「日本の戦争力」の第2弾。核を持つことで国際的な発言力をもって瀬戸際外交に走る北朝鮮の「戦争力」、そして中国の「戦争力」の実態。日本版NSC(国家安全保障会議)の必要性。
大事なことは敵基地攻撃論や核武装論という空理空論が独り歩きしない。「日本は自立した軍事力はもてない」「戦略投射能力なき軍事力を日米同盟で補う」こと。「中国との友好関係の維持」「日本は核軍縮を進める」「米は日本を世界での唯一無二、かつ最重要な"戦略的根拠地"と見なし、日米同盟を結んでいるという日米の特殊な関係をよく踏まえよ」「集団的自衛権の不毛な論議ではなく、日本モデルを提示せよ」―――など。
日本の防衛論は穴だらけで、最も防衛に重要なリアリズムが欠如していることが浮き彫りにされる。
中流から下流に落ちていくのではなくて、下流に向かおうとしている社会集団。「学ばない子どもたち 働かない若者たち」と副題がついているように、主題は「学びからの逃走」「労働からの逃走」である。エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」はあまりにもなつかしい。教育の問題が「学ぶ意欲のない子どもたち」、ニートの問題が「働く意味を問う若者」にあることを私は現場で感じてきただけに、大変ためになった。先日もハローワークを視察したが、今の若者は「真面目。そして自分はどういう職に向いているか悩んでいる。失敗することをすごく恐れている」という話を聞いた。
内田さんは、生活主体、労働主体の前に、消費主体としての自己が確立されている変化をいう。権利ではなく、「この知識は何の役に立つのか」「教育サービスの買い手」「嫌いな勉強、苦役の等価交換取引(教育は不快と教育サービスの等価交換の場)」としての教育は成り立たない。学びは市場原理ではない。しかも、学ぶ人と学ばざる人の差は、努力する動機づけの格差からも生まれる。学力低下は努力してそうしているとまでいう。孤立した人間を自立した人間ととらえてしまう誤り。いつも賃金が不当に安いと思ってしまう心象。
最後の師弟の話は興味深い。