農村の潜在能力には計り知れないものがある。
補助金で飼いならされず、自立して生産コストを削減し、消費者の求めるものを研究してつくり、価格競争にも勝とう。農業は簡単なものではない。難しい職業だ。しかし魅力がある。実践力が無い肩書きだけの人(国も行政も農協も)ではない。実践力と知的思考力をあわせもつ者が、立ち上がろう。工夫、知恵、研究、努力で戦おう。
今、元気な農家は、経営能力に優れた一部の専業農家と、他産業を退役し気ままに農業を営む(厚生年金もある)小規模兼業農家ではないか。大多数の専業農家は経営が難しくなっている。生産規模拡大を考えなければ生産コストの削減をはじめとして、経営はできない。産業として成り立つ農業にしないとダメだ。努力しない。工夫しない。補助金、国の政策自体がその意欲をつんでしまっている――そう岡本さんはいう。
これは、国の農政と農業現場のことをいっている。表題はセンセーショナルなものになっているが、考えるべきはまず国の農政そのものだ。
食料自給率とは何か、土地利用型農業の衰退と集約型農業の健闘、担い手問題、コメの生産調整政策、政権交代と現実、日本農業の活路を探る――など長い時間軸から生源寺さんがキチッと語る。
「日本の農業と農政に今求められているのは、日本農業の強さと弱さを直視し、10年後の農業と農村のかたちを現実味のあるビジョンとして描き出すことだ」「少数のずば抜けた成功例を単純に一般化してバラ色の農業を描き出すことはしない」「そのビジョンのないことが、迷走・逆走して不安を増幅している」と生源寺さんはいう。
規模拡大がいわれるが、規模拡大のコストダウン効果は10ヘクタール前後で消失する。経済的には20世紀後半、1人当たりGDPは 8倍となったが、土地利用型農業の場合(コメ)、他産業並みの所得は難しく、面積の拡大と技術革新は不可欠となる。そこで支援が必要だが、迷走続きだ。しかも、まとまった土地の確保が難しいという課題に直面している。
奇手・妙手があるわけではないが、問題点はわかっているゆえに、慌てる必要はない。現状を直視し、土地の集約をし、農業自体の競争力をレベルアップし、担い手を育て、規模とともに付加価値を高めてアジアにも照準をあてる。農業生産者が価格形成にも参加する。国際社会のなかで価格競争力の足らざる部分を補う政策を講ずる(関税による保護政策から政府の直接支払いによって農業を支える=国民の選択だが)――食料の安全保障の視点からも現状程度の農業の維持は絶対に必要であることを主張している。
不思議だな。そなたは目立ったことをなすわけでもないのに、関わる者は生き方を変えていくようだ。心がけの良き者は、より良き道を、悪しき者はより悪しき道をだどるように思える」「この家族には疑うという気持ちをもった者がいない。だから家中に、清々しい気が満ちている」――。
前藩主の側室と不義密通を犯したとして幽閉されて、十年後の切腹を命じられていた元郡奉行・戸田秋谷。その監視兼補佐役として来た庄三郎。庄三郎は秋谷の清廉さと気高き武士(もののふ)の心に触れて無実を信じるようになる。
蜩の鳴く声は、夏の終わりを哀しむかのようだが、不条理の中にあって従容として変わらず、区切られた1日1日を懸命に生きる尊さ。そして凄絶な覚悟。生死即涅槃――。即とは「押えて」の意味をもつが、煩悩・生死を精神の力で統御する研ぎすまされた人間精神の力をも感ずる力作。
「言葉はこころの繊維であるとおもう。言葉がこころの襞をつくる」――かけがえのない自己存在と言語――。
どのページを見ても、言葉というもの、人の発する音声とは何かを考えてしまう。思わず「なるほど」とかつぶやいて、はて「なるほど」という言葉はどうしてできたのかと思ってしまう。
「言葉はコミュニケーションの媒体であると、だれもがあたりまえのように言う。・・・・・・メッセージの伝達という意味でのコミュニケーションとは違う様態で、元始、ひとは描き、歌ったのではないか」
「唸りや叫び、さらには言葉、そして歌。これらはみな身体の自己接触、ないしは自己触発といったものを生地として編まれている」
「魂にさわるところでオノマトペが声を上げる。・・・・・・オノマトペが孕みもつ意味を超えた言葉の力は、どこか臓腑や内臓の感覚とつながっている」
「痛いと叫ぶとき、痛いと言わずに感情をそのまま声で表現しろと言われても、そういう意味以前の声など出しようがない。言葉は身体の震えや律動から剥落させられ、逆に言葉で織られた世界のほうに、わたしたちの声をまるごと拉致してしまうのだ」
「オノマトペとは言葉と音の回転扉というよりもむしろ、言葉が意味と音との二つに分岐する寸前の声であるというべきかもしれない」――。
温かい、熱々の、口の中で跳ねるうどん。そして峠のうどん屋の前に建つ市営斎場。立ち寄る人々。厨房で1人黙って仕込みをするおじいちゃん。賢いおばあちゃん。それを手伝う孫の女子中学生の感受性。
死に直面して寡黙になる人々。
「悲しまなきゃいけない人に場所を譲ってあげよ」
「関係ないヤツにかぎってよくしゃべる」
「ひとが死ぬということに痛みを感じないおとなになってしまう」
「答えがすぐ見つかるものなんて、人生にそんなにたくさんないよ」
「自分の居場所がある人、居場所がわからない人」
「人生は出会いと別れの繰り返し」
「泣くことができない自分とは何か」
「わからないことはたくさんあるの、あっていいの、いまは」・・・・・・。
「霊柩車の運転手」「シェーのおじさん」「おくる言葉」「町医者」「ボーズ」「ヤクザのわびすけ」「柿の葉うどん」など、重松さんが日常と非日常の往復のなかに、一生懸命に生きる人たちを描く。死を前にして人は人に戻る。