話は戦国乱世、天正6年(1578)から始まり、慶長8年(1603)あたりまで。信長、秀吉、そして関ヶ原、家康へと進む大激動の時代――そこで生きた三人の二代目。上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の三人の生き残りをかけた苦悩・智慧・勇気が描かれる。
毛利元就の三本の矢、隆元・吉川元春・小早川隆景。その毛利を引き継いだ隆元の子・輝元は叔父の二川(吉川、小早川)と相談して事を進めるが、二川の考えも重なり、思うようにいかない。毛利家が大であるがゆえの苦闘でもある。その外交僧
安国寺恵瓊の動きも活発だ。
宇喜多八郎(秀家)は、したたかな宇喜多直家の悲願の子。ピタッと秀吉について、その意味では路線・姿勢に揺れはない。母親・お福の男まさりの智慧が描かれ、その発する言葉はじつに面白く、的確。
偉大な上杉謙信(妻をもたなかった)のあとを継ぎ、生き抜いた景勝。そこには2人、直江兼続と謙信の姉であり、景勝の母・仙桃院が支える。
お福と仙桃院の2人の女性が、この小説では際立つ。
「二代目は先代の苦しみを知るが、初代は二代目の苦労を知らない」――ダイナミックな歴史小説。
毛利の外交僧である安国寺恵瓊。信長の死を予言した禅僧とも、関ヶ原を演出した男ともいわれるが、戦国乱世をまさに動きに動いた男だ。
「信長の代、五年三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申し候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」(吉川家文書)――恵瓊の分析だ。
「わが栄達は、秀吉とともにあった・・・・・・」「毛利家を豊臣政権下での生き残りの道に導いたのは、ほかならぬ恵瓊と小早川隆景の二人である」――。光秀の謀反、中国大返しについて、本書では「拙僧も寝耳に水の話でございました。恵瓊はぬけぬけと言った」とある。知っていたという筋書きだ。関が原に向けて恵瓊、三成、大谷吉継の3人の密談が描かれ、毛利輝元を西軍の総大将と担ぎだすが、恵瓊の前のめり感がよく描写されている。いずれにしても怪物。公明新聞に「安国寺恵瓊」として連載された。
「彼はポピュリズム(大衆迎合)から遠く離れたところに毅然として立っていた。彼にとって国民は守るべき対象であると同時に、時として指導教育すべき対
象でもあったわけだ」「外交感覚のない国民は必ず凋落する」――2.26事件、迫りくる戦争と開戦阻止の闘い、ポツダム宣言受諾、緊迫した8.15前後の
日々、GHQとの抵抗と戦い、「不逞の輩」発言、火花散らす米ソ、そしてサンフランシスコ講和条約の締結。吉田茂の命をかけた日々が活写される。
「3年以内の暴落」へのカウントダウンと副題にあり、国債暴落のシナリオと、国債暴落後の日本経済、「リスク管理の基本は分散」などの備えについて述べ
危機が迫っていながら、危機感がなく、決断しない、先送りであるがゆえに最悪のシナリオに進んでいる日本――。国債の状況・ムーディーズとS&Pの格付け機関の見方。英国キャメロン首相の財政改革(鎮火策)などを示す。
「事業再生の基本は鎮火、実行、成長」であり、大事なことは時間軸と優先順位、まさにプロセスなのに、日本は「鎮火派=財政再建派」と「成長派=上げ潮派」の二者択一のものとして扱われることを嘆く。日本の将来の姿を凝視した展望、考え方の軸が大切だという。
第二次世界大戦前の「隣組読本 戦費と国債」が紹介され、昭和21年の「預金封鎖」や「新円切り替え」、1988年のアルゼンチンなどもわかりやすく書かれている。