choon1.jpg幕末維新の動乱を「富山の薬売り」たちはどのように見、どのように生き抜いてきたか――宮本輝さん初の大河歴史小説全四巻。司馬遼太郎の「坂の上の雲」を想起させる大作だが、本書は「名もなき民衆」から見た幕末維新だ。全国各地へ赴く行商人には、生々しい情報が直接もたらされた。特に薩摩担当の売薬行商人は激動の渦をかき分けるかのように戦わなければ、富山を担う仕事はできない。物語の第一巻は、明治維新の20年前から安政の大獄の直前まで。黒船来航など西欧列強が押し寄せ、安政の大地震があり、将軍後継をめぐる争い等、幕府は弱体化し、日本社会は混乱を極め揺れに揺れた。

物語は、越中八尾に生まれ、薬種問屋高麗屋に入り薩摩担当の売薬行商人となった川上弥一の語りで貫かれている。時期は西南戦争後の明治、激動の時代を振り返りつつ実に丁寧に深く語られる。

「越中富山の反魂丹」「薬の代金を後で頂戴する『先用後利』の商法」「越中富山の薬売りの隆盛はひとえに人材育成。まず人ありき、次に薬ありき」の特徴を持つが、特に薩摩は重要であった。幕府の薩摩弱体化・弾圧と藩主の浪費癖によって積もり積もった藩の赤字は五百万両。そこで薩摩は越中富山の売薬業者と廻船問屋、琉球を抱き込み、清との密貿易網を築き上げようとした。清の欲しがる干し昆布などを富山の廻船問屋、北前船によって蝦夷地から大量に運び、琉球を経由して清に売り、大量の唐物と唐薬種を得て、その唐薬種を必須とする富山藩に渡す。薩摩は、この密貿易によって借財を返し、余剰金で英国からの大砲や新式の銃を購入し倒幕に向かう。倒幕・開国と薩摩と越中富山の薬売りとの関連が鮮やかに見えてくる。薩摩に向かう仲間組は「冥土の飛脚」と呼ばれる危険なものであったが、特に優秀な人材が選ばれたのはその重要性があったからだと語る。

描写は丁寧できめ細かく鋭い。「わたくしは日本という国の足元から地鳴りが聞こえ始めていると感じざるをえませんでした」――。幕府、日本の動揺が地鳴りがするごとく活写されるが、庶民の哲学が開示されるのが、本書をさらに奥行きの深いものにしている。

「求められておるのは、才ではない。大きな心だ」「『心の不思議』『心とはなにか』。それこそ、高麗屋に奉公に上がって理由もわからぬまま百五十六日も、廊下の隅に座り続けた後に、緒方喜重郎様から与えられた生涯の命題の解答を得る鍵であったからでございます」「水府の学は危ない。世の中を壊す思想だ。世の中を壊したいものたちにとってはお誂え向きの思想だ。・・・・・・水戸の学問には『心』が完全に欠落している。道徳を重視しながらも『心』を説かない。心の不思議を考えようともしない。俺が水府の学にまやかしを感じるのはそこだ」・・・・・・

「思えば、越中八尾の紙問屋の倅が十六歳で突然高麗屋に奉公に上がったころから、わたくしどもの国は、大きな変化を強いられてきました。・・・・・・その変化のなかにあって、いささかも変わらない売薬行商人たちの寡黙で一途で誠実な商いも我が目で見てきたのです。一途で誠実なものだけが勝つ。策ではない。そのとき、そのときで知恵の限りを尽くす。そして忍耐、忍耐、忍耐だ。耐えるためには勇気が要る。勇気がなければ努力を持続し続けることはできない。それを、わたくしは行商ではなく、ただ薩摩と富山を合計で七十日かけて往復するという、無駄と思える一種の苦行を数年間続けることで学んだのでございます」・・・・・・

富山では売薬人が薬種業者から仕入れた薬材料を使って自分の家で薬を作っていたと言う。そしてニ千人以上が売薬業に従事し、全国に散り、現場の情報を握っていたと言う。


yoakenohzama.jpg小さな地方都市にある家族葬専門の葬儀社「芥子実庵」を舞台に、「死」を前にして、「自分らしく生きる」ことを突きつける人生ドラマ。

「見送る背中」――。仕事のやりがいと結婚の間で揺れ動く芥子実庵の葬祭ディレクター・佐久間真奈。親友のなつめが突然、常連客の男と心中。「佐久間真奈さんの担当で、簡素な式をお願いしたい。葬儀の連絡を取ってほしい人は、高瀬楓子さん、これくらいしか」「思いつく限りの試行錯誤をしました。じゅうぶんもがけたかなと思います」と遺書を残す。なつめはデビュー作で賞を取り、ベストセラー作家にまでなったが、その後全く売れず、デリヘル嬢になっていた。真奈の恋人・純也は、「何も死体を触るような仕事じゃなくてもいいだろう」と転職を求め、結婚したばかりの楓子の夫は、「デリヘル嬢だったなんて酷い。楓子は行かせません」と言う。・・・・・・そして、「楓子、まずは中に入って。なつめと3人で話そう」「自分の人生の戦場を真正面から生き抜いた友のことを」・・・・・・

「私が愛したかった男」――。花屋の牟田千和子は夫から「別れてください」と言われて離婚。娘を一人で育てるが、娘の天音は大学を辞めて、東京の恋人のところに行くと言う。そんな時、元夫の野崎速見が恋人が死に、こともあろうに、その葬儀を手伝ってほしいと頼まれる。なんとその恋人とは男性だった。千和子は優柔不断な野崎を押しに押しての結婚だった。「せっかく助けてくれたひとを、自分の中の『正解』に無理やり当て嵌めてしまったのよね。大事なひとがどんなふうに生きたいか、何を幸せに感じるかなんて考えてなかった。それが、離婚の理由なんだけど」「私からのアドバイス----。『相手の幸せを考える時間』も大事なんだよ」「ひとはいつ、大事なことに気づくかわからない。気づけるその日まで、自分なりにもがくしかない」・・・・・・。「私が愛したかった男」で、「愛した男」ではなかった。

「芥子の実」――。芥子実庵の新入社員の須田。中学の時、激しいいじめを受けた同級生・伊藤の父の葬儀を担当することになってしまう。世界でいちばん会いたくなかった男だ。ひどいいじめだった。「なぁ、あんた。薄暗い団地の、ゴミと埃だらけの踊り場で死ぬ女もいるって知ってるか? 底冷えする公民館で、誰にも惜しまれることなく厄介者扱いされて。----そして、その女の息子を、長年小馬鹿にしてきたのが、あんたの息子だ」。伊藤は上から目線で謝る。「俺はこれから先何があったって、君たちを『許す』とは言わない。君たちにされたことを一生忘れない」「豊かに生きてる人間の言葉は、俺には響かない」・・・・・・芥子実庵の社長・ 芥川は、職場を辞めるという須田を火葬場に連れて行く。「愚かな女が、愚かなりに一生懸命育ててくれた。その母を寂しく送ってしまったことへの後悔が、時間とともに膨れっていって、俺を押しつぶしそうなっていた」・・・・・・。仏教の逸話、「その芥子の実は、今まで死んだものを出したことのない家からもらってくること」----。芥子の実はどこの家にもない。死んだものを出したことのない家など一軒もなかった。

「あなたのための椅子」――。元恋人の訃報を受け取った主婦・良子。しかし夫は葬儀に行かせようとしない。弟の純也(芥子実庵の佐々木真奈の恋人)が、一策を講じて葬儀に出るが----。この日本社会には抜きがたい男尊女卑、職業蔑視、死を忌む心が溢れている。

「一握の砂」――。佐久間真奈と純也、そして芥川のそれぞれの人生観、死生観が接っし合い、ぶつかり、本音からの語らいから這い上がる。「自分らしく生きていこうって決めたんだ」・・・・・・。「死」の衝撃のなかから、自分の「生きる」ことを考える。練り上げられた5つの小編連作。


hakarazumo.jpg1923年生まれの佐藤愛子さんと1972年生まれの小島慶子さんの「愛について」「世情について」「人生について」「結婚について」の往復書簡集。面白い。「『あなたと私はよく似ているけど、ひとつ違いがある。理論好きの慶子さんと乱暴者の私』と佐藤さんはおっしゃいます。『論理を踏んづけて情念に生きる』というお父様の影響を受けた佐藤さんと、深すぎる情念を理屈で掻き分けて生き延びてきた私は対照的です。当時は佐藤さんの豪快な一喝をくらって、納得もいかない思いもありました・・・・・・」と小島さんは語っているが、「何事も豪快に笑い飛ばすイメージの佐藤さんですが、それは極めて繊細で精緻な思考の上に成り立つ豪快さです」とも語っている。

読んで感ずるのは、小島さんは佐藤さんと会話ができて幸せだなという感慨。逃げないで真正面から悪戦苦闘する小島さんに、さんざん山ほど苦労して乗り越えてきた佐藤さんが、「そんなもの・・・・・・」と言い放つ。いい新人選手を見つけた名コーチが心を膨らませてアドバイスする。そんな「はからずも人生論」だ。

「夫はなぜ、私の孤独と不安にこうも無頓着なのでしょう。それともこんなことで激昂する私は、よほど了見の狭い女なのでしょうか」「えてして人間というものは愛していればいるほど、相手からも同量に愛を得たいと思うものです。・・・・・・慶子さんは我慢のし過ぎです。愛し過ぎです」「夫婦喧嘩の大義は要するに『ウップン晴し』ですからね」・・・・・・

「人間が『生きる』ということは、本当に涙ぐましい努力の連續です。良いも悪いもない。幸福か不幸か、苦しいか苦しくないか、善か悪か、そんなこととは、問題が別なのです。『ただ生きた、かく生きた、一生懸命に生きた、彼なりに』」「94歳でそのお元気のコツを教えてください。・・・・・・『知らんがな、そんなこと』」「好きでやってるわけじゃない。これが現代を生きるということなのか――私は何ごとにも妥協せず、頑固に自分の生きたいように生きてきました。それができた時代だったのですね」・・・・・・

「今の時代は何かというと、人の気持をわからなければいけないといい過ぎると私は思います。夫は妻の、妻は夫の、親は子供の、教師は生徒の・・・・・・。エイいちいちうるせえ、と私はいいたくなる。人は人、我は我。私はそう考えて、94年の波瀾を乗り越えてきたのですよ! そう考えなければ生きてこられなかったのよ!」・・・・・・

「夫婦なんて『そんなもん』だと私は思ってる。あなたは真剣勝負が好きなのね。その点も私とあなたは違う。私は『いい加減』が好き。人の目には真剣勝負をしているように見えるかもしれないけれど、その真剣勝負もホントはいい加減にやってるんですよ。そうでなければ、慶子さん、この気に入らないことの多い厄介な世の中を96年も生きて来れませんよ!」・・・・・・

こんな具合に、二人の往復書簡は噛み合っている。面白い。  

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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