変異株が全国的に襲いかかっている現在、"医療崩壊"が懸念される現場は、毎日毎日、どんな緊迫した悪戦苦闘状態にあるのか。コロナという未知のウィルスに立ち向かった"長野県"を想定した小さな病院・信濃山病院の医師・看護士・スタッフ。ウィルスと戦う最前線の「小さな砦」。今年1月の新年早々、想定をはるかに越える患者が押し寄せる。当然キャパはない。態勢もない。すでに1年間の疲労が蓄積している。しかしやらねばならない。内科の三笠、敷島、富士、日進、春日、音羽、外科の千歳、龍田の各医師は通常の専門の医療を行いつつも、コロナに対して看護士・スタッフといつ寝たかわからないほど働き続ける。「手探りの医療という絶望感と、どの医療機関の協力も得られない孤立感」「静観している行政の態度や、周辺機関の及び腰の態度と鈍重な動き」「周りに大病院があっても当院だけが背負い込む理不尽な体制」「肺炎にも入院できず自宅待機、入院させてくれと涙を浮かべる患者」「発熱外来への車の長蛇の列」「真っ暗な袋に詰められ、見送る者もなく運び出される遺体」「認知症の重症患者への対応で、のしかかる負担」、そして起きた「院内感染」・・・・・・。他の病院のようにコロナ患者の受け入れを拒否できない。「結果から見れば、正解であったとは言えませんが・・・・・・。最善であったことは確かです」と、会議で話すと「会議室は静寂に包まれた」とある。
「この未曾有の大災害の中で、多くのひとが、静かに耐え続けている。マスメディアは、舞台上で声を張り上げる人にスポットライトを当てることは得意だが、市井の沈黙を拾い上げる機能を持っていない」「圧倒的な情報不足、系統立った作戦の欠落、戦力の逐次投入に果てのない消耗戦」「この戦争負けますね」・・・・・・。現役医師の描いたドキュメント小説。
「(現前する)時代状況の背後に、深刻なアイデンティティーの危機がある。戦後日本のアイデンティティーとは、政治では自由と民主主義、経済では成長主義、私的レベルでは個人主義にほかならない」「個人レベルでも、国家レベルでも深刻な戦後的価値観の解体の危機に直面している」「コロナ禍は、私たちの生活の基盤や価値をつくっていた戦後の社会関係を解体した」――だから、「今、求められているのは新しい国家像、すなわち令和日本のデザインではないか」と、時代を診察しつつ「国家の尊厳」という大きな見取り図を描こうとする。
安倍政権は時代状況を背負い、露わにした長期政権であると診断する。戦後日本は「権力vs市民」「国家権力vs民主主義」の対立図式にあったが、その「権力」自体が「権力の分散化」をもたらし、自由も民主主義も壊れ、情報化とポピュリズムに翻弄されている。「現代社会が、攻撃性を強め、なによりも"遅さ"を嫌悪する社会」になっている。コロナ禍で、それがより露わになっていると指摘する。徹底した市場経済と成長主義を掲げた米国が"トランプ現象"「空っぽなポピュリズム大国」と化し、「ポピュリストは"汚れなき人民"vs"腐敗したエリート"」と善悪二分、攻撃性を強めている。中国は強力な権力をもっての独裁によってコロナの制圧、ワクチン外交によって世界への影響を更に強める。まさに世界はグローバル化のなか「権力が希薄となり、所属意識を奪われた個人が群衆として蠢いている」のだ。
「三島由紀夫vs東大全共闘」でも、戦後民主主義に否定的であることは全く共通し、三島の方は「天皇と日本人の紐帯の復活」を求めた。日本は現代においても「戦後民主主義」も「憲法」も「安全保障」も、一つの"限界"ともいうべきものを迎えていることを感じつつも、変えるべき方向性を見出し踏み込むことに、多くの人が躊躇い、不満をため込んでいる。先崎さんは「互助の感覚を、たとえ人為的であれ、都市と地方の区別なく再生する」「山崎正和が柔らかい個人主義の誕生で50年も前に指摘したように、国家、職場、家庭への所属意識の希薄化が進行している」「本来、個人は何らかの共同体に所属し、自らを位置づけることで、アイデンティティーを安定させている」「個人は共同性に支えられ、他者から役割を与えられ、正当な評価を受けること。それが人間の尊厳だ」・・・・・・。
「令和日本のデザイン」――先崎氏は令和の日本は「尊厳とコモン・センスをキーワードにした国づくりを目指すべきだ」という。ポピュリズムが跋扈し、不安・不満を"敵"に集団化させて暴力的にぶつけるような日本にはさせたくない、"ラディカルとは根源的に問うこと"であり、時間の厚みをもった安定した共通感覚、コモン・センスの重要性を指摘する。
三島屋変調百物語七之続。江戸・神田の筋違御門先で袋物屋を商う三島屋で行われている風変わりな百物語。「語って語り捨て、聞いて聞き捨て」が原則で、心のわだかまりや澱が吐き出される。「百物語なんかしていると、この世の業を集めますよ」――。従妹のおちかから引き継いだ「小旦那」の富次郎は、語られた話を墨絵に描いて封じ込める。江戸の町人文化、人の情や業が描かれる。さすがと思わせる筆致。
「火焔太鼓」――。美丈夫の勤番武士・中村新之助(幼名・小新左)が、国許では語れぬ大加持藩に伝わる火災を制する神器「火焔太鼓」「太鼓火消し」の由来と驚くべき真実を吐露する。「火事という火事が小火で消し止められてきたのは、お太鼓様が火気を喰らって封じて下さるからだ」・・・・・・。
「一途の念」――。馴染みの串団子の屋台の娘・おみよから母・お夏の話を聞く。「おっかさんが死んだんです」「おっかさん、気がふれちまって、自分の目ン玉を指で、ほ、ほじくりだそうとして」・・・・・・。お夏は15歳の時、名を「夏栄」と改め、格式の高い料理屋「松富士」の仲居となり、料理人の伊佐治とも結婚する。美男美女だった。しかし松富士の名だたる包丁人・喜久造が闇討ちにあって命を落とし、女将も倒れ「松富士」は沈んでいく。格式どころか「女」まで売る店へと転落していく。肺病で伏せていた伊佐治の看病をしつつ夏栄は「客」の相手までさせられ、次々と子供が生まれる。それが皆、男3人とも伊佐治にそっくりだった。4人目の子がおみよ。そして夏栄が死んで・・・・・・。驚くべきお夏の「一途の念」が・・・・・・。
「魂手形」――。深川の蛤町の北にあった木賃宿「かめ屋」を営んで父母と弟2人の5人で住んでいた吉富15歳のお盆の頃。「正真正銘のお化けがお客として泊まったっていうのが、この話の始まりでござんす」「きっちゃん、昔、お盆の最中にかめ屋に泊まった、なくなった人の魂が見えるって鳥目を病んでいたお客さんのこと、覚えているかい? うん覚えているよ。母ちゃんも覚えてたんだね」「あれは『魂手形』(たまてがた)と呼ばれるもので、お上から魂の里の水夫だけに下される特別な通行手形なんだ」「魂さんの行きたがるところへ案内するのが水夫の務めだ」「あたしら里に寄りつく魂さんはみんな、魂見に道理を説いてもらって、形をつくって落ち着くんだ。あたしらが迷魂や哀魂で済むか、怒魂や怨魂になってしまうか、それも魂見の説教と、あとは水夫の面倒見次第さ」・・・・・・。
不可視の「業の世界」「あわいの世界」を、人はどの時代においてもせめて一人に「語り」「聞いてほしい」と思うものだ。死んでも・・・・・・。
1945年7月、2か月前にヒトラー総統は自殺し、ナチス・ドイツが降伏、戦争に敗れ荒廃したベルリン。米英仏ソの4か国の統治下におかれたが、ソ連と米英仏は対立状況にあった。街は完全に破壊され、生活は極度の困窮。ナチスに弾圧・虐殺されたユダヤ人や共産主義者は、絶望から脱する窓は開いたもののその傷は回復できないほど深く、心に絶望の刃を突き刺したままだった。破壊され絶望のベルリン――。そんななかでドイツ人で17歳の少女アウグステ・ニッケルの恩人であったクリストフ・ローレンツが、ソ連領域で米国製の歯磨き粉に含まれた青酸カリによって不審死を遂げる。ソ連のNKVD(内務人民委員部)大尉ドブリギンはアウグステに不審の眼を向けつつ、クリストフの妻フレデリカの甥エーリヒ・フォルストに訃報を伝えるよう仕向け、元俳優で泥棒のファイビッシュ・カフカを道連れ役とする。事件の真相は・・・・・・。街も人心も破壊され尽くしたベルリンを舞台に、二人は思惑を胸に秘し不安な旅を始める。
敗戦直後のベルリン。ありとあらゆる狂気が全ての人の人生を奪い去っていた。戦争と敗戦の荒廃した街と人心。ユダヤ人や障害をもつ者への想像を絶する弾圧・虐殺。裏切り・告発で生き残ろうとする者たちとスパイ・陰謀・・・・・・。極限、極致の姿が描写されて息苦しい。戦争と狂気が何をもたらしたか。そしてこの毒殺の思わぬ結末が明かされる。空を見る余裕もない人々・・・・・・。「ベルリンは晴れているか」の表題が読み終えた時に、「確かに・・・・・・」と思えてくる。スケールの大きい傑作。
「夜回り先生」と呼ばれ、子どもたちの非行防止や薬物汚染防止、さらには教育のあり方等々、現場で幅広く闘い続けている水谷修氏が、この2年、話題となった事件・出来事の報道について、その考察を語る。軸がきわめて明確。「ネットニュースのみで情報を得てしまうことになれば、情報量は増えるが、1つひとつの事件や社会現象についての深い分析と理解ができなくなる」「集めた情報を自分なりに分析し、自分の知識とする、これが重要」「報道には2つの『一線』がある。1つは『必ず越えなければいけない一線』――権力からの圧力や暴力などの危険があっても報道する。それには『正義』の心」「もう1つは『決して越えてはいけない一線』――報道してはいけないことがある。これを守るのはメディアや記者の『愛』の心」「そして情報を受け取るこちら側が、知るべき情報と知ってはいけない情報を『正義』と『愛』の心で取捨選択する賢明さを持つ」ということの必要性を語る。この2年、多くの人が知るところとなった事件・出来事について「観る」べき軸を明示する。
「車は走る凶器――あおり運転防止」「同僚教員へのいじめ問題――いじめではない。立派な犯罪。教育委員会は調査・公表すべき」「中2女子生徒の担任による拉致・監禁事件――守るべきは被害者・生徒であり、学校の体裁や教員ではない」「高2生徒が教員による個別指導後に自殺した哀しい事件――生徒は教室で一人残され、どれだけ苦しんだか」「田代、槇原の覚せい剤所持逮捕――ドラッグは2つの言葉で定義できる。①やったらやめられない依存性物質(1回目の使用から強烈な快感)②やったら捕まる違法物質」「児童相談所が深夜に女児を追い返した事件――児相は子どもたちの命の最後の砦だ」「女性殺害事件――被害者の報道に人権への配慮を」「コロナと学校のリモートワーク――学校は仮想空間で十分ではない。社会性や人格形成に文化祭・体育祭などは大切な行事」「いじめ防止対策推進法の改正――暴力・金品要求・脅しは人権侵害。それはいじめではなく犯罪。無視や悪口・陰口はいじめ」「相模原障がい者施設殺傷事件――障害者は社会のお荷物ではない」「8050問題――政治の無策で生み出された問題」「教育者とは――少なくない家庭が教育の場として崩壊しつつある現在、学校の教員が担うしかない。子どもたちのことを心配する1人の人間として」・・・・・・。
大切な子どもたちを心配して守り、闘い続けている毅然たる声が伝わってくる。