木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか.JPG

木村政彦と力道山の試合は私の記憶に明確にある。伝説の男・木村政彦とはどういう人物であったのか。

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」「戦前・戦後、15年間も負けなし、不敗のまま引退した男」「柔道で化物のように強い選手4人をあげれば、木村政彦、ヘーシング、ルスカ、山下泰裕だが、最強は木村」「鬼の牛島がつくった芸術品・木村」「昭和29年12月22日、巌流島の決戦、木村政彦対力道山戦の真実とは」「プロ柔道の旗揚げ」「エリオ・グレイシーを粉砕」「プロレスの夜明けと木村の悲哀」――不器用で荒くれ、ムチャ丸出しの若者・木村の生々しい生涯が活写され、悲しくもなる。

本書は、木村政彦とその師・鬼の牛島辰熊が主役だが、そこに嘉納治五郎、力道山、大山倍達、岩釣兼生らが交差する。いや時代自体が渦のように木村に襲いかかる。

正直面白い。興味深いのは一つに「柔道とは何か」「講道館柔道とは何か」を抉り出していることだ。嘉納治五郎は、古流柔術が廃れゆくのを嘆き、実践的武術、真剣勝負を志向し、たんなるスポーツになってしまうことを憂えたという。しかし、戦後、GHQの下で講道館は「柔道は武道ではない。スポーツである」として生き抜く道を探った。「柔道は1本。最近はレスリングのようになってしまった」というのは違う。元来、武道として真剣勝負としての柔道は"殺し合い""寝技も打撃も"であり、たんなるスポーツではない。それゆえにプロ柔道が立ち上がったという。

もう一つ、興味深いのは牛島と木村の師弟間における違いを描いていることだ。「東條や三船は"政治"をにらみ、石原(莞爾)や牛島は"思想"を見ていた」と増田さんは語っている。日本人、サムライ牛島だ。そして戦後、自らの堕落を絶対に許さぬ牛島と、坂口安吾の「堕落論」「救われるために墜ちよ」という言葉以上に、飲み、喧嘩し、自然体のなかで決定的に"堕落"を生きた木村の戦後という生き様の差異。力道山戦も、その後の失意と放浪もその帰結だと語っている。本書は徹底した取材で描きあげた戦中、戦後の歴史書でもある。


安倍政権365日の激闘.JPG

「景気・経済の再生」「東北の復興」「防災・減災・危機管理」を三本の柱として、とにかく遮二無二走った一年。本当に激闘の一年だった。リスクを負ってもやり抜く政治だったと思う。歳川さんは「挫折を通じて辛酸を舐めた安倍氏はリスクを取る政治家に変身したのは間違いない」「現在の安倍首相は、従前の安倍首相ではない。別人格である」という。

自然現象を想定外とするのは、過去の事象を直視しない(したくない)人間の性もあるが、政治は人が成すものだけに、より変数が多い。それだけに政局観には、多くの変数、キーマンに直接ふれて得る皮膚感覚、動態視力、人間観が不可欠だ。本書はその時々の政局を、そのまま載せている。当たりもはずれも当然あるが、むしろそれだけにどう観たかという視点があらわで面白い。それは「どういう人間か」「どういう人材の布陣か」「どう考えて決断したか」という人間観・人物観をもって"チーム安倍"に迫っているからだと思う。その人物観は世界に及んでいる。


さようなら、オレンジ.JPG

まさに海外の小説のよう。アフリカの戦火によって親・兄弟を失って難民となりオーストラリアに逃げてきた主人公。それ自体が新しいが、そのきめ細かな心象の描写は卓越したものがある。「シャワーの中で彼女(サリマ)はよく泣いた」「右も左もわからない。頼りになる親戚もいない。友人の支えも望めない。そしてなにより、言葉が伝わらない」「必死の思いでここにともに逃れてきたというのに、夫はいともあっさり妻と子供を捨ててしまった」――。一方、その友人となる日本人女性・佐藤サユリ。大学の研究員の夫についてオーストラリアに渡ってきたが、最愛の娘を託児所で失い、哀しみと喪失感にさいなまれる。

娘のいない色彩のない世界、光の先に追いやられた憂鬱やその下に広がる陰影を見てしまう二人だが、滲み出るような慈愛の交流によって「生きて死ぬということがただならぬことだ」ということを感じるようになる。幸せとは○○を獲得するものではない。幸せとはそこにあるものだ。自分を受け入れること、そして走り出すことなのだ。働き体に覚え込ませ、自分で素直にその場から立ち上がるしかないのだ。そこに苦しさをため込んだゆえに涙して見た夢や希望、夕陽、オレンジ色は消え、新たな境地がスタートする――そんな世界を描く。祖国とは、母国とは、母国語とは、人間とは、生きることとは、幸福とは、そうしたことを語りかけている。


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「現在・過去・未来の視点から考える」と副題にあり、1980年代半ばからのプラザ合意以降の円高不況、バブルとバブル景気、バブル崩壊と長期停滞・デフレの始まり、デフレの本格化、デフレと円高の持続とリーマンショックを整理・分析する。また、本書が発刊されたのは昨年4月、アベノミクスのスタートしたあとで、期待をもちつつ、冷静に成功への課題を提起している。

「デフレと円高は、フロー市場とストック市場に作用しつつ、総需要を停滞させることで長期停滞をもたらした」「デフレと円高という貨幣的現象に大きく影響したのは政策のミスだが、金融政策は大した効果をもたらさないという"デフレレジーム"が、政策担当者・メディアをも巻き込んで失敗が失敗の連鎖をもたらした」「三本の矢は"大胆な"金融政策という一本の矢あってのことだ」――。本書は3つのステージ、3つの政策手段、3つの時点という3×3のフレームワークの視点から、これまでの日本経済とアベノミクスを分析し、それぞれについて好循環を生み出すことの必要性を精緻な分析によって説く。


金融依存の経済はどこへ向かうのか.JPG

「金融と世界経済――リーマンショック、ソブリンリスクを踏まえて」というテーマで、「金融拡大の30年間を振り返る」(池尾和人)、「グリーンスパンの金融政策」(翁邦雄)、「世界的バランス調整がもたらす"日本化現象"」(高田創)、「グローバル・インバランス」(後藤康雄)、「アベノミクスと日本財政を巡る課題」(小黒一正)の5人が、きわめて明確に本質と現実を述べている。

全体の流れは、投資ブームの終焉から金融政策へ、それも証券化やデリバティブに関連して新しい金融、そして常に中心となった米国、そしてグリーンスパンの狙いと政策、更にリーマンショック後の世界経済へと連なる。日本の経済を学び「デフレになるならバブルに目をつぶる」というグリーンスパン。日本が90年代以降、民間債務が政府債務に置きかわって"身代わり地蔵"となって国債残高の積み上がりが起きたこと。日本の債務調整の出口が米欧のバブル崩壊と重なった不運。今、アベノミクスが米国の終了段階と重なった幸運。金融危機の背景を探るインバランス仮説と流動性仮説(日本は危機を促したのか、巻き込まれたのか)。日本の財政危機の厳しい現実(2%インフレでも消費税25%必要)を直視した財政・社会保障の抜本改革――などの問題を分析している。「戦略ミスは戦術では挽回できない」という言葉が身にしみる。重要なのは改革の哲学、そして将来構想ということだ。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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