「阪神・淡路大震災と東日本大震災」と副題がついている。阪神・淡路大震災から20年――塩崎さんは、「神戸大学で住宅問題やまちづくりを専門としていた立場から、住宅の被害調査や、復興まちづくり、仮設住宅や復興住宅などの調査研究に取り組み、いつのまにか20年が経つ。そして、いまなお震災を引きずり、復興が成し遂げられない人々が存在する・・・・・・」という。「住宅復興が極めて重要で、かつ容易ならざる難問である」「災害そのもので助かった命が、その後の復旧・復興過程で失われるという不条理な『復興災害』を避けることは、人間の努力次第で可能なはずである」と指摘する。
視点は、被災者の生活に貫かれている。復旧・復興が「まち」の復興にとどまってはならない。常に被災者の生活再建の一点から目を放すな。避難所、仮設住宅、復興公営住宅、借上げ公営住宅、復興まちづくりのなかで、コミュニティの崩壊、忘れられてきた震災障害者、孤独死、中小企業や商店主の苦しみ・・・・・・。阪神・淡路大震災の教訓は生かされたのか。それとは全く違う面を多くもつ東日本大震災で、進んだもの、全く対応できていないもの。そうした課題を整理している。
国土のグランドデザインの必要性は、その都度指摘され、「日本列島改造論」「田園都市構想」や全国総合開発計画(全総)などによって提起されてきた。しかしこの20年、未来を描くという作業が十分行われてこなかった。特にこの10数年、「急激な人口減少、少子化」「異次元の高齢化」「都市間競争の激化などグローバリゼーションの進展」「巨大災害の切迫、インフラの老朽化」「地球環境問題」「ICTなど技術革新の進展」という劇的な構造変化に直面。日本はデフレに沈み、未来を描くという意欲すら失っていたように思われる。
私は衆議院議員になってから、国土のグランドデザインの必要性を常に提唱してきたが、国土交通大臣に就任してその策定に着手。約1年半をかけて議論し、昨年7月4日に「国土のグランドデザイン2050~対流促進型国土の形成~」を発表することができた。
そのキーワードは「コンパクト プラス ネットワーク」と「対流促進型国土」である。対流は温度差があってはじめて起こる。コンパクトシティを進める各都市、各地域が個性を発揮して、違いがあるから対流が起き、連携が始まる。私は、公共事業は長期的視野に立って行われなければならないと考えており、2050年という長期を見据えて国土づくりに取り組む柱がこの「国土のグランドデザイン2050」だ。
本書は、この作業に取り組んでいただいた大西隆氏、奥野信宏氏、小田切徳美氏、坂村健氏、寺島実郎氏、藤沢久美氏、野城智也氏、橋本哲実氏をはじめ、国交省の総力を挙げて作り上げ、結実したものである(上記各氏のコメントも本書に載っている)。分かりやすい図表も多く取り入れ、私と増田寛也氏との対談「全国の市町村よ、人口減少に『知恵』と『ネットワーク』で立ち向かえ」や、グランドデザイン2050の本文も掲載している。
時あたかも「地方創生」が重要テーマとなっている。国土づくり、地域づくり、まちづくりに取り組む多くの方々に是非とも読んでいただきたい。
イスラーム国の衝撃――長い歴史、来歴、根本思想、アラブの春、イスラーム主義穏健派の台頭と失墜、組織、巧みなメディア戦略・・・・・・。その実態、実情を真正面から解読してくれる。
「『イスラーム国』の台頭は、グローバル・ジハードの思想と運動の発展と『アラブの春』によって生じた政治変動の帰結が結びついたところに生じた」「『アラブの春』は短期的にアラブ諸国と中東地域全体に不安定と混沌をもたらした」「『アラブの春』をきっかけにした中央政府の揺らぎは辺境地帯の統治の弛緩をもたらし、『統治されない空間』を各地に生み出すと共に、それぞれの辺境地帯の混乱が相互に影響しあい、新たな紛争を連鎖していく。そこにグローバル・ジハード運動が介在していくことで、いっそう混乱は深まっていく」・・・・・・。
中東の近現代史のなかで、「イスラーム国」の台頭という現象をどう位置づけるか。その急激な伸張の影響で中東秩序の溶解が加速している。構造変動の軋みがますます表面化する様相を呈していると、池内さんはいう。そして台頭の背景には、中東地域への米国の一極覇権構造の希薄化も指摘している。中東秩序の行方がどうなるか。そのために世界各国、中東域内の地域大国はどう動くか。重大局面にあることを示している。
第一次世界大戦勃発から100年を経た2014年、ウクライナ問題やイスラム国など「戦争の危機」を感じさせるような出来事が世界で起きている。これはいったい何であるのか。世界史のなかで今、我々はどこに立っているのか。人類のなかで類比できる思考があるとするなら、解決への一歩が見えてくるのではないか。
アンリ・ベルクソンは「問題は正しく提起された時に、それ自体が解決である」と言ったが、本書を読んでそれを想起した。佐藤さんは「資本主義と帝国主義」「ナショナリズム」「キリスト教とイスラム」の3つの角度で歴史を俯瞰し、現在を「新・帝国主義の時代」と位置付け、鮮やかに、しかも重厚に読み解く。「ウクライナ問題」「イスラム国」もこの視座に立った時に新たな地平が浮かび上がる。「沖縄」についても、新たな言及がなされている。
「国内で大きな格差が生まれ、精神が空洞化している、新・帝国主義が進行する現在、ナショナリズムが再び息を吹き返している。合理性だけでは割り切れないナショナリズムは、近現代人の宗教と言うことができる。・・・・・・その暴走を阻止するために、私たちは歴史には複数の見方があることを学ばなければいけない」「社会の危機に対して、復古主義・原理主義的な運動が起こり、地域や領土を越えて拡散していく点では共通している」「近代の枠組みのなかで戦争を止めるには、近代の力を使うしかない。それが私の言う啓蒙主義であり、モダンのリサイクルだ。・・・・・・もう1つは、プレモダンの精神、言い換えれば、『見えない世界』へのセンスを磨くことだ」――。
矛盾撞着の人間の巨大集合の成す濁流の歴史。最後の藤代泰三先生の言葉に『見えない世界』への謙虚な探究を見た。

2020年、何を象徴する五輪になるだろう。なぜ人々は大声で話し、笑い合っているのだろう。世の中は敗者であふれている。なぜだろう。
「『思考放棄』に陥った人や共同体には特徴的な傾向があるように思う。『幸福』を至上の価値として追い求め、憧れ、生きる上での基準とするということだ。・・・・・・今、わたしたちに必要なのは、幸福の追求ではなく信頼の構築だと思う。外交でいえば、日本は、緊張が増す隣国と・・・・・・。幸福は、瞬間的に実感できるが、信頼を築くためには面倒で、長期にわたるコミュニケーションがなければならない。国家だけではなく、企業も、個人でも、失われているのは幸福なのではなく、信頼である」「彼らの対応に、わたしは驚いたし、違和感を持った。『頭に来ますよ。フェラーリに火をつけたいくらいですよ』誰か一人くらい、そう言うのではないかと思ったのだ。・・・・・・わたしが違和感を持ったのは、おもに『しょうがない』という若い連中の反応だった。『しょうがない』という言葉が社会全体を被っている気がする」「(家庭の崩壊、家族の喪失)借金があって住居を追われ、家族や友人など『助け合う』関係が失われると、人はあっという間にホームレスに転落する」「(ブラック企業vs.金の卵)いくらでも代わりは補充できるという状況が生まれた」「寂しい人ほど笑いたがる」――。
村上龍さんの眼は、自然で、やさしく、スポーツ・マインドがあって、なんと感性豊かで、根源的かと思う。だから手厳しい。