村井実氏は明治以来100余年にわたる教育史の中で歴史を作った三つの文書として「被仰出書(おおせいだされしょ1872・明治5年)」「教育勅語(1890・明治23年)」そしてこの「アメリカ教育使節団報告書(1946)」をあげている。連合軍総司令部(GHQ)が、日本の軍国主義的・超国家主義的教育を一掃しようとして、27名の教育使節団を派遣し、日本の教育者等の協力のもと、この報告書をつくりあげた。
当然、憲法と同様、米国文化の強制的勧告であるとか、いわゆる保守層の批判も浴びるが、同時に、教育の逼塞にあえいでいた知識人や教師に共感をもって受け入れられたことも事実である。
内容を読めばそれは明らかだ。現在の教育の原型、原点を、より鮮明にみる思いだ。歴史の文書として、ありのまま如実知見することだと思う。
「今の若者は」「今の子供たちは」「今の教育は」というなかに、著者たちのいう青少年ネガティヴ・キャンペーンが含まれ、とくに「ニート」は「やる気のない若者」として批判の対象となっている。私自身、「今の子供は人のことも考えず、思いやりもなく、すぐ切れる」などという論には全く違和感をもってきた。
若年雇用と60代雇用、それは日本の社会のかかえるこれからの最重要課題だと思っている。
「景気の低迷」「団塊の世代が50代高賃金」「女性雇用の増加」「人件費縮減と労働力の量的柔軟化など企業の経営環境の変化」「依然として学校経由の就職が典型雇用(正規)への独占的採用ルートであること」など、本田氏の指摘する構造的要因は確かに大きい、その対応は、個人や家庭や教育にのみ還元してはならないし、ニート自体の現実把握と原因の把握が重要である。
職業的意義の高い学校教育をつくりあげることが指摘されているが、高校・大学をどう考えるか、生涯学習ををどう考えるか――考え続けている私としては「言葉のひとり歩き」「バッシング」ということ以上に学ぶこと大であった。どこまでもリアリズムに徹することが問題解決には大切だろう。
中身の濃い、しかも自由で率直な語らいは面白く、圧倒される思いだ。尊王攘夷、なかでも攘夷思想が、黒船以降、明治をも含めて基調音として奏でられたことがよくわかる。歴史の表舞台に出てくる血気にはやる若者のなかで、バランスがとれ、わきまえた知性・理性をあわせもつリーダーが、煩悶しながらもいかに踏んばったか、阿部正弘、榎本武揚、小野友五郎、立見尚文など好意をもって二人が描いている。
薩長がいつ倒幕になったか。その背後には、それぞれの歴史と地域性と伝統(たとえば直接行動と自己陶酔的な水戸、海のない会津に対して海に接する長州や薩摩より遡れば島津と毛利の出自)、佐幕派勢力の一橋慶喜、会津、桑名の「一会桑」への反発などを描き出す。竜馬のめざした徳川を中心とした共和制と維新を成した人々との違いなど、興味は尽きない。