100歳の誕生日に老人ホームから逃げ出した主人公、アラン・カールソンは、ひょんなことからギャング団の巨額の大金の入ったスーツケースを奪ってしまう。追手は増えていく。しかしアランは、出会う人間を次々と仲間に入れてしまう(近隣の鼻つまみ者ユーリウス・ヨンソンとか、ホットドッグ屋のベニー・ユングベリとか、その兄ボッセ・ユングベリとか、湖畔農場で暮らす赤毛女性ベッピンとか)。そればかりか、その大金をもっていた犯罪組織の親分や、象ソニアまでもだ。奇想天外、ハチャメチャ、デタラメな珍道中コメディだ。
しかもこの100歳のアランという男の人生がハチャメチャ。20世紀の歴史的事件に全部といっていいほどからんでいるという。その人生紹介が本書の3分の1位を占める。爆弾づくりの専門家として、フランコ将軍、トルーマン、スターリン、毛沢東、ド・ゴール、チャーチル、ジョンソン、ニクソン、フォード、ブレジネフ。たとえばSALTⅡなどもだ。
柳瀬さんは、「訳者あとがき」で「すばらしき出鱈目小説」と題し、「最も無駄になった一日は笑うことのなかった日である」という警句を紹介している。作者はスウェーデンの人。全世界で800万部を突破したという。
現場の声を大事にし、「ジャーナリズムは権力を批判するのが仕事だ」という鈴木さんが、安倍政権と政党に歯に衣着せぬ批評を展開する。フランスの哲学者ベルクソンは「問題は正しく提起されたときにそれ自体が解決である」といったが、何事も論議がまともに行われて熟度のある問題提起がされることが大切だ。そのためには視野は360度にわたることともに、三次元、四次元の論議ということだろう。
本書は「安倍政権の5大問題」「世界から見た安倍外交」「安倍政権の未来」の三章からなるが、あえて問題をぶつけようと、インコースへシュート、アウトコースへスライダーと多彩な球を投げているように思う。その厳しい攻めを受けてキチッと打つのが政権というものだろう。
「安倍総理はリアリスト」などの人物評も随所に出てくるが、鈴木さんの人間への温かさを私は感ずる。
6本のスポーツ短編集。「連投(高校野球の神奈川予選)」「インターセプト(アメリカンフットボール)」「失投(やり投の第一人者と若きライバル)」「ペースダウン(箱根駅伝の快走後の初マラソン)」「クラッシャー(怪我に悩まされ続けたラグビーの4年生フォワード)」「右と左(もつれにもつれたプロ野球のシーズン最終戦のマウンドを誰に託するか)」――。
スポーツ選手は勝負に生きているだけに、ある部分においてきわめて神経質だ。しかも、怪我に悩まされ続ける。練習しなければ強くなれないが、怪我はより悪化するのではないかと逡巡する。過度の作られてしまった期待もある。ここで退けば1人取り残されるのではないか。さまざまな恐怖も同居する。そんななかでの攻守が入れ替わるターンオーバーの瞬間が必ず訪れる。
いずれも、あまりにも納得できる短編だが、「自分の力を誇示することしか考えていなかった。そうじゃない。ラグビーは、誰か――チームメートのためにやるものだ。味方を信じて命を預け、たった一つの目的のために心を一つにする。・・・・・・」――ラグビーをやっていた堂場さんの愛着がにじみ出ている。
「私の理想は、無名のうちに慎ましく生きて、何も声を上げずに死んでしまうことです。ただ、文章を書きたいという欲求はある」「人間というのは、生きていると社会的地位や肩書がくっついたり、係累がまとわりついたりします。そういうもの一切を払い捨ててゆきたい、脱ぎ捨ててゆきたい、何にも持たない生まれてきたときの自分にもどり、大地に還っていきたい」「現代人は自己顕示に汲々とし、自己愛に苦しんでいる。虚しい自己顕示競争に駆り立てられるのではなく、"自分の人生の主人になる"ことだ」「自分を匿さない。のた打ってでも生きることだ」「ナショナリズムとは、近代国民国家が生み出した病弊でしかありません・・・・・・膨大な人命を犠牲にして負けたあの戦争から学ぶことはいくつもあるけれど、イデオロギーとしてのナショナリズムは卒業したというのが、戦後最大の成果だと私は思っている」「パトリオティズムともいうべき愛国主義的な感情は個々の国民も持ったでしょうけど、自分たちの国を守らなくては、という意識はありませんでした。これが近代国民国家になると、国民一人ひとりが国を守るために命を捨てねばならないことになる」・・・・・・。
「逝きし世の面影」についてもふれている。従来の江戸時代のイメージとは相当違っている。前近代の社会は近代の社会とは大いに違うこと、そして優劣ではなく、不連続であること、「それはそれなりにいい文明なんだ」と、現代文明を相対化する鏡として示したことを、淡々と語る。江戸の人びとは、貧しくとも幸せであり、幸せに暮らす術を知っていたのだともいう。
「生きる」「無名」「幸福」を、渡辺京二さんの境地から語ってくれている。人生論は生命論。仏法の「煩悩即菩提」「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり」を思いつつ考えた。
「気品」――。この気品を備えることが、いかに素晴らしいか。美しい心が、姿・形に現われ、その美しい所作が美しい心を生み出し、気品となる。「形から入って心に至る」という武士道の精神を体現し、一期一会の人生に「一度のお辞儀で、人の心を捉える」ことが、いかに重きをなすか。
「姿勢を正せば心が変わる」「嫌なことは"丹田"に納めよ」「"残心(ざんしん)"で思いやりの気持ちを残す」「型を身につけ壊す(守破離)」「人生とは上手に感情を自制する技」「表向きの顔をつくりなさい」「質素倹約は本質を見極める」「忙しいときこそ贅沢な時間をつくる」「美しい挨拶――言葉と動作を一緒にしない、胸元に"懐"をつくる、静と動の動きにメリハリをつける」「気品とは、人さまに心を配ること」「何ごとにも、入口があれば、出口があるのですよ(最終的な仕上がりをイメージすること)」・・・・・・。
水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平家の末裔の松平洋史子さんが、祖母・松平俊子が昭和女子大の校長時代にまとめた松平家に代々伝わる生き方教本「松平法式」を、現代に生きいきと語る。