中流から下流に落ちていくのではなくて、下流に向かおうとしている社会集団。「学ばない子どもたち 働かない若者たち」と副題がついているように、主題は「学びからの逃走」「労働からの逃走」である。エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」はあまりにもなつかしい。教育の問題が「学ぶ意欲のない子どもたち」、ニートの問題が「働く意味を問う若者」にあることを私は現場で感じてきただけに、大変ためになった。先日もハローワークを視察したが、今の若者は「真面目。そして自分はどういう職に向いているか悩んでいる。失敗することをすごく恐れている」という話を聞いた。
内田さんは、生活主体、労働主体の前に、消費主体としての自己が確立されている変化をいう。権利ではなく、「この知識は何の役に立つのか」「教育サービスの買い手」「嫌いな勉強、苦役の等価交換取引(教育は不快と教育サービスの等価交換の場)」としての教育は成り立たない。学びは市場原理ではない。しかも、学ぶ人と学ばざる人の差は、努力する動機づけの格差からも生まれる。学力低下は努力してそうしているとまでいう。孤立した人間を自立した人間ととらえてしまう誤り。いつも賃金が不当に安いと思ってしまう心象。
最後の師弟の話は興味深い。
「格差はあるかないか」―― そうした議論の段階ではないことは再三述べてきた。大事なのは、「固定化させない」「拡大させない」という行動だ。格差是正は政治の原点だ。
その意味では、その原因を具体的、個別的に冷静かつ合理的に現実的に調べあげて対応することだ。「中小企業のバックアップ」「フリーター・非正規雇用を正規雇用に」「教育格差の是正」「地方の街づくりとインフラ整備」を中心として政策を総動員するとともに、当然、税制について、これは将来の姿と考えて対処しなければならない。
「高齢の単身女性」「離別した女性」「労働市場においていつも不安定な所におかれている人たち」に、目を向けておかないと現実が見えてこない。
株主主権論は、企業と会社を混同した法理論上の誤り。会社とは法人化された企業。資本主義が産業資本主義からポスト産業資本主義へと大きく変質をとげた今、おカネの威力が増しているように思うかもしれないが、そうではなくて、おカネの力が弱くなってきていると岩井さんはいう。それは株主が会社の主権者でなくなってきたことでもあり、違い(差異性)から利益を生み出すヒトに重心が移ることになる。「知価社会(堺屋太一)」「脱工業化社会(ダニエル・ベル)」「第三の波(アルビン・トフラー)」だ。
日本的経営が育成してきた組織特殊的人的資産の役割(終身雇用制、年功序列制、会社内組合)は、産業資本主義対応型の熟練されたヒトであり、アメリカ型の株主主権論のヒトとともに、今求められているものではない。ライブドアとフジテレビ。会社とは何か。コーポレート・ガバナンス(企業統治ではなく会社統治)とは何か。会社とは社会のためにある。
糸井重里との対談が付けてあるが、資本主義、経済学の源流にさかのぼっての自然(じねん)に自在に、ていねいに、定義しながら哲学思考で進む理論は美しい。仏法の五重三段に美しさを感じたように。
「堀川の奇跡」と呼ばれる高校改革を成功させ、京都公立高校改革の旗手といわれる荒瀬校長の著書。最近の未履修問題、教育再生会議の論議も踏まえて新しい。
まず、私にとっての京都の教育は、「ここまで勉強しない高校が日本にあるんだな」というのが、昭和39年京大入学の頃からの印象だ。その京都の教育は少なくともこの10年全くといっていいほど変わり、前進した。
もう1つ。教育基本法論議のなかで、私の考え続けたことの1つが、「高校が大事。しかし、今の高校は普通高校、工業、商業、農業高校が生きていた私たちの時代と全く違ってしまっている。高校とは何かわからなくなっている」ということだ。
本書を読んで私は教育には粘り強さ、ガマンして待つ。時間をかける。そうしたものを胸中にいだいて愛情と信頼と使命と情熱をもって成すものだということを改めて感じた。人を育てるとはそれだけ厚みのあるものだ。