「天国はいらない、ふるさとがほしい」――。ロシアの共産主義革命に批判的だった詩人・エセーニンの詩の一節だ。チェルノブイリの原発事故で汚染されてしまったナージャ村で、村を離れずに生き続けた農夫が、このエセーニンの詩を暗唱したという。
本著は松本健一さんの講演集だが、背景には東日本大震災がある。そして当然、近代、文明、歴史、日本再生、アジア、日中や日韓関係が語られ、確かなる視点、思想が示される。その核心は、パトリオティズムだ。「限界集落」「コメづくり(泥の文明と文化)」「国の自然を保全してもらうナショナル・トラストの担い手」「一所懸命のエートスをもつ民族」等を語る。
「人はパトリを失って生きていけるのか」「パトリオティズムこそ、私たちの長い歴史のなかでの人間の生き方だ」「各国ともネーション・ステート(近代の国民国家)をつくる方向で進んできたが、それはふるさと喪失のドラマでもあった。しかし若者の言語のなかにも、緑の多い風土に安らぎを感じる文化的遺伝子"ミーム"が刷り込まれている」――これからの日本の歩むべき道を根源的に示している。
流通は経済のさまざまな面とつながっている。メーカー、問屋、小売業の関係が激変し、チャネルリーダーの地位を確保する戦場でもある。都市の形成、中心市街地の状況、人口減少・高齢社会の消費行動、ITの技術革新、海外との貿易や投資などの変化がただちに反映する激しい世界だ。
「"そうは問屋が卸さない"というが、最近は"そうは問屋に卸さない"という人もいる」「流通業の変化の縮図が問屋にある」「徹底した少品種多量で勝負するユニクロのビジネスモデル」「情報通信技術が流通業の変化の大きな原動力」「都市の変容と百貨店の反撃(百貨店の内外への商業集積)」「チャネルリーダーの小売店へのシフト(家電、化粧品、大衆薬など小売店の大型化)」「第1回ノーベル経済学賞のヤン・ティンバーゲンのグラビティモデル(引力)と二国間貿易」「アジアの中産階級の台頭で貿易は今後増える」「アジア市場の激化と銀座店によるブランド発信(ユニクロ等)」「観光客に日本ブランド(食、文化、商品)を発信せよ」・・・・・・。
アジアの需要を内需ととらえる肺活量を――そう私は言ってきたが、伊藤先生は現場を踏まえた動体視力をもって、より専門的に分析・提案してくれている。「現場から見えてくる日本経済」が本書の副題だ。
ドストエフスキーの巨大さ、偉大さは「人間とは何か」の問いに全精神力を傾注して、人間実存にひそむ深淵を明るみに出した点にある。「地下生活者の手記」「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフ兄弟」は、悪徳の跳梁する事件の人間心理の日常性をはるかに越え、人間の業、霊性の深奥の次元から人間実存の深刻な問題性を意識させる。「ロシア最大の形而上学者」(ベルジャーエフ)といわれるゆえんだ。
本書では、まず「人間学―社会主義社会の蟻塚と人間的自由」を示す。そこには「神と人間」の苦痛に満ちた問題が常にあり、当時ロシアを風靡する人間理性に基づく科学的、合理主義的ないし功利主義的世界観とそこにふくまれる人間観への批判がある。人間は非合理的存在であり、その主要な目的は、自分自身の恣意によって生きること、自由な意志にある。「功利主義者、実証主義者、科学的社会主義の理論家たち――ベンサムやコントやマルクスたちが提示する理想社会の青写真は眺めている場合にだけ美しいのであり・・・・・・"蟻塚"にすぎず、住まうのは人間ではなくて畜群」なのだという。
その自由探究の途は、背徳とニヒリズムへの"人神"に導くことを、キリーロフやラスコーリニコフ、イワン、カラマーゾフたちの悲劇の人物として描く。「神がなければ全ては許される」――神と最高善とに対する叛逆の途だ。イワンらの悲劇的運命を通して、バクーニンやシュティルナー的無神論の陥弄を暴露している。それは大審問官の「自由(天上のパン)と地上のパン」「人類愛が人間蔑視に堕すこと」「自由の重荷」「従順な畜群と全体主義的権力」に凝縮される。「神と人間」の問題だけではなく、無神論的社会主義、さらにはスターリンの独裁、ナチズムの心理構造としてのエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」へと連なるものだ。全体主義的民主主義の精神的弁証法を指摘したニーチェ、民衆にやさしく、ていねいで、人道的な全体主義的福祉国家が民衆を幼年のままにおく民主政治の危険性を指摘したトクヴィル――ドストエフスキーは早々と世俗的・自然的ヒューマニズムの陥る袋小路を摘発したのだ。「悪霊」の人神、キリーロフはニーチェの哲学を先取りしていることは明らかだ。
神を見失った現代人は、神なき世界のなかで、その空虚を満たすべく一時の思想や理論をあみ出し、また思考停止に日常を委ねている。本書は1968年に書かれた。哲学不在、問うことさえかき消された今日だが、昨年は、ニーチェが静かなるブームを呼んだという。その意味でも本書の意義は大きい。驚嘆すべき力作。
都市銀行トップのメガバンクに女性総合職一期生として入行した吉沢環が、女性初の本店管理職に抜擢された。その任務は利益供与や不祥事隠しの隠れ蓑にされてきた子会社の清算。しかも、背後には、経営幹部の派閥抗争があり、女性への偏見や差別が渦巻く。
「たしかに純粋にひとつの目的のために行われている仕事なんて探しても見つからないかもしれない。どんな仕事も不純な目的や割り切れないしがらみをなにがしか抱えながら進んでいる」――。清算という厳しい仕事を終え、主人公はカンボジア地雷除去のNGOに参加する。数メートル先も見えないスコールを浴び「いっそこのまま異国のスコールに身を委ねて20年の間に全身にこびりついた組織の垢をすべて洗い流してしまいたい」と思う。
仕事とは。組織の中で働くとは。女性と仕事とは。ハデなドラマ仕立てでないゆえに、その苦悩がリアルに迫ってくる。財務省現役キャリアが書いた第5回日経小説大賞受賞作。
「心の時代」の次を生きる、と副題にある。安田さんは能楽師でワキ方。「能楽師は、己の身体を駆使して舞い、身体の底から声を出して謡う。・・・・・・古来の日本語には"脳"だけではとても捉えきれない豊かな広がりと奥行き、彩りや香りがあり、身体的な感覚を使って、はじめて感じ取ることができる」「笛は師匠から弟子へと代々受け継がれた名管ですが、・・・・・・しばらくはまったく音が鳴らない。息を吹き続け何年か経つと音が鳴り始める。それも師匠そっくりの音が・・・・・・。能の謡もまったく"声が出ない"。身体という"道具"の師匠と弟子の伝授。"声が出る"ようになった瞬間を今でも鮮明に覚えている」という驚くべきことから本書は始まる。
己と他者、異界と現実、時間と空間、あっちとこっちをつなぐ間(あわい)の存在。そしてその媒介。人は身体という「あわい」を通して外の世界とつながる。現代は、「異界」と出会う場を奪われた時代だ。知識、実学、見えるもののみに奪われ、「見えないもの」を浮かび上がらせることができない世界と化している。「現代に"異界"を取り戻し、その"異界"から新しいものを生み出していくためには、"何もない""何も与えない"時間や空間をつくることが大切だ」「人生をつらくしてしまう傾向にプログラムされた現代。これこそ"心のしわざ"だ。その"心"から自由になってみてはいかが」という。
有と無、有限と無限、"からだ"と"こころ"、宇宙と我、そして祈りと呪術――世阿弥は「離見の見」として我欲、我見から離れることを示したというが、安田さんは「心がなかった時代の内臓感覚」「無限と有限をつなぐ"あわい"」「見えないものを見る力」などを開示しつつ、西行、定家、芭蕉などの境地を見せてくれる。感銘した。