「ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形」が副題。倍速視聴や10秒飛ばしが意外に多くの人の習慣となっていると言う。特に高齢者よりも若者、若者の中でも若年層に行くほどその傾向が大きいようだ。私自身も、「忙しい」「せっかち」「結論を早く得たい」ゆえか、飛ばして観ることがある。ストーリー中心のエンタメではそうする一方、藤沢周平の「花のあと」などの作品は、ほとんどセリフがなく、情景と心理描写が巧みで、そこにこそ味わいがある。飛ばして観るなら意味がない。北野武(ビートたけし)の名作「HANA-BI」の最後で、岸本加世子がたった一言だけを言うシーンが、いまだに心に残っている。「倍速視聴について調査をすればするほど、考察も深めれば深めるほど、この習慣そのものはたまたま地表に表出した現象の一つに過ぎず、地中にはとんでもなく広い範囲で『根』が張られていると確信した」「倍速視聴が現代社会の何を表していて、創作行為のどんな本質を浮き彫りにするかを突き詰めて考えることにした」と現代社会を剔抉したのが本書だ。
基底にあるのは、「映像作品の供給過多」「現代人の多忙に端を発するコスパ(タイパ)志向」「セリフで全てを説明する映像作品が増えたこと」の3点だと指摘する。現代人は膨大な映像作品をチェックする時間にとにかく追われている。映像メディアだけでなく、SNSも競合相手だ。しかも話題にはついていきたい。無駄は悪でコスパこそ正義。「見たい」のではなく「知りたい」。周囲が大絶賛している作品を知っておきたい。情報強者でありたい。知っているとグループの話の輪に入れる。若年世代にとって仲間の和を維持するのが至上命題、「共感強制力」があると言う。今の若者は、コミュニティで自分が息をしやすくするため、追いつけている自分に安心するために早送りで観るという。
これに加えて、1,980~1990年生まれのY世代(ほぼミレニアル世代)は、「デジタルネイティブ」で、SNSで叩かれたくないという「同調圧力」と「防御意識」が強かったのに対し、1990年代後半から2000年代生まれのZ世代は、「ソーシャルネイティブ」で、SNS上で周りと同程度に自己アピールしたいという「同調志向」と「発信意識」が強いという。Z世代が20歳前後となって社会に躍り出て、たったこの5年で変化しているわけだ。「とりわけZ世代を中心とした層に、『回り道』や『コスパの悪さ』を恐れる傾向が強い」と指摘する。常に"横を見ている"若者たちだ。
中身の濃い芸術的作品を目指す作り手の方と食い違うのは当然だ。「わかりやすく」「セリフで説明しすぎる」「過激で断定的だとネット上でフォロワーを集めやすい」「テレビではテロップが増える」ことになる。情報過多・説明過多・無駄のないテンポの映像コンテンツばかりを浴び続ければ、どんな人間でも「それが普通」と思うようになる。「わかりやすさ」と「作品的野心」の両立という難問に立ち向かうざるを得ないのだ。
SNSが発達し、同調圧力がストレスを生む社会。ブルシットジョブでストレスをため込んで帰り、LINEグループの人間関係にも疲れ果てているのに、考えさせられるドラマなんぞ観たくはない。だが、会話の輪には入りたい。テレビドラマでもスポーツ番組でも、話題とストレス解消を求めたい。それで倍速視聴に至るという。追われるのではなく、中身と情感を追い求めていく反転のサイクルはできないのか。AI、SNS社会の進展するなか、大事な局面に立っている。
カフェ「クロシェット」の女性店長の原田清瀬は、客として来て知り合った松木圭太と恋人になる。しかし、松木は素直でまっとうで良い人物だが、自分のことについては全く話をせず、違和感が付きまとった。ある日、その松木が歩道橋から転げ落ちて意識不明と警察から連絡がある。親友と喧嘩をして共に転げ落ちたというのだ。親友の名は岩井樹(いつき)。不機嫌になって声を荒らげることもない松木が、なぜ親友と大喧嘩となったのか。なぜ親が駆けつけてこないのか。「いっちゃん」とはどんな関係なのか。松木の部屋に行くと、文字の練習をしている様子だが、これは誰に教えているのか。次々に疑問が噴き上がってくる。
いろいろわかってくる。「小学校低学年の頃、いじめにあっていた松木がいっちゃんにいつも助けられたこと」「いっちゃんは極端に字が書けないが、ディスデクシア(発達性読み書き障害)であること」「親からも周りからも、いっちゃんはアホと言われるが、それは障害を全く理解していないからであること」「松木は母親から『あんたは将来ぜったいとんでもないことをしでかす』と乱暴者扱いをされてきたが、愚弄され続けるいっちゃんを助けるためだったこと」「カフェの従業員・品川さんは、だめな人ではなく、ADHDであったこと」・・・・・・。そして「いっちゃんが好きになった菅井天音に手紙を書こうとし、松木がその手伝いをしていたこと」「天音が乱暴者の小滝という男と同棲し、今逃げているということ」などがわかってくる。
人の本当の姿はわからない。近くで接していても、本当の心はわからない。障害もわからない。善意であっても、助けてもらう行為に、された方が苛立っていることもわからない。
周りを振り回し続ける菅井天音。「川のほとりに立つ者は、水底に沈む石の数を知り得ない」――。天音の心に流れる暗くて深い川。傷ついた人々が、他者に救われ、再生する物語に、幾度も涙を流してきた清瀬だが、「手を差し伸べられた人は、すべからく感謝し、他人の支援を、配慮を、素直に受け入れるべきだと決めつけていたが」・・・・・・。そうではないことを思い知るのだ。人の表面を見ても、内面はわからないし、内面の事は絶対知られたくないと思っている人が多くいる。まして、"善意"などで助けてもらいたくない。短いが重い小説。「あなたの明日がよい日でありますように」と素直に思えることが、最終メッセージと感じる。
滋賀県大津市の同じマンションにずっと住んでいる成瀬あかりと島崎みゆきの絶妙のコンビ。成瀬は、幼稚園の頃から走るのは速いし、絵も歌もうまい。成績は超優秀、超然として他人の目を気にすることなく突き進み、他人を寄せ付けない。"男前"というやつだ。周囲から浮いてしまうが、島崎みゆきだけは、すっと成瀬を受け止める。この2人の中学、高校時代の物語だが、とにかくキャラが立っている。カラッと明るくて、破天荒で、面白い青春小説。
中二の夏、成瀬がまた変なことを言う。「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」・・・・・・。8月31日、西武大津店が閉店となる。これから毎日、野球のユニホーム姿で目立つようにして西武に通い、テレビに出ると言う。また「将来、私が出店する」とも。さらに「私の目標は200歳まで生きること」「わたしと島崎でコンビを組んで、M1グランプリ出る」・・・・・・。かつては、「大きなシャボン玉作り」で"天才シャボン玉少女"として有名になったり、大津市のけん玉チャンピオンにもなる。名うての進学校・膳所高校には坊主頭で入学。小倉百人一首かるた高校選手権で勝ち抜いていく。とにかく痛快、周りを気にしない。
さあ成瀬はどうなる。気になるところだが、大学受験で島崎と遠く別れるところで、精神的にがたつくところも面白い。新しい感性の話題の小説。
江戸時代、学術書を行商して歩く本屋「松月平助」が、村と村が発展した在郷町の住人たちとの接触で得た感動的な物語。生き生きとした暮らしや人情、見識ある人間が、じっくりと描き出される。青山文平さんらしい熟練の境地がとても良い。
「私は本屋だ。本屋は本屋でも物之本の本屋で、漢籍や仏書、歌楽書、国学書といった学術周りの書物を届ける。とはいえ、医書に取り組んでからは、まだ日が浅く、城下の医者と十分に顔がつながっているとは言えない」という状況だが、書物好きが昂じて一念発起して本屋となっただけに、かなりの見識と情熱を持っている。1800年頃までの日本の書物は極めて貴重。丁寧に意欲を持って集めている。そして「開版」という夢を持つ。武家が困窮している時代――。得意先は、名主・庄屋、豪農など地付きの名士だ。イタリアの「モンテレッジォ」の本を担いで旅に出る本屋を思い出す。
連作3篇となっている。「本売る日々」――。得意先の小曽根村の名主・惣兵衛が71歳で17歳の後添いをもらったびっくりするような話。「今の惣兵衛さんには本に使う財布の持ち合わせは無いかもしれませんよ」といわれるが、そうではない。本も買うが、欲しがるものを何度も買い与えているというのだ。そして、持ち込んだ本がなくなっていた・・・・・・。
「鬼に喰われた女」――。杉瀬村の名主・藤助が語る八百比丘尼伝説のような女の話。和歌を通じて惹かれ合い、結婚寸前までいきながら、男は武家の娘を選ぶ。女は何年、何十年たっても歳をとらない。そして"復讐"を遂げる。しかし女の本当の心の中は・・・・・・。
「初めての開版」――。弟の娘の矢恵は喘病で苦しんでいたが、西島晴順という医者にかかって好転する。西島には良い噂もあれば悪い噂も。この土地で最も頼りになる医者は、城下の町医ではなく、近在の小曽根村の村医者・佐野淇一。名主の惣兵衛に聞くと、「世襲医の中でぴかいちなのが淇一先生。小曽根村の誇り」と言う。会うと、感嘆するほどの人物。この佐野淇一と西島には隠された出会いがあったのだった。この結末は「秘伝」なるものを公に分つことも含めてすばらしい。
江戸時代が武士の時代であった事は、紛れもない事実だが、庶民の中、村の中に、本を愛し、知識を欲し、人格を磨いた重厚感のある人物がいたことを描き出している。江戸の町や村には、そうした豊かさが着々と築かれていたことがよくわかる。心に染みいる素晴らしい作品。
「普遍的な正義と、資本主義の行方」が副題。2020年から22年8月までに、月刊誌に連載してきた時事的な評論集。流動化する世界の中で、日本はどうすべきか。ロシアのウクライナ侵略を始めとする世界を揺るがす問題の核心に、俯瞰的に時間軸を持って大胆に迫る。その社会学的アプローチは、極めて刺激的だ。
「ロシアのウクライナ侵攻――普遍的な正義への夢を手放さないために」が第1章。「ロシアがとったキリスト教は、東側のキリスト教、つまり正教。ヨーロッパを文化的に特徴づけているのは、西側のキリスト教であるカトリック(プロテスタンティズムが派生)」「プーチンには、非常に深いヨーロッパ・コンプレックス、ヨーロッパに対する憧れと劣等感がある」「ヨーロッパとははっきりと異なる大義をもつユーラシア主義?」「『ほとんどわれわれ』のウクライナは、ロシアよりもヨーロッパをとった」「フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』の現在、戦争は、文明の衝突の様相を帯びる」「ロシアを非難しない国々がたくさんあり、反対5カ国、棄権35カ国から見える真の争点」「ロシアの一般の市民や民衆が『ヨーロッパ以上のヨーロッパ』たり得ることを行動で示すことこそ、真の問題の解決だ」と言う。愛国主義、ナショナリズムを通って普遍主義へ至る道があり、愛国的であるが故に、普遍主義に立脚することができることを、「日本人にとっての教訓」と言っている。
大きな論点は、第二章の「中国と権威主義的資本主義――米中対立、台湾有事と日本の立ち位置」だ。「中国のナショナリズムは、中華帝国のやり方をそのまま転用したものである。・・・・・・西ヨーロッパに出現した原型としてのネーションは、帝国的なるものの否定として成立した。中国は帝国をそのまま肯定的に継承し、ネーションとした」「台湾に執着するのは、中国が帝国の原理で動くネーションだからだ」と言う。中国は、国民国家の体をしながら、実質的には序列を非常に重視する帝国であり、法の支配よりも皇帝や共産党が上位に来る権威主義が資本主義と接合している。権威主義的資本主義は、①有能でつよい権限を持つ官僚・行政があること②法の支配が欠如していること③国家の民間部門に対する高度な自律性――としているが、金権腐敗は免れない。しかもこの権威主義的資本主義は、グローバルサウスに輸出されることはない。そして極めて面白いのは、「インターネットを主要な手段の場所として、現在の資本主義は、本来はコモンズであるべき『一般的知性』に私的所有権を設定するレント資本主義の形態を取ることになる。そして、レント資本主義は、それを担う人々のイデオロギーや思想とは関係なく、権威主義的資本主義へと漸近していく」と言っている。
「ベーシックインカムとその向こう側」「アメリカの変質――バイデンの勝利とBLMが意味すること」「日本国憲法の特質ーー私たちが憲法を変えられない理由」の各章がある。「私はあなたたちのために何ができるのでしょうか」との白人の女子大生の問いかけに、マルコムXが"N o t h i n g"と答えた。哀れな犠牲者である黒人を支援しようでは拒絶されるのは当然。人種主義の根源にも触れている。短く、一度も変えていない日本国憲法のなぜ。「創設」の行為がないことを指摘している。