昭和の戦争、「死刑」と「無期」の心理研究、死生観を変えた正田昭との出会いと本心。遠藤周作氏からの批判、突然の妻の死、阪神大震災の救援活動、東日本大震災と原発・・・・・・。医師として、作家として、信仰者として、科学と宗教と死を思索し続けた加賀乙彦氏がじつに静かに率直に語る。
「科学を追及するほど謙虚な気持ちが生まれる」
「科学は発展する。ならば宗教も発展していかねばならい・・・・・。新しい道徳のようなもの、哲学のようなもの」
「科学とは別の、科学を支える叡智があると思う」
「科学を突き詰めていくと無限に突き当たり、そこに神秘が顕れる。有限を支える無限。科学を支える叡智」
「祈りとは、無限なるもの、人知の及ばぬ、はかり知れない、不思議なもの、(無限の暗黒)との接触の場を作っていくものなのでしょう」
「今の世の中では、死と離れ、物の豊富さを幸福と思うような傾向(長生きと物質的幸福)があらわになってきた」
「民衆の底辺へ、身一つで入っていって、その人たちのために働く」
仏法の哲学と実践、宇宙と人生、師弟を考える。
リーマン・ショックやギリシャ・ショックはもとよりのこと、21世紀に入ってからの世界経済、日本市場を巡る資金フロー、欧米先進諸国の「日本化」の実際(狭義と広義)、通貨切り下げ競争(近隣窮乏化政策)、投資資金の消去法的な「避難港」としての日本――そうしたことを日本に対する市場評価とその"揺らぎ"などをズバッと、しかも動体視力をもって山川さんは浮き彫りにしてくれる。
「低テイルリスク」と認識されていた日本が、デフレ、財政悪化、人口動態、環境、そして震災後は原発・エネルギーなどの構造的問題の抜本的対策を怠り、ただ対応だけ、大衆迎合の政治しか行ってこなかった(今の民主党政権はよりひどい)ことを指摘する。市場には日本に対する焦燥感がある。しかしそれは万策尽きたのではなく、処方箋が残されているにもかかわらず動かないことに対してである。
そして、名目3%成長をめざして
(1)「輸出主導型」経済の確立(円安、TPP、法人税下げ)
(2)世代間再配分による究極の脱デフレ策(無秩序な社会保障費の増大抑制、消費税、金融資産の若中年層への移転のための住宅や贈与税の時限凍結)
(3)「ポンジ・スキーム」からの脱却(脱デフレにつながる税制、年金改革の断行とそれにつながる成長戦略)
(4)「反(大)企業・反富裕層・反市場」からの転換(感情論脱却と電力の確保と規制緩和)
(5)人口動態の呪縛の克服(移民受け入れ基準の緩和やM字カーブの修正)
――などを提起する。
学ぶところきわめて大。熱のこもった書。
「いま新しい日本が始まる」――
あの昭和の戦争、そして今回の東日本大震災。物は徹底的に破壊された。だが基底となる美しい日本、美しい日本人、美意識は破壊されなかった。
今、未曽有の大震災、そして激しき経済・グローバリゼーションの中で、海外で1年の半分は過ごしているという日本香堂会長の小仲さんは、再び「日本人の美質」から未来を創造せよという。それは、かけがえのない日本の伝統と文化によってである。これまでの価値観の延長線上で考えるのではなく、価値観の次元を変えよ。価値観をリセットせよ。いわゆるモノを大量増産し、成長を図る時代は終わった。追い求めるのは安さではない。質だ。良好な品質の商品をより安くだ。質の時代、美質の時代、美質国家だ――現実の世界の場のなかでそう指摘する。それをどう形として商品化し、企業として人材を糾合し、結束して、価値創造に向かうか。
ベッツィ・サンダースと小仲会長との対話が加わる。
「私は生涯を通してサーバント・リーダーシップを学習中の身」
「人間性重視のボジティブ心理学」・・・・・。
「美質を評価したドラッカー氏」では、「特に仙厓や白隠などの水墨画がお気に入りだったようだ。彼は日本画を見るとき、"その清明な世界像の中に自分自身の心の奥底を見る"といっている。日本画は対象を描いていない。空間そのものを描いている。彼にとって日本は知覚の国、美質の国だった」などと語っている。
経営者必読の書。それは日本の経営者たるべき政治家も政党も。
「免疫の意味論」の多田富雄さんは2001年5月2日、旅先の金沢で脳梗塞で倒れ、死線をさまよう。右半身は完全に麻痺し、言葉はしゃべれず、嚥下障害。飲むこと、食べること自体が命がけ。驚くべきことにこの書は、その後、約5年の間に書かれたものだ。
哲学も思想も文化・芸術も、とくに能楽にも造詣の深い多田さんが、壮絶な戦いのなかで、その深き透徹した人生観を語ってくれているが、何といっても"生きる"そのものの自らの新たな境地を語ってくれる。一言一言が、衝撃でもあり、ある箇所では息が止まり、また数分静かに考えたりもするほどだ。
リハビリを始めてから、自死を考えていた多田さんが、今までの自分ではない「新しい人」が目覚め、わき出してくることを感ずる。「鈍重な巨人」「寡黙なる巨人」が動き出す。一歩ずつ。そして小さな、かすかな一歩が感動となり、涙をぬらす。
小林秀雄についても語る。「死は日常茶飯事で、地獄も浄土も身近にそこにあった。それを醒めた目で眺め、たどり着いた想念が無常観だった。いまわれわれが感じている不安、不確実性は、中世にあった無常と通じている。だが現代は無常などといって心を澄ますことはできない。動物的にただ不安がっているだけだ。それは常なるものを見失っているからだと小林は指摘する。常なるものがなければ、無常を見ることもできない」――地獄を見た多田さんの言葉だ。