mane-monsu[.jpgカラ売り屋シリーズ。元官僚の北川靖とアメリカ人のホッジス、グボイェガ、トニー等のカラ売り専業ファンド、パンゲア&カンパニー。標的とした企業の株式を、持ち主から借りて市場で売却し、その企業の内実を告発するレポートなどで、株価を押し下げたところで買い戻し、借りていた株式を返却して利益を得る。資産の過大計上や嘘で塗り固めた製品開発と事業計画、契約書類の改ざん、阿漕な手法で暴利を貪る企業を相手に宣戦布告。潰すか潰されるかの大勝負に挑む迫真の経済エンタテインメント。息詰まる攻防を描く全3話。

「ミスター液晶」――液晶ディスプレイに使うバックライト製造子会社を持つ投資スタンダード上場の城西ホールディングス。苦労して、車載用の液晶パネルの開発に成功した畑中良嗣はアップルの「iPod」にも寄与。その後、大阪の大手家電メーカーにヘッドハントされ、液晶部門の幹部を務めていた。そんな時、液晶ディスプレイに必要なバックライトのメーカー、城西バックライトの創業者・ 重松幸三に城西ホールディングスに入って右腕になって助けて欲しいと誘われる。液晶と有機ELのシェア争いが始まっており、液晶のシェアが落ちれば、それと一体のバックライトのシェアも落ちるとの不安を抱えていた。畑中が入ってみると、技術開発の遅れも甚だしく、熱意も感じられない。しかし重松は過去の栄光にすがり、銀行等にも法螺話と長広舌で対処してしのいできた。いかにものし上がってきた大物風のたぬき親父だが・・・・・・。その脆弱性を見たパンゲア&カンパニーは、新技術が生まれていないことや資産の過大計上を突いた。パンゲアの重ねてのカラ売り推奨レポートで株価が暴落、激しい攻防が展開される。

「水素トラック革命」――。舞台はアメリカ。ターゲットは、燃料電池トラック・メーカー、トラックテック・コーポレーションのジェイク・トラヴィス。まだ38歳で、田舎大学のドロップアウトで元アラームのセールスマン。「そんな男が、革命的な燃料電池トラックを開発して、今やビリオネア(10億ドル)って根本的におかしくないか」とパンゲアの面々は思うのだ。調べてみると、トラヴィスは「天性の嘘つき」「ある意味でモンスター」。華々しいプレスリリースを次々行い、騙しに騙しを重ねていくが、現場の作業場を見ても全く作業が進んでいない状況であることが判明していく。GMなど名だたる大企業まで騙されていくが、ついに破局の時が・・・・・・。

「地銀の狼」――。標的としたのは、「ゴールド住建」と「あかつき銀行」。ゴールド住建は、サブリースで30年もの家賃保証をするという危ない会社。あかつき銀行は、それと一体となってハイリスクローンを組ませ、不動産関連ローンや仕組み債等個人向け商品に特化している乱暴な会社。あかつき銀行の優秀な銀行マン仁村清志は、節度を守る信頼される男だが、人材抜擢にも積極的。アウトローで外されていた柳沢悠次を引き上げた。狼の血が身体に流れている男だ。

ゴールド住建の30年のサブリース、アパートの採算見通し、火災保険料やアパート経営によって増える固定資産税、所得税、国民健康保険等が反映されてない説明、ましてや入居者が集まるとも思えなかった地域など、その悪質さは広がっていく。一方、あかつき銀行は仕組み債・仕組み預金を推進、顧客に借り入れをさせ、それを投資させるレバレッジ取引を積極的に推奨。まさに大損を出して次々と倒れる顧客の屍を踏み越え、収益至上主義で猛烈に突き進んだ。その推進役に柳沢がなってしまったのだ。ゴールド住建の案件に融資をつけ、大金利で甘い汁を吸っているのがあかつき銀行。これは人口が増加し、経済が右肩上がりの時代にのみ可能、地銀が人口減や経済の右肩下がり、ゼロ金利政策による利鞘縮小では通用しない。仁村は「顧客を深く理解し、様々なニーズに、付加価値のある助言やサービスを提供していリレーションシップ・バンキングしかない」と主張するが、左遷される。歯止めを効かせる者はいなくなった。
「ありゃめちゃくちゃな会社だな」「ゴールド住建とあかつき銀行は、客を罠に引っ張り込むアリジゴクみたいな連中だな」と北川らパンゲアはカラ売りを敢行する。追い詰められた行員が自殺、被害者が立ち上がる。それに対してあかつき銀行らは仕手筋を動員して対抗する。激しい戦いの行方は・・・・・・。

マネーモンスターは常にいる。日経平均が歴史的バブル越えとなり、激動する市場でカラ売り屋は、マネーモンスターといかに戦っているか。迫真の経済エンタテインメント。 


sengokubusyou.jpg織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、松永久秀、石田三成の8人の武将をプロファイリングする。「八本目の槍」「じんかん」「塞翁の楯」「戦国武将伝(東西)」などの著作は、いずれも優れものだが、その小説の実際の人物像が描かれる。歴史上の人物は、どうしても勝者の歴史となり、面白く脚色され後世に伝えられる。この著作は真実の人物像に迫るだけに興味深い。

「織田信長――合理精神の権化」――。尾張という商業が盛んで経済的に発展した土地柄から、信長の合理的思考と判断能力が磨かれ、加えて父親の持ち続けたファイティング・スピリットが人物を形成した。既存の常識や慣習に囚われない起業家的発想。意表を突いた桶狭間の戦いもそうだし、比叡山焼き討ちもそう。発想も違い、方針転換もあり、仕事をしてないやつは容赦しないゆえに、裏切りや謀叛にあう「裏切られる男」でもあった。

「豊臣秀吉――陽キャの陰」――。「裏の汚れ仕事」で信長の期待に応えた。勤勉で地頭が良く、コミュニケーション力が抜群で、筆まめ。秀吉の乾坤一擲は、「金ヶ崎の退き口での殿軍」と見る。「家族愛」の暴走が豊臣政権の瓦解を招いた。

「徳川家康――絶えざる変化の人」――。織田の人質から今川の人質へと翻弄されたのは事実だが、「今川義元が竹千代を駿府に置いたのは、保護の目的があった(当時の三河は今川派と織田派が入り乱れる紛争地帯。幼い竹千代の命を奪い、自らが松平氏のボスになろうとしたものもいたはず)」「人質期間中に、臨済宗の僧・太原雪斎の英才教育を受けることができた」と言う。「20年間も信長と同盟を維持し続けた」ことは大きく、「信康と築山殿の処分について、私は家康が独自に動いたものと考えている」と言う。後継を関ヶ原の前に決めていた事は大きい。強運の持ち主。

「武田信玄――厳しい条件をいかに生きるか」――。「父・信虎による甲斐統一の地ならしは大きい(信虎の暴君のイメージは近年見直されつつある)」と言う。甲斐が平地が少なく厳しい土地柄である故に、信玄堤などを作り、平地のある信濃へ侵攻した。戦国武将中でも、屈指の教養。しかし、「後継を早く決めておかなかったことが悔やまれる」と言う。そのため勝頼は強さを見せるために焦った。

「上杉謙信――軍神の栄光と心痛」――。軍略に優れ、戦上手なうえに、信義に厚く、武田信玄も信頼に足る大将だと評価していた。父・長尾為景は越後上杉氏から実権を奪うが、越後には他の長尾氏がおり、関東管領の上杉氏も侵攻を図り、中越には、一向一揆勢が居座り、統治の難しい地域。豪胆な父・為景の下克上を受け、還俗した謙信(晩年の法号)(長尾景虎)は、越後の争乱を収束する。謙信には、領土拡大の野心がなかったところから「義将」と位置づけられる。室町幕府13代将軍・足利義輝から関東の鎮定を託される。謙信のしくじりは、武田信玄、豊臣秀吉と同様、後継者を明確に定めなかったこと。生涯独身だった謙信には実子がなく、景勝と景虎の2人の養子が家中を真っ二つにして争うことになる。

「伊達政宗――成熟への歩み」――。疱瘡により右目を失明した伊達政宗のコンプレックスを、臨済宗の僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)がすべての学問を教え支えとなる。父・輝宗の良き理解を得て、22歳で南奥州の覇者となる。ひどい母のように言われるが、本当は「子孫を愛する優しい女性だったことが伺える」と言う。「白装束姿で、小田原に参陣し、秀吉は喜んだとも伝えられるが、内心『ややあざといな』と受け止めたのではないかと思う」と言う。ヤンチャ、野心、奇想天外な発想と挑戦が成熟とともにうまく着地する人生だったようだ。

「松永久秀――なぜ梟雄とされてきたか」――。「じんかん」に描かれている。主君を殺し、将軍をも暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き尽くしたという悪のイメージの人物。しかしそれぞれには理由があり、「民を想う優しい人物だった」と言う。摂津の土豪とされる久秀が三好政権で活躍できたのは、三好長慶が、戦国大名の中で、革新的で柔軟な発想ができる人物だったからだ。久秀の能力を家格秩序に囚われることなく評価した。やっかみも多く、濡れ衣を着せられたが、「むしろ主家に対して忠義を貫いた」と言う。「天正3年――久秀にとって、許しがたかったのは、塙直政が討ち死した後、信長が大和支配を筒井順慶に任せたことだったと思う」と言う。

「石田三成――義を貫く生き方」――。「八本目の槍」は面白かった。理屈っぽく小賢しい策謀家・石田三成ではなく、情に厚い豊臣に忠義を尽くした「義」の人であることが描かれている。「三成の『義』が、三成を挙兵へと至らしめた。この『忠義に殉じる一途さ』『理の人でありながら、情義を重んじる人間らしさ』が三成の魅力であり多くの人の共感を得る要因になっているのかもしれない」と言う。三成の次男重成と三女辰姫は、津軽家に匿われている。「三成が生前、津軽為信に手を差し伸べた恩義があったため、津軽家は危険を顧みずに、三成の遺児を匿ったとされている」と言っている。

戦国の英雄8人をプロファイリング。語り尽くされた可能ある人物像を整理し分析してくれている。 


kosodate.jpg「非認知能力をはぐくむために何ができるか」が副題。現場での調査分析、エビデンスに基づくとともに、これまでの「子育て」についての世界の学術研究を踏まえた、極めて精緻かつ熱量溢れる著作。不確実な時代を生き抜くことができる子ども育てるために、これまでにわかっているエビデンスに基づく"確実な子育て"を詳述する。

子育ての目的は、子どもを自立させること。まず土台となるのは「アタッチメント」、安全基地の形成だ。アタッチメントが確立されて「自分が生きていてもいいんだ」という自己肯定感が醸成される。その土台を作ってこそ、その上に構築する認知能力も非認知能力(社会情動的スキル)が育つ。認知能力とは知能、知性、学力だ。認知能力が高いからといって、将来が保証されるわけではない。非認知能力は、具体的には「セルフコントロール(自分を律する自律)」「モチベーション(内発的動機づけ)(何のために生きるのか、使命は何か)」「共感力(他者を理解できる力)」「レジリエンス(逆境を切り抜けるしなやかな強さ)」だ。それらは互いに連関し、不確実な時代においてもたくましく生き抜く人間力、生きる力が育まれていく。そして重要なのは、これらは「健康・体力」があってこそできるということだ。子どもの成長に必要なのは3つの能力、「認知能力」「非認知能力」「健康・体力」であることを指摘し、子育てにおいて、特に育てるべきスキルを具体的に論述している。さらにこれらは「するべきこと」だが、「してはいけないこと」がある。それが「虐待・ネグレクト」だと言う。

子どもの成長は「遺伝子か環境か」――この分析は極めて精緻で面白い。「大雑把に言って、遺伝子の影響は約50%、個別の測定できない環境要因が約50%を占めている」となるが、「母親の遺伝子と子育て」「遺伝によって犯罪者になるか」「遺伝子―環境要因交互作用」などが分析される。しかし遺伝子は変えられない以上、子育てにおいて必要な環境要因を整えることが重要ということになる。

「アタッチメント」――。「2歳までのアタッチメントが、脳活動に重要な影響を与えている」「アタッチメントと甘やかす(過保護)とは違う。子どもが本当に求めてるものを感じ取り与えることが大事」「足立区の野菜から食べる『ベジファースト』や歯磨きを12回以上する要求は子どもの自己肯定感を高める」「愛情ホルモンのオキシトシン、やる気ホルモンのドーパミンが親にも子にも重要」と言う。

「セルフコントロール」――。「セルフコントロールの必要性とは、我慢する力をつけよではなく、自らを使いこなす力をつけよということ」「早い時期のセルフコントロールが将来にも影響する」「親の幸福度が高いほど子どものセルフコントロールが高い」と言う。「モチベーション」――。「マズローの欲求5段階説(土台として生理的欲求、上位の階層に承認欲求、自己実現欲求)は、実はモチベーションの説明である」「何に対してモチベーションを持つか――自分らしさとは、使命とは何か、が重要」・・・・・・。

「共感力」――。「共感力とはエンパシー。他者の気持ちを想像して同じように理解し感じること。自分の目線で同情するシンパシーとは違う。共感力はその人の目線で状況を理解し感じること」「読書、小さい頃から挨拶をさせること、学校やニュースの話をすること、運動習慣をつけることなどが重要」と言う。「レジリエンス」――。「親の幸福度が高い。親子の関わりが多い。運動をする。歯磨きを1回より2回する」などがレジリエンスを促進すると言う。とても興味深いことだ。

「健康・体力」――。身体と精神の相互交流に基づく頑健性とバイタリティーが体力だ。私が文科省と一緒に推進した「早寝、早起き、朝ご飯」が大事であると改めて感じた。

地域社会も含め、本書の指摘は、極めて重要だ。


otonagaehon.jpg「絵本は人生の心の友」「大人こそ絵本を」と言い、絵本の世界を積極的に全国展開してきた柳田邦男さんの2006年発刊の感動的な本。「優れた絵本は、50年、100年と経っても、新鮮さを失わないものだ」――それどころか、人生経験が豊かになるにつれて、より一層内容深く味わえるようになる。人間の生と死、自然とともに生きる「いのち」の素晴らしさ、愛と涙、見えない世界の奥深さ・・・・・・。心から感動し、思索する時間を得た。

「心が砂漠のように乾ききった昨今の日本の大人――絵本の力は一人の人間の人生さえも変え得るほど大きく癒され、今日の生きる力を取り戻したという人も少なくない」「絵本は『心の基礎体力』をつけるのに役立つ、とても奥行きの深いメディア」「絵本は絵と言葉が共鳴し合うことによって、奥行きのある立体的な世界を創るメディアである」「絵本は子どもに読み聞かせをする時と同じように、ゆっくりと感情をこめて音読し、言葉と絵を味わいながら、ページをめくること。いつも座右に置き、暗誦できるくらいくり返し読むこと」と言う。

「ケアする人、ケアされる人のために」――「眠れない長い夜をどう過ごすか。夜を寂しく辛いものでなくする、何か良い方法はないものか。それは絵本」「(明かりが消えた真夜中)、くらやみくん、きみはどこに行くの? 明かりがつくと、僕は見えなくなるんだ。でも、ずっとここにいるのだ」・・・・・・。死んだ人は今どこにいるのだろうと私もいつも思う。宇宙生命哲学の世界に誘ってくれる。ガス室に送られる前に、ナチス・ドイツ軍の敗退によって解放され生き延びることができたフランクルの「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」。フランクルは「人間が過酷な限界状況に追い込まれた時、心の平衡を維持し得るかどうかは、内面的な拠り所を持てるかどうかにかかっている」「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ」と言う。そして写真絵本「わたしの庭」を紹介する。絵本「葉っぱのフレディ――いのちの旅」では死を怖がるフレディに対し、親友の葉っぱのダニエルが教えてくれる。「死ぬというのも、変化の一つなのだから、怖がることはない。葉は落ちて朽ちても、木の根から吸収されて木を育てる。"いのち"は、永遠に生きているのだ――と」・・・・・・。柳田さんは生と死について、次々と絵本を紹介し、そして語る。

「絵本は魂の言葉」――「星の王子さま」は愛することと、生きることの悲しみについて語った本。ユングの「意味のある偶然」を語る。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」を引きつつ、「人間が生きるうえで、いちばん大事なもの――愛や、思いやりや心の絆や、心の持ち方、といったものは、モノとしては目に見えない。キツネの言うとおりだ」と語る。言葉のない絵本「アンジュール ある犬の物語」を取り上げ、「存在を無視されたものが求めるものはやさしい愛であることを語っている」と言う。育児放棄や虐待や親が子供と向き合わない日常を見ると、「バンサンの発するメッセージは極めて重要だ」と語っている。また「エリカ 奇跡のいのち」で「母の決心の瞬間を推測する子の想い」を語っているが、衝撃的だ。

「絵本の森を散策すれば」――「絵本や少年少女読み物をあらためて読むというのは、悲しみや喜びのきめ細かな感情を取り戻すこと、心の砂漠にオアシスをもたらすことにつながるはずだ」と、絵本が子どもの感情の芽生えとともに、大人に今必要であることを述べる。

最後に「絵本に月2000円を!」――「アフガニスタンの風景に魅せられて(『ぼくは弟とあるいた』)」「涙でできた憩いの池(『きつねのかみさま』『かたあしわだちょうのエルフ』)」「賢治・ゴッホと少年の心の旅(同じ37年の生涯だったゴッホと宮沢賢治の魂の振動と苦悩)」「戦場の中のサッカー・ゲーム(『オットー 戦火をくぐったテディベア』)」など素晴らしい絵本が紹介される。

本書では、感動的な80冊の絵本が推薦をされている。読みたくなり、何冊か注文した。ますます新鮮さを増す約20年前の著作。


fukuda.jpg「処世術から宗教まで」が副題。昭和51年(1976)~昭和52年(1977)までの1年の間になされた講演。63歳~64歳の講演だが、もっと年上だと思っていた。「戦後を代表する知識人である福田恆存は、近代化の弊害を問い続けた。その思想のエッセンスが詰まった伝説の『最後の講演』初の活字化」とある。

日本は西洋という異質の文明、文化を輸入し見事に適応した。それは「江戸時代という一つの立派な政治体制、社会体制ができており、素地ができていたこともあるが、成功を獲得するために『日本的なるもの(宗教でも長歌でも)』を潔く捨て去った。犠牲を払った」「日本の近代化は、分野ごとに進み方がデコボコで、精神の近代化は、うまくいっていない」「成し遂げたのは『西洋化』であり、機械化や合理化に過ぎない。組織化、画一化、制度化、官僚化だ」「近代化が進むと、人間関係は希薄になっていく。規則や風潮に乗っかる日本人。自己判断ができない、いい意味での個人主義が身に付いていない。昔の武士道には自己のことは自己が律する精神があった」「近代化に呑まれるな。個人が自立し、操る側にならないといけない」・・・・・・。

「人生は貸借関係。道徳論でいかないで、是非、処世術の問題からいった方が良い。若いうちは、観念的な理想に燃える。しかし燃えるあまり、自分が動いていると錯覚を起こす、あるいは自己欺瞞をすることが多い。それを避けるために、俺のやってることは全部処世術に還元できる、換算できると考えてみることだ」――。理想論や精神論に縛られず、政治も経済も社会も人生も、状況を深くリアルに読み、適応能力を訓練する。それを処世術と言っている。道徳(キレイゴト)を排し、自分のエゴイズムに沿った技術の問題に還元するのだ。現在の政治の迷走を見るときに、リアリズムとポピュリズムがわからなくなり、その波に翻弄される姿が浮き上がってくる。「政治は、庶民を幸せにする技術である」との恩師の言葉がよみがえる。

「苦しいときの神頼み」――。「弱者の悲鳴というものは、その人(子どもでも)が自分が弱いからあげる悲鳴である。それは人間の本当の悲鳴ではない。人間の悲鳴というのは、人間が、人間の限界に達した、それ以上に行こうとしたときに、出てくる悲鳴でなければならないはずだから、強者の悲鳴だけが、本当の人間の悲鳴になる。これはその人の個人の悲鳴ではない」「ホームドラマには悲劇はない。神というものは強者のみが知る。弱いことを特権とする人生観に立っていたのでは、神に近づくことはできない、あるいは感じ取ることもできない」「全部技術、人間が可能な技術という問題にして考えると、どうしても可能でないところにぶつかる。そうしたら、今までマイナス札ばかり集めたやつがいきなりプラスになっちゃうというカード遊びと同じように、そういう神が出てくることを今日お話しして――折り返し地点は、ここにあるんだと、裏返しするということ――それを申し上げたわけです」と言っている。

そして「戦後と戦前の違い」は、「自己絶対視ということが、だんだん戦後は強くなってきた。現代に理想を合わせたらいいんだということになる。むしろ理想はそのままにしておいて、現代を裁くという態度じゃなくなってくるんです。それは間違っていると思う」と結んでいる。

近代化論争自体がなくなり、情報過多、SNS時代、タイパ・コスパの時代、そして哲学不在の時代――。今新たに考えさせられる講演。 

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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