「アーモンド」「三十の反撃」のソン・ウォンピョンの八つの短編集。韓国に限らず、近代社会に内包される課題に、逡巡し懊悩する人々の心象、人間関係などの葛藤、人間存在への問いかけなどが描かれる。短い切れ味のある文章と表現は、冴え渡っている。「家」は安全地帯であるとともに、閉じこもりの拠点でもある。「楽しい我が家」といっても、一人ひとりの内面は孤立し複雑だ。8篇は極めて多彩だが、いずれも人間心理の深淵を突いている。吉原さんの訳もいいし、解説も見事。
「四月の雪」――。別れを決めた夫婦に、フィンランドから民泊を求めてマリが来る。その"触媒"は何をもたらしたか。「怪物たち」――。ある言葉から生まれた夫婦の亀裂。何をやってもその憎悪と亀裂は閉鎖空間の中で増殖していく。そこに生まれた「怪物のような双子」の秘密の心象風景の恐ろしさ。
「z i p」――。結婚したが夫に望みを打ち砕かれ続ける女。「バカだったんだ。私がバカだった。バカな女だったんだ」・・・・・・。しかも儲け話だと信じて1億ウォンも失ったという事実を知ったとき。またライバル的な女の人生が気になるが・・・・・・。
「アリアドネの庭園」――。約50年後の未来の韓国。高齢者が住む住宅でも、保護施設のユニットDランクに住む女。少子高齢社会が進み、若者の負担が重く高齢者への嫌悪感が広がる。高齢者は尊厳死が夢となるというのだ。
「他人の家」――。部屋探しのアプリで、格安の超優良物件に出会った女。格安は訳あり物件だからだが、加えて本来2人で暮らすはずの部屋を4人で違法にルームシェアする。ある日、そこへオーナーが急遽訪れることに・・・・・・。さぁ、大変。「パラサイト 半地下の家族」を想い起こす。「箱の中の男」――。「僕は箱の中に住んでいる。きっちり閉ざされた安全な箱の中に」「心強い存在だった自慢の兄。トラックにはねられそうな子供を助け、自分はずっと寝たきり」となった。だから、自分は「わざわざ人に感謝されることなどしなければいい、絶対に絶対に、自分と関係のないことには関わってはいけない」と言っていた。兄は「ひとつだけ言えることがある。どっちをとったとしても、誰かは辛い思いをするんだよ。逆に言えば、誰かは喜ぶことになるんだ」・・・・・・。そして事件が起きる。
「文学とは何か」――。小説を書くということの意味と格闘。書けなくなる魔法の始まりと終わり。「開いていない本屋」――。閉まっているけれども、開いている本屋。今日も開いていなかった本屋が開店する。
末尾で、著者は言う。「私たちは異様な時代を生きている。・・・・・・ここでの大衆は、実体のない怪物に近いものだ。この怪物は、正義をまとった非理性とニセモノの道徳を武器としてかざし、決して鏡を見ようとしないために、逆に標的にした誰かを怪物に仕立て上げ、打ち負かさなくては気がすまないのだ。・・・・・・自分と他人をじっくり見つめるという行為をなおざりにすることがないようにしよう」と言っている。
著者の2016年に出版した「人工知能と経済の未来」は刺激的で、特化型AIを超えて2030年頃から汎用AIが登場すると言っていた。シンギュラリティをはじめとする予測が一旦沈静化したが、今またチャットGPTが話題を呼んでいる。AI技術の進展はこれからも進む以上、課題に取り組む事は重要だが、同時に日本としては、デジタル遅れの現実を見て、進める力を加速する必要がある。熱い目が注がれるメタバース。著者は、すでにメタバース後進国になりつつある日本だが、「メタバースは日本経済逆転のチャンス(日本には、漫画やアニメなど、メタバースにふさわしいコンテンツがたくさんあり能力もあり有利)」「アニマルスピリッツを取り戻し、資金を思い切って投入して実行せよ」「先端技術と伝統文化を生かすサイバーオリエンタリズムと日本未来主義でエンジン全開で突き進もう」と呼びかける。
「メタバースの普及は、身体性の喪失や運動不足といった問題をもたらす可能性がある。一方で、通勤ラッシュ、都市部の高い住宅価格、地域間格差、地球温暖化といった問題を解消し得る力を持っている」「対人恐怖症やコミニュケーション障害を抱えた人たち、体が不自由で、寝たきりの人たちが、人と交流したり、自由に活動したりできるようになり、弱い立場の人たちのQOL(生活の質)を高めることもできる。仕事や教育の効率性、豊かな娯楽を享受し、経済、文化の新しい可能性にも満ちている」と言う。人間の本質とは何か。パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、考える機械・ AIが出現して、思考が人間だけではないとなると、「人間は意識を意識する動物である」。そこに動物やAIとの違いがあると言う。
「人類は、今から20年以内に、目覚めている多くの時間をコンピュータ上の仮想空間で過ごすようになる。私は本気でそう考えている」「この世界は、実空間をデジタル技術によってコントロールし、住み良い社会にしていく『スマート社会』と『メタバースの世界』に分岐する」「AIやロボットによる生産活動の自動化の果てにやってくる経済は『純粋機械化経済』で、AIやロボットを含む機械だけで、およそ生産活動が行えるようになる。2045年から60年ぐらい。人間の仕事はクリエイティビティー系、マネジメント系、ホスピタリティ系のCMH」「純粋機械化経済は実空間。メタバース内の経済は、労働者も機械設備もいらない『純粋デジタル経済』。その特徴は①資本財ゼロ②限界費用ゼロ③独占的競争――の3つ。そして、供給と空間と移動速度の無限性といった性質を持つ」・・・・・・。
さらに「メタバースとお金の未来」「資本主義はどう変わるか?」で、仮想通貨、DAOなどの分散型組織に論究する。「仮想通貨やDA O、NFTといったW e b 3・0的な技術は広く使われるようになり、メタバースも普及して、資本主義は新たな段階を迎えると思う」と言う。「頭脳資本主義」だが、実物財の世界では、AIなどの先端技術が生産性やイノベーションに与える影響は大きい。一方、デジタル経済の方では、資本財がほとんど必要ないので、デザインのできるクリエイター、面白いアイディアを出す人、イベントをプロデュースできる能力のある人などが活躍する世界になる。低所得層が増え、中間所得層も少ない。ゆえに「ベーシックインカムが必要」と言う。地球温暖化を防ぐために、最今は脱成長の「減速主義」を唱える者もいるが、著者は成長を目指し驀進する「反緊縮加速主義」を主張している。
「人類が身体を捨て去る日――メタバースの先にある未来」――。身体性の欠如は、今後の悩み深い問題だ。「BM I(脳と機械を通信させる技術)」は、障害や病気の人にとっては救いとなる技術。BB I(脳と脳を通信させる技術)は、自分と他人の脳をつなぐわけだから、極めて恐ろしい」と述べている。大変な問題であるだけに、早くからの議論が不可欠となる。人類の未来はユートピアでは無いのかもしれないし、ディストピアでもない。まさに人間にかかっている。
「きみがぼくにその街を教えてくれた・・・・・・ぼくは17歳で、きみはひとつ年下だった。・・・・・・『街は高い壁にまわりを囲まれているの』ときみは語り出す」「本当のわたしが生きて暮らしているのは、高い壁に囲まれたその街の中なの・・・・・・今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。その身代わりに過ぎないの。ただの移ろう影のようなもの」と、いきなり不思議な世界に引き込む。実際の世界で恋をした「ぼく」は、突然消えた「きみ」を求めて幻想的な街に入り込む。「きみ」のいる図書館で、「ぼく」に託された仕事は「夢読み」だった。名前がなく、時がなく、単角獣のほかに動物はいない。驚くことに自分の影が引きはがされ別になっていた。・・・・・・やがて、影は街を出ようとし、私は残ろうと決断したのだが・・・・・・。
そして、「こちらの『現実の世界』にあって、私は中年と呼ばれる年齢にさしかかった」のだが、大学を卒業後、ずっと勤めていた書籍取次業の会社を突如として辞職。福島県の小さな町の図書館長となるが、そこで不思議な事象に遭遇する。面接し採用してくれた素晴らしい人格を持つ前の図書館長が実は死亡していた幽霊であったのだ。さらに、不思議な能力を持つ少年に出会い、少年は、「その街に行かなくてはならない」「<古い夢>を読む。僕にはそれができる」と言うのであった。
壁に囲まれた世界とその外側の世界。こちらの世界とあちらの世界。現実と非現実。意識と非意識との薄い接面。生きているものと死んだものとが一つになった混在。本体と影。壁に囲まれた街には、時間は意味を持たず、人の抱く迷い、嫉妬、恐れ、苦悩、憎しみ、懊悩、自己憐憫、夢、愛などの感情は無用のもので、害をなすものととして描かれている。人間の心の深層には、あらゆるものをため込む蔵のようなものがあるとする唯識論に小説として迫っていると思った。深層心理の深淵だ。また、有の世界と無の世界が、実は「空」の世界が、有と現れ、無と隠れることを示していることも想起した。さらにまた、昨年のノーベル物理学賞の「量子もつれ」が、小説の世界で表現すると、このようになるのかと思ったものだ。いずれにしても、人間の存在が宇宙生命のなかの小宇宙として存在し、可視の世界は、その一部分、一端であることを示しているといえよう。それゆえに「壁」は「不確か」であり、能の世界で言う「あわい」を生きるということなのかとも思った。
そうした面白さとともに、村上ワールドとして、私は、福島県の小さな町で知り合ったカフェの「彼女」との語らい。音楽を聴いて、ウイスキーを少し飲み、落ち着いて、深さと経験に満ちた洒落た大人の会話をする、あの描写は際立っていいと思う。こっちもまた私にとっての村上ワールドだ。
愛媛県松山市にある港町・三ッ浦町。定年間近の新聞記者・宮武弘之、銭湯「みなと湯」の主人・戸田邦明、そこで働く釜焚き係で元暴力団員の定本吾郎、骨董店「天狗堂」の小松富夫。「3匹のおっさん」とはちょっと違うが、仲間のおじさんたちが、「みなと湯」の融資に真剣に取り組んでくれていた瀬戸内銀行三ッ浦支店勤務の丸岡将磨が、溺死体で発見されたことから、悪に立ち向かうことになる。その背後には、松山西部病院の不正融資に大物金融ブローカーや暴力団などの反社会的勢力が絡むなど、かなり深い闇があった。本丸は松山西部病院理事長の坂上象ニ郎。
人生の後半のおじさんたち。野心も失せ後悔もあるが、突如飛び込んできたこの大事件に、色めき立つ。その姿を、ユーモラスに、そして痛快に描き出す。どんでん返しに次ぐどんでん返しは、まさに「逆転のバラッド」。その一方で、外ばかり見て家庭を顧みないおじさんの悲哀も身に沁みる。
「あなたには、何も見えていない。新聞記者なのに、人の心がわかってない。そんな人に良い記事なんか書けるわけがない」「事件は人間が起こすものだ。背後には人間の欲望、邪念、自己保身、傲慢さ、脆弱さなど、数々の感情が渦巻いている。ただ起こった事象だけを見ていたのでは、事件というものを真に理解できない。坂上は自ら命を絶ってしまったが、それで全てが許されるというものではない。最後に死という逃避を選んだ彼は、どんな心境だったのか。記事を読んだ人々に、そこまで思いを馳せてもらいたかった。正しい事はなされたのか、どうなのか」・・・・・・。
しぼみつつあるおじさんたちの逆転劇は、とても楽しい。
「思考の座標軸を立て直す」が副題。時代の変わり目を表出する難問に直面してる今、「思考の座標軸」を立て直すことは極めて重要。「私たちは今こそ、近現代日本における『保守』と『リベラル』の議論の蓄積を再確認し、その意義を現代的に発展させていく時期に差し掛かっている」と言う。米英をはじめ保守・リベラルの意味合いは各国で異なるが、日本としての源流を探りつつ深めることは、政治的にも思想的にも意義深いと思う。
「保守」は、伝統を尊重しつつ秩序ある漸進的な改革を目指す(急進的改革ではない)。「保守主義とは、伝統の中で培われた制度や慣習を重視し、そのような制度や慣習を通じて歴史的に形成された自由を発展させ、秩序ある漸進的改革を目指す思想や政治運動である」。「リベラル」は、個人の自由や寛容の原則、多様性を尊重する。「リベラル」と言う言葉は、「気前のいい」や「寛大な」を指すもので、他者への配慮や寛容の精神が含意されている。「リベラリズムは、他者の恣意的な意志ではなく、自分自身の意志に従うという意味での自由の理念を中核に、寛容や正義の原則を重視し、多様な価値観を持つ諸個人が共に生きるための社会やその制度づくりを目指す思想や政治運動」。従って両者は対立概念ではない。日本では、「保守」の伝統を考える場合、明治維新と第二次世界大戦というニつの断絶があり、歴史の基本的な継続性・連続性において大きな問題を抱えこんだ。また「保守」の対立概念として「革新」「急進」があるが、東西冷戦構造の崩壊と経済発展による豊かさの享受のなかで、鮮明な対立図式が崩れていっている。一方、リベラルコンセンサスのベクトルは間違いなくあるが、その「リベラル」自体の内実が煮詰められていない。本書は、その本質を源流から探り当てている。その論考に触れつつ、私は「中間大衆論」に先駆けて、庶民大衆を代弁する公明党が1964年結成されたことに思いをめぐらせた。
本書では、保守主義の系譜として、伊藤博文、陸奥宗光、原敬、戦後の吉田茂の「保守本流」などを丁寧に論述する。リベラルについても、福沢諭吉から石橋湛山、清沢冽、さらに戦後においても丸山眞男らにおいて、日本におけるリベラリズムのの重要な達成が見てとれると言う。日本のリベラリズムは政治勢力や幅広い裾野を社会に持つことはなかったが、福沢諭吉をはじめとするこれら人物の影響は大きいとする。「一身独立して一国独立する」の福沢諭吉は「魅力的な人物」「福沢ほどリベラリストの名にふさわしい人物は少ないのではないか」「大切なのは個人であり、その独立である。身分制秩序や、それに基づく人間関係から個人を独立させること、そして逆にそのような個人が自由に活動できるような社会を発展させることこそが、福沢の目指したものであった」「人はいたるところに序列を見出し、卑屈に従うがそれこそ独立自尊を説く福沢にとって我慢できないものであった。・・・・・・・豊臣秀吉が百姓から関白になっても、彼だけが偉くなったのであって、百姓一般の地位が高くなったわけではない。宗教も学問も等しく、『権力の偏重』に屈し、独立した宗教や学問は不在である。見られるのは『精神の奴隷』だけであると福沢は嘆く。果たしてこの福沢の嘆きは過去のものになったと言えるだろうか」と指摘している。
また、福沢諭吉を論述するとともに、丸山眞男(丸山眞男における3つの主体像)、福田恆存(福田恆存と保守思想)、村上泰亮(新中間大衆の時代)などについても力を入れて論述している。常に自ら責任を持って時代の変化の中で思考し続けた人達だ。保守合同してからの自民党は、自由主義的なハト派から、より国家主義的なタカ派まで抱え込んだが、その思想の系譜を、吉田茂、石橋湛山、岸信介、大平正芳とそれを囲む若い知識人に触れて語る。
まさに、「思考の座標軸を立て直す」という熱の伝わる著作だ。