーベル経済学賞(2018年)ノードハウスの気候変動の経済学も人新生の気候変動対策にはならない。資本主義の際限なき利瀾追求、経済成長ある限り、地球環境が危機に陥るのは必然であり、資本主義による収奪は労働だけではなく、地球環境全体なのだ、と言い切る。スティグリッツの「プログレッシブ・キャピタリズム」も、広井良典の「定常化社会」も、「技術革新の加速化」も資本主義を止めない限り、脱成長はできないという。
ヒントは晩期マルクスの思想のなかにあり、マイケル・ハート等のいう「コモン」という概念だ。晩期マルクスは「生産力至上主義とヨーロッパ中心主義」の進歩史視を転換し、エコロジカルな視点を抱いていたという。「脱成長コミュニズム」という訳だ。「"コモン"を取り戻すのがコミュニズム」「"コモン"のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する」というが、具体策の例として「市民電力やエネルギー協同組合による再生エネルギーの普及」「耕作放棄地への太陽光パネルの設置」「ワーカーズ・コープ」「人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した"ラディカルな潤沢さ"の増加」「使用価値(有用性)に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する」「生産の目的を商品としての"価値"の増大ではなく"使用価値"にして、生産を社会的な計画のもとに置く」「バルセロナの気候非常事態宣言」などを紹介、指摘する。「資本と労働」「下部構造が上部構造を決定する」等、19世紀のマルクスにこだわる必要はないし、無理があるのではないか。矛盾撞着の人間、喜怒哀楽・生老病死の人間論、依正不二の人間哲学がヨーロッパ近代に不足し、人間と自然の対立図式が内包されていること等の自覚をもって、地球環境問題に取り組むことが不可欠だと思う。地球環境が深刻な危機にあることは間違いないのだから。
国際諜報戦争に鈍感な日本。インテリジェンス、経済安全保障の重要性は、「米中衝突の危険」「AI・IoTなどテクノロジーの加速化、サイバー攻撃の激化」を基本構造としてますます増大する。電話・インターネット・無線などを傍受し分析する「シギント」、新聞・雑誌・テレビ等の公開情報を分析する「オシント」、人間力を真髄とする「ヒューミント」。「戦後の日本は、対外情報組織を持とうとしなかった。望まれなかったのだ。警備・公安警察や外務・防衛の情報部門はあるものの、インテリジェンス・オフィサーを海外に配していない。加えて彼らは自らの組織への忠誠心が強い・・・・・・その点で公安調査庁は、政府の情報コミュニティに属しながら人目も惹かず、メディアも関心を払おうとしない。『最小にして最弱の諜報機関』と見なされているが、いつの日か意外に有効な手本として使えるかもしれない」・・・・・・。そんな公安調査庁に目立たないマンガオタクの青年・梶壮太が入庁した。勤め先は神戸公安調査事務所。ある日、丘陵に建つ外国人住宅地をジョギング中、「中国人・中国資本による不動産買収・働きかけ事案」というパソコンの一画面が蘇り、「建設計画のお知らせ」の表示板がフラッシュ・バックする。このことから、北朝鮮の貨物船が戦闘機を密輸しようとした「清川江事件」、神戸の船舶関係のシップキャンドラーに始まるエバーディール社、自動車・トラックの専用船は「死に船」にするが「生き船」にする裏の世界、バングラデシュの「巨船の墓場」、回り回って「空母」に・・・・・・。北朝鮮・中国・ウクライナ、そして米英がからむ国際諜報戦線に足を踏み入れていく。恐るべき世界だ。
「21世紀のグレートゲームが東アジアの地で幕をあけ、日本が米中角逐の新たな舞台となりつつある・・・・・・」「スティーブンは、いま香港のヴィクトリアピークに住み、北京から聞こえてくる鼓動にじっと耳を澄ましている。対決と対話の糸、その意図を精緻に掴むためにも、大陸を望む日本に情報拠点を設け、信頼できる僚友を得なければ――」とこの小説でいう。世界の大変化と激動、その水面下でのインテリジェンスの攻防戦の緊迫が描かれる。
「泣かずのカッコウ」――「カッコウは他の鳥の巣に卵をそっと産みつけて孵化させる。托卵という不思議な習性をもっている。偽装の技や」「俺たちは、戦後日本の情報コミュニティのなかで、最小にして最弱のインテリジェンス機関に甘んじてきた。そのおかげで、同業者やメディアの関心を惹くこともなかった。深い森にひっそりと棲息するカッコウの群れみたいなもんや」。その公安調査庁を描く。
ソ連崩壊、イギリスのEU離脱など数々の予測を的中させてきたエマニュエル・トッド。学術界から反発されていると自ら告白し、激しくマクロンを批判しているエマニュエル・トッドだが、その思考法はいかなるものか。自らの思考法を語り、思考の見取り図を示す。「世界の名だたる哲学者たち、デカルト、カントなどは、私にとっては言葉選びをしているだけ。哲学が現実から完全に離脱しているからだ」「私が研究者人生で何をしてきたか。それは混沌とした歴史のなかに法則を見出すということ」「思考は手仕事だ。コンピュータで書いたことは、切り貼りが何度でも簡単にできてしまう」「考えるのではなく、学ぶのだ。そして読む。歴史学、人類学などをひたすら読み、・・・・・・知らないことを知ったときの感動こそが思考するということだ」「知性には三つの種類がある。処理能力のような頭の回転の速さ、記憶力、そして創造的知性だ」という。
考える際の軸となっているのは「データ」と「歴史」だ。データとはどこまでも「事実からの出発」、観念的哲学やリアリズムを欠いた言説、先入観やイデオロギーなどではない。データをひたすら取り入れ、知識を蓄積する。読んで読んで知識を蓄積していると、ある日突然アイデアが湧く。「歴史」こそが人間を定義する。歴史に語らせるのだ。「人間とは何か」などという抽象的な問いかけから出発すると、どこかで間違える。「人間とはこうである」「人間とは何か」など、ア・プリオリな基盤として歴史的出来事を解釈し、観念から出発すると歴史を見誤る。エマニュエル・トッドの思考法は、徹底したリアリズムを抱く経験主義者であり、イデオロギー・先入観・概念を固定化しない、観念から出発しない、合理主義ではない。経験主義に忠実、徹底して事実(ファクト)を重んじる。何のア・プリオリもなく出発する。
そして「インプット(入力)」「着想」「検証」「分析・洞察」「予測」に至る時間軸をもつ。「ブレーク」「モデル化」「法則」「芸術的行為」と連なっていく。「入力」でいえば、徹底した知識の蓄積、読書、データだ。「脳をデータバンク化せよ。(私の仕事は95%は読書、5%が執筆)(本に書き込み、コメントも書く、手書きはAIにはできない作業)(読んで読んでテーマから逸脱する、逸脱が大切だ)」。そしてデータ収集を積み重ねると「着想」が来る。仮説でもある。そして着想は事実から生まれる。しかも予想外のデータを歓迎する気付く能力の大切さだ。「視点」として、「出発点は常に事実から」「その社会の外側から見る、現実を直視する、アウトサイダーだからこそ見える、外の世界へと出る経験が大切」と語る。納得だ。少しずれている人の方が見えることがあり、「機能しすぎる知性はいけない」とも指摘する。そして「分析・洞察」――歴史学・統計学の思考、相関係数から読み解く(マクロン票は反ルペン票だった)。最後に「出力、アウトプット」――それは書くこと、話すこと。「書きながら考えない」という。「思想というバイアス」「同調圧力に抗う」「何様のつもりだ、などといわれたが、私の家族から受け継いだ"真実に対する倫理観"だ」「今の大学は知性がフォーマット化され、順応主義を生む所となっている」と手厳しい。データと歴史を蓄積し、とことんリアリズム、ファクト、真実に迫る経験主義者の思考の極意が示される。数々の予測の的中も、マクロンへの厳しい批判も、学術界からの反発も、そこから生まれる。