「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」と、江別市に住む智代に函館の妹・乃理から母・サトミのことで電話が入る。「パパ(猛夫)はさ、お姉ちゃんにだけは自分たちの弱みを握られたくないから、自分からは頼れないわけよ・・・・・・」という。物語は「智代」の話、智代の夫・片野啓介の弟・涼介の嫁となる「陽紅」の話、「乃理」、「紀和」、認知症になったサトミの姉「登美子」の話とリレーでつなぐ。人生には"店じまい"という仕事をやめる時もあれば、年老いて「家族じまい」という人生の区切りをつけなくてはならない時も来る。誰人も逃れることのできない身につまされる話だ。
「ふたりを単位にして始まった家族は、子供を産んで巣立ちを迎え、またふたりに戻る。そして、最後はひとりになって記憶も散り、家族としての役割を終える。人の世は伸びては縮む蛇腹のようだ」「この道は果たして、戻る道なのか征く道なのか――長い直線道路の中央には、午後の日を浴びた白線が続いていた」「徹は人として、何ひとつ間違ったことは言っていない――自分はもしかしたら彼の『何ひとつ間違っていないこと』がきついのではないか。そう思ったところで、美しく撚られていた何本もの糸の、細い一本がぷつんと切れた」「夫は、自分が初めて産んだ子供だと思えばいいのだった。そして、母も子供へと戻ってゆき、父もやがてこの世を去る。乃理の人生はあらゆるものの『母』になることで美しい虹を描き、宝の埋まったところへ着地するはずだ」「離婚してもずっと『良き父』を演じていた男の娘は『良い男』のイミテーションと本物の違いが分からない女に育ってしまった」「新しい一歩を選び取り、自分たちは元家族という関係も終えようとしている――自発的に『終える』のだった。終いではなく、仕舞いだ」「わたし、今日で母さんを捨てることにしたから、よろしく」「結局、別れずにいた亭主とふたり・・・・・・お互いを捨て合うことの出来なかった夫婦は、足並みの揃わない老いとどう付き合っていくのか」・・・・・・。
折り合いをつけながら渡る生老病死の人生を、赤裸々に、また精緻に、巧みな表現で描く。
地球が新たな年代に突入した「人新生(ひとしんせい)」(ノーベル化学賞受賞のパウル・クルッツェンが地質学的に見て名付けた)。人工物が地球の表面を覆い尽くした時代の「人新生」。人類の経済活動が地球を破壊する「人新生」=環境危機の時代。レジ袋やプラゴミ削減などの温暖化対策も、新たな経済成長を企図するグリーン・ニューディールも、政府や企業あげてのSDGsも、ノーベル経済学賞(2018年)ノードハウスの気候変動の経済学も人新生の気候変動対策にはならない。資本主義の際限なき利瀾追求、経済成長ある限り、地球環境が危機に陥るのは必然であり、資本主義による収奪は労働だけではなく、地球環境全体なのだ、と言い切る。スティグリッツの「プログレッシブ・キャピタリズム」も、広井良典の「定常化社会」も、「技術革新の加速化」も資本主義を止めない限り、脱成長はできないという。
ヒントは晩期マルクスの思想のなかにあり、マイケル・ハート等のいう「コモン」という概念だ。晩期マルクスは「生産力至上主義とヨーロッパ中心主義」の進歩史視を転換し、エコロジカルな視点を抱いていたという。「脱成長コミュニズム」という訳だ。「"コモン"を取り戻すのがコミュニズム」「"コモン"のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する」というが、具体策の例として「市民電力やエネルギー協同組合による再生エネルギーの普及」「耕作放棄地への太陽光パネルの設置」「ワーカーズ・コープ」「人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した"ラディカルな潤沢さ"の増加」「使用価値(有用性)に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する」「生産の目的を商品としての"価値"の増大ではなく"使用価値"にして、生産を社会的な計画のもとに置く」「バルセロナの気候非常事態宣言」などを紹介、指摘する。「資本と労働」「下部構造が上部構造を決定する」等、19世紀のマルクスにこだわる必要はないし、無理があるのではないか。矛盾撞着の人間、喜怒哀楽・生老病死の人間論、依正不二の人間哲学がヨーロッパ近代に不足し、人間と自然の対立図式が内包されていること等の自覚をもって、地球環境問題に取り組むことが不可欠だと思う。地球環境が深刻な危機にあることは間違いないのだから。
国際諜報戦争に鈍感な日本。インテリジェンス、経済安全保障の重要性は、「米中衝突の危険」「AI・IoTなどテクノロジーの加速化、サイバー攻撃の激化」を基本構造としてますます増大する。電話・インターネット・無線などを傍受し分析する「シギント」、新聞・雑誌・テレビ等の公開情報を分析する「オシント」、人間力を真髄とする「ヒューミント」。「戦後の日本は、対外情報組織を持とうとしなかった。望まれなかったのだ。警備・公安警察や外務・防衛の情報部門はあるものの、インテリジェンス・オフィサーを海外に配していない。加えて彼らは自らの組織への忠誠心が強い・・・・・・その点で公安調査庁は、政府の情報コミュニティに属しながら人目も惹かず、メディアも関心を払おうとしない。『最小にして最弱の諜報機関』と見なされているが、いつの日か意外に有効な手本として使えるかもしれない」・・・・・・。そんな公安調査庁に目立たないマンガオタクの青年・梶壮太が入庁した。勤め先は神戸公安調査事務所。ある日、丘陵に建つ外国人住宅地をジョギング中、「中国人・中国資本による不動産買収・働きかけ事案」というパソコンの一画面が蘇り、「建設計画のお知らせ」の表示板がフラッシュ・バックする。このことから、北朝鮮の貨物船が戦闘機を密輸しようとした「清川江事件」、神戸の船舶関係のシップキャンドラーに始まるエバーディール社、自動車・トラックの専用船は「死に船」にするが「生き船」にする裏の世界、バングラデシュの「巨船の墓場」、回り回って「空母」に・・・・・・。北朝鮮・中国・ウクライナ、そして米英がからむ国際諜報戦線に足を踏み入れていく。恐るべき世界だ。
「21世紀のグレートゲームが東アジアの地で幕をあけ、日本が米中角逐の新たな舞台となりつつある・・・・・・」「スティーブンは、いま香港のヴィクトリアピークに住み、北京から聞こえてくる鼓動にじっと耳を澄ましている。対決と対話の糸、その意図を精緻に掴むためにも、大陸を望む日本に情報拠点を設け、信頼できる僚友を得なければ――」とこの小説でいう。世界の大変化と激動、その水面下でのインテリジェンスの攻防戦の緊迫が描かれる。
「泣かずのカッコウ」――「カッコウは他の鳥の巣に卵をそっと産みつけて孵化させる。托卵という不思議な習性をもっている。偽装の技や」「俺たちは、戦後日本の情報コミュニティのなかで、最小にして最弱のインテリジェンス機関に甘んじてきた。そのおかげで、同業者やメディアの関心を惹くこともなかった。深い森にひっそりと棲息するカッコウの群れみたいなもんや」。その公安調査庁を描く。
ソ連崩壊、イギリスのEU離脱など数々の予測を的中させてきたエマニュエル・トッド。学術界から反発されていると自ら告白し、激しくマクロンを批判しているエマニュエル・トッドだが、その思考法はいかなるものか。自らの思考法を語り、思考の見取り図を示す。「世界の名だたる哲学者たち、デカルト、カントなどは、私にとっては言葉選びをしているだけ。哲学が現実から完全に離脱しているからだ」「私が研究者人生で何をしてきたか。それは混沌とした歴史のなかに法則を見出すということ」「思考は手仕事だ。コンピュータで書いたことは、切り貼りが何度でも簡単にできてしまう」「考えるのではなく、学ぶのだ。そして読む。歴史学、人類学などをひたすら読み、・・・・・・知らないことを知ったときの感動こそが思考するということだ」「知性には三つの種類がある。処理能力のような頭の回転の速さ、記憶力、そして創造的知性だ」という。
考える際の軸となっているのは「データ」と「歴史」だ。データとはどこまでも「事実からの出発」、観念的哲学やリアリズムを欠いた言説、先入観やイデオロギーなどではない。データをひたすら取り入れ、知識を蓄積する。読んで読んで知識を蓄積していると、ある日突然アイデアが湧く。「歴史」こそが人間を定義する。歴史に語らせるのだ。「人間とは何か」などという抽象的な問いかけから出発すると、どこかで間違える。「人間とはこうである」「人間とは何か」など、ア・プリオリな基盤として歴史的出来事を解釈し、観念から出発すると歴史を見誤る。エマニュエル・トッドの思考法は、徹底したリアリズムを抱く経験主義者であり、イデオロギー・先入観・概念を固定化しない、観念から出発しない、合理主義ではない。経験主義に忠実、徹底して事実(ファクト)を重んじる。何のア・プリオリもなく出発する。
そして「インプット(入力)」「着想」「検証」「分析・洞察」「予測」に至る時間軸をもつ。「ブレーク」「モデル化」「法則」「芸術的行為」と連なっていく。「入力」でいえば、徹底した知識の蓄積、読書、データだ。「脳をデータバンク化せよ。(私の仕事は95%は読書、5%が執筆)(本に書き込み、コメントも書く、手書きはAIにはできない作業)(読んで読んでテーマから逸脱する、逸脱が大切だ)」。そしてデータ収集を積み重ねると「着想」が来る。仮説でもある。そして着想は事実から生まれる。しかも予想外のデータを歓迎する気付く能力の大切さだ。「視点」として、「出発点は常に事実から」「その社会の外側から見る、現実を直視する、アウトサイダーだからこそ見える、外の世界へと出る経験が大切」と語る。納得だ。少しずれている人の方が見えることがあり、「機能しすぎる知性はいけない」とも指摘する。そして「分析・洞察」――歴史学・統計学の思考、相関係数から読み解く(マクロン票は反ルペン票だった)。最後に「出力、アウトプット」――それは書くこと、話すこと。「書きながら考えない」という。「思想というバイアス」「同調圧力に抗う」「何様のつもりだ、などといわれたが、私の家族から受け継いだ"真実に対する倫理観"だ」「今の大学は知性がフォーマット化され、順応主義を生む所となっている」と手厳しい。データと歴史を蓄積し、とことんリアリズム、ファクト、真実に迫る経験主義者の思考の極意が示される。数々の予測の的中も、マクロンへの厳しい批判も、学術界からの反発も、そこから生まれる。
半藤一利さんが今年1月、亡くなった。絶筆となった「あとがき」で「自分で勝手に生涯のテーマと決めている昭和史や太平洋戦争ばかりではなくて、物書きとなったばかりに新聞のコラムや趣味的な雑誌の連載を頼まれたりすることも多くなった。これまで乱読のお陰もあってか、そこで仕込んだ知識を利用して書くのが楽しくなり、ホイホイと引受ける。・・・・・・ただただ昭和史と太平洋戦争の"事実"を探偵することに若いころから妙にのめりこんできて、一人でコツコツと続けて、いつの間にか90歳の老耄れとなってしまった」「井上ひさしさんが色紙だけに書いたという彼自身の『心得三条』――『むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに書くこと』の秘術を使って書いたエッセイをまとめたものが本書」といっている。「まえがきに代えて」では「生涯読書のすすめ」「悪ガキの少年時代から本好きであった」といい、とにかく人生そのものが、接するもの全てに"好奇心"と"探究心"をもって「時代とともに歩んだ」ことがよくわかる。凄い。
「昭和史おぼえ書き(勅語と詔書と勅諭、上野高女のストライキ、敗戦後一夜明ければ、魔物をつくった人類、神風いろいろ)」「悠々閑々たる文豪たち(隅田川カッパ合戦、ハンケテとハンカチ、欠伸という字、和製漢語のはなし、露伴『五重塔』のモデル、知らぬ顔の半兵衛)」「うるわしの春夏秋冬(『花より団子』のとき、土用の丑の日とは、秋の夕暮れ、師走とつごもり)」「愛すべき小動物諸君(蝉の一声、『狐の嫁入り』とは、本物のハチ号の話)」「下町の悪ガキの船出(悪ガキ時代の言葉、あぐらと正座、向島界隈)」「わが銀座おぼろげ史(無敵鉄牛大行進、アイスクリーム、みゆき通り、仮採用のころと坂口安吾、数寄屋橋、時計のある塔、長井代助と銀座、じじいの嘆き、文士劇、早朝の銀座風景、展覧会紳士、春風銀座乃道)」――。じつに味わい深く、面白い話が続く。謹んでご冥福をお祈りいたします。
