三国志入門.jpg「三国志の世界を知ることは、宝の山に踏み込むようなものかもしれません」――。その通りだと思うが、あまりに膨大な三国志の世界は、森の中に入り込んで全体を見失いがちなのも事実だ。羅貫中の小説「三国志演義」、陳寿の歴史書「三国志」を踏まえ、中国歴史小説の第一人者の宮城谷さんがバシッと全体像を示してくれる。天が晴れるような「三国志」入門の書だ。

まず「三国志演義の世界」では、桃園の誓い、伏竜と鳳雛、秋風五丈原など、きわめて短く全体像をまとめてくれる。羅貫中は黄巾の乱(184年)から呉が滅亡して晋の武帝の太康元年(280年)までを描く。劉備を軸とした小説だ。中国の「三国時代」は曹操の子・曹丕が帝位についた年(220年)から司馬炎が帝位に即いた晋王朝が始まる265年までの間で"狭義の三国時代"となる。関羽や曹操は220年に死に、劉備は223年に死去する。「三国志の時代」は党人禁錮、宦官と外戚の威権除去、黄巾の乱で幕をあけ、群雄割拠の激動の世となる。

本書は時代の全体像とともに、「英雄たちの真実」「手に汗握る名勝負」「三国志のことば」の急所を描く。「英雄」として上げるのは、曹操、袁紹、劉備、孫権、諸葛亮、董卓、呂布、関羽、張飛、劉表、周瑜、荀彧。「名勝負」とは、「官渡の戦い 袁紹×曹操」(200年)、「赤壁の戦い 曹操×周瑜(孫権)」(208年)、「夷陵の戦い 劉備×陸遜(孫権)」(222年)、「五丈原の戦い 諸葛亮×司馬懿(曹叡)」(234年)だ。「三国志のことば」は「脾肉の嘆」「三顧の礼」「七縦七擒」「出師表」「泣いて馬謖を斬る」「死せる諸葛・・・・・・」「鶏肋」などだ。

久し振りに「三国志」の世界にふれることができ、頭が整理された。


ドキュメント  湊かなえ著.jpg「ブロードキャスト」に続く高校部活シリーズ第2弾。中学時代に陸上部に所属していた町田圭祐。駅伝で全国大会をめざしていたが県大会で僅差で敗れた。エースの山岸良太が出れなかったのだ。二人は陸上の強豪校である青海学院高校に進むが、圭祐は入学直前に交通事故に遭い、同じ中学出身の宮本正也に誘われ放送部に入部する。3年生が引退後、圭祐は2年生4人(白井律部長、蒼、黒田、翠)と同期の正也、久米さんと共に、全国大会めざし、テレビドキュメント部門の題材として「陸上部の活動」をやろうとして、ドローンまで使って撮影に入る。ところがこのドローン動画の中に、火のついた煙草を持って部室から出てくる親友・良太の姿が映り、驚愕する。「そんな良太ではない」「誰かが、良太を、陸上部を貶めようとしたのか」――放送部のそれぞれの人間関係の裏の姿が明らかになっていく。

コロナ禍で十分な部活ができない。新入生が入ってこない。オンラインだけでは本当の人間の接触ができない。練習も指導も友情も中途半端になることを読後に現在の日本を思いハッとする。高校時代は青春まっただなか。社会や友人との出会いのインパクトの強さ。本書の事件も「悪」というより純粋な「ひたむきさ」を感じさせる。

放送部が撮ろうとした映像。撮られたくない者もいる。映像が一人歩きしたり、悪用されるこのSNS社会のデリケートさと各個人の思惑。「伝える」ということがいかに難しいか。こちらの善意の思い込みが、他の人には善意や正義の押し付けになったりもする。青春時代はそんな未熟さが魅力でもあるし、思わぬ刃ともなる。「どうして俺はレンズのこちら側にいるのだろう」と圭祐はつぶやくが、その通り、人生には悔恨もあれば希望を見出そうとする意志もある。


民衆暴力.jpg「一揆・暴動・虐殺の日本近代」が副題。日本近代には、現代では考えられないほど激しい民衆の暴動があったが、民衆が法や規範を突き抜けて何故にそのような状態がつくり出されたのか。「権力に対抗する民衆」と「被差別者を迫害する民衆」とは別の民衆のように思われるが、なぜ2つが同居するような暴動となったのか。民衆を暴動・虐殺にまで走らせた背景には、どのような不満・恐怖のマグマがあったのか。本書は「新政反対一揆(明治初期)」「秩父事件(1884年)」「日比谷焼き打ち事件(1905年)」「関東大震災時の朝鮮人虐殺(1923年)」の4つの事件を取り上げ、「事件の時代背景」「民衆暴力と国家の暴力の関係」「権力への暴力と被差別者への暴力の関係」等を抉り出す。

よく語られる江戸時代の「百姓一揆」――。それは暴力的でも非合法でもなく、「仁政イデオロギー」と「百姓一揆の作法」に基づいていた。幕末の「世直し一揆」は、領主権力への訴えという要素は薄く、豪農商層に対する制裁行動が中心だった。そして明治初期の「新政反対一揆」――廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改正など明治新政府の一連の政策に対して起きた一揆。廃藩置県の衝撃は勿論だが、学校制度も農作業の働き手の子どもを失うことや教育費の問題もあった。裸体や半身を出して道路を歩かないようにというような生活様式の変化、"黒人"への脅威、被差別部落や「穢多」の廃止と反発・・・・・・。強烈な解放願望が生まれていたのに、新政府は生活を楽にしてくれず、むしろこれまでの生活を脅かす存在だったことに対して、人々は痙攣的な拒絶を見せたのだ。

1884年の秩父事件――。「困民党」「貧民党」と呼ばれた秩父地方の農民が決起し、高利貸への放火、郡役所、裁判所、警察署などを襲撃。暴動は隣県にまで広がった。背景には「松方デフレ」「自由民権運動の展開」があった。1905年の日比谷焼き打ち事件――。ポーツマス条約調印に際して、条約破棄を求める国民大会(政治集会)が日比谷公園で開かれ(2~3万人)、大会終了後に警官と衝突。大会参加者だけでなく、参加してない者も加わって何区にもわたって派出所・警察署・キリスト教会の破壊・放火が連鎖した。ナショナリズムの昂揚だけでなく、自らの身内が死傷したのに賠償金も取れないという厭戦気分、馬鹿らしさが広がっていたという。暴動参加者には東京に出てきた次男・三男の工場労働者(社会的な評価が低かった)が多く、その「男らしさ」「噴火熱」「警察権力への敵視」があったと指摘する。

関東大震災時の朝鮮人虐殺――。「戒厳令」の施行は、あたかも「朝鮮人が暴動を起こす」かのような流言をもたらし、軍隊・警察・民衆(自警団等)から朝鮮人殺害のためらいを払拭させたという。その酷さたるやあまりの狂気だ。「暴力という、日頃抑圧されている行動に一歩踏み出すと、・・・・・・日常には明確に意識されていない願望や行動が噴出する。それは自らの生活を脅かす権力への暴力行使となる時もあれば、被差別部落や朝鮮人への残虐行為となることもあった」とし、民衆暴力が「国家と民衆」「民衆の内部」の権力関係に渾然一体となって表われることを指摘する。


鬼哭の銃弾.jpg東京・府中市内の多摩川の河川敷で発砲事件が発生。弾丸を調べたところ22年前に府中市で起きたスーパー「いちまつ」強盗殺人事件(店員3人が射殺)に使用された拳銃の線条痕と酷似していることがわかった。迷宮入り事件の捜査が一気に動き出す。発砲事件といちまつ殺人事件の関連捜査を命じられた警視庁捜査一課の刑事・日向直幸。じつは22年前の事件は、日向直幸の父、ケタ外れの鬼刑事の日向繁が担当した事件だった。しかも父・繁は、捜査にのめり込み、妻子に激しいDVを働き、家庭を崩壊させた男でもあった。母は若くして死亡、直幸は父を憎み続け、10年も全くの音信不通だった。

捜査を進めると、父・繁だけは警視庁をやめたあとも、常軌を逸した執念をもってこの事件を追い続けていたことが判明する。父子ともに人生を狂わせた事件の黒幕を追い詰めていく。通常は"愛憎の父子"というところだが、殴り合いの"憎"ばかりが目立つ警官親子の、執念と復讐の凶悪のサスペンス。「鬼哭」とは「鬼が哭く」、死人の霊魂が恨めしさに泣くこと。


雪の花.jpgコロナ禍でワクチンが「切り札」として期待され、接種が始まっている。石井健・東大医科学研究所教授が「コロナ禍でのワクチン開発 その破壊的イノベーションの課題と展望」でワクチン開発の現状を詳説しているが、そのなかで推奨している本が、この「雪の花(吉村昭著)」だ。「福井藩の医師が、種痘の打ち方と育て方を学び、福井に持ち帰るという苦労話。その苦労に加えて、それを普及するのがいかに大変だったか・・・・・・この本からひしひしと伝ってくる」と述べている。

時は江戸末期の福井藩――。全国で天然痘が猛威を振るい、死亡した者を運ぶ大八車が日に何度も車輪の音を響かせて走り、そのたびに人々は恐怖に襲われて逃げまどった。人々が頼みにするのは神仏のみ、藩をあげて祈祷する有様であった。ジェンナーが牛の天然痘を人間に植える種痘法を創始したのが1796年。その噂を蘭方医から伝え聞いた福井藩の町医・笠原良策は一大発心をする。京都の蘭方医・日野鼎哉に師事し、「牛痘法による種痘」を試みようとする。その肝心である「牛痘の苗」(痘苗)を求めて私財を投げ打っての悪戦苦闘、そして京都から種痘をした子供を伴っての痘苗を絶やさずに運ぶ雪山越えの決死行、そして福井に入ってからも自らの子供に"恐ろしい"種痘を拒む親、漢方医や役人の妨害・・・・・・。想像を絶する苦難が続くこと数年。苦境を乗り越えられたのは、藩主の松平春嶽、側用人・中根雪江、春嶽の侍医・半井元冲らの開明的理解者、まさに諸天善神が現われたからであった。

この福井藩が入手した痘苗は、江戸や北陸の各藩に広まっていったのだ。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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