「西洋と東洋から考える からだと病気と健康のこと」が副題。西洋医学の専門家として生命科学者で元・大阪大学大学院教授の仲野徹先生と、東洋医学の専門家として臨床家・鍼灸師の若林理砂先生のニ人が、「不調と病気との付き合い方」について徹底問答。西洋医学と東洋医学は何が違うのか、共通項はあるのか、病気とは何か、治るとは何かについて忌憚なく話している珍しい本。
病気になると通常、私たちは病院に行き、西洋医学のお世話になる。私は若い頃から鍼灸、指圧に接し、漢方薬も常用している。しかし正面から「西洋と東洋」を専門家が率直に語ることは、大変面白く有益であった。
「科学としての西洋医学、哲学としての東洋医学」をまず語る。「東洋医学が生き残っている理由」「西洋医学もはじめは怪しかった」「漢方薬は発明者不明」――。「反ワクチン」や「プラセボ効果」もあるが、「一般の人にもある程度の医学リテラシーは絶対に必要」と言う。
東洋医学は、「人間の生命活動は気・血・津液(しんえき、水=すい)の3つの要素から成り立っている」「からだの捉え方の基本となっているのが陰陽五行論」と言う。そして経穴(けいしつ、ツボ)と経絡(気が通るルート)。「ツボの位置は人によって違う(若林)」「東洋医学と対照的に、西洋医学は細部へと向かっていたが、最近は『多臓器連関』がトレンドになっている(仲野)」と言う。
「風邪はウィルスに感染することによって起こされる上気道の炎症。南極には風邪のウィルスがいないので風邪はひかない」「風寒邪の場合はからだを温める薬を使うのが基本。葛根湯や麻黄湯」「風邪に効く薬もワクチンもない」「健康神話はけっこう危ない(全くどこも痛くなくて、毎日快活に過ごせることが完璧な健康みたいな神話)」・・・・・・。
「治療篇――効きゃあいい、治りゃあいい」――。「科学で解明できていない鍼の効果」。
「摩訶不思議な漢方薬の世界」――「麻黄湯はインフルエンザの初期にてきめんに効く」「即効性のある葛根湯や鼻水が止まる小青龍湯」。西洋の薬についても、「西洋でも薬は効きゃあよかった」「薬理学の知識爆発」等が述べられる。そして最後に、「未来篇――医学のこれからどうなる?」についてがん免疫療法やAI診断など広範に語られる。
「わからんな!」など連発の対談で、不思議にも気が楽になった。
「歴史初心者からアカデミアまで」が副題。歴史を愛する人と、歴史学の間には、コミュニケーション・ギャップが生じていると懸念する。「アカデミズム史学の側の人間が求める『面白さ』とアマチュア歴史家が考える『面白さ』が往々にしてずれ、コミユニケーション・ギャップを生んでしまうことは、このような2つの要素を併せ持つ『歴史学』の宿命なのである。そもそも、話している本人が『科学』として話しているのか、『文学』として話しているかを明確にしないことがほとんどなので噛み合わなくなる」と言う。疑うことで発展してきた科学と、物語として叙述する文学の二面性が歴史学にあり、「歴史学」に面白さを感じる人と、文学としての「歴史」に面白さを感じる人は、多くの場合重ならない。そこで著者は、歴史を愛する人たちには、学会や論文のルール、「学会とはどのようなところか」などを丁寧に示す。一方で歴史学者には、歴史を愛する人の様々なアプローチ、「タイプ別・アマチュア歴史家のススメ(自費作家型、『発見』重視型、SNS・イベント活用)」を丁寧に示す。双方ともに真剣に取り組んでいる様子がわかるが、それゆえにギャップが必然的に生じるのだ。
著者は、それを架橋しようとする。「これまで歴史学は比較的学術コミュニケーションがなされできたと思われてきた。しかし受け手である歴史好き、そしてアマチュア歴史家の人たちの実態や思いを正しく理解する努力を怠ったまま、『簡単に理解できそうな知見』だけを伝えるならば、どう受け手に伝わるかという効果面に無理解であったように思われる」「歴史学という分野が親しみやすいと感じられることは良いが、ハードルが低く、誰でも参入できる学問であると軽視されたことが、アカデミズム史学とアマチュア歴史家の分断を招いた大きな原因であったように思われる」と指摘する。
著者は「いお倉」を起ち上げている。「一瞬笑えて後からジワジワ考えさせられる」――そんな歴史学の論文だけを掲載する新しい学術雑誌で、名前はラテン語で「冗談のような歴史」を意味する「Historia(ヒストリア)Iocularis (イオクラリス)」からと言う。
「架橋」するのは、この「笑い」。ベルクソンは「笑いは『無感動』からくる」「無感動は機械的なこわばりに発する。生きている人間が機械を思わせるようになればなるほどにおかしみが生ずるのだ」と言う。真剣であるが故に、他者から見ると「笑ってしまう」ことがある。歴史の面白いエピソードをことさら探して提示するのではない。
著者は明治の政治家・品川弥二郎を研究し、日本の政党政治の発展にとって「ヒール」的存在である彼に独特の感情を抱き、愛おしく感じたと言う。面白いのだ。そんな「笑い」で歴史学の新たな世界を開いていこうとする意欲が伝わってくる。
「賢治ことばの源泉」が副題。宮沢賢治研究の王敏法政大学名誉教授。「宮沢賢治を研究して40年ーー出会いの衝撃は、今も生きるエネルギー!」と帯にあるように、宮沢賢治研究、日中比較文化研究への熱量はすごい。これまで何回もお会いしたが、その熱量と誠実さに感動を覚えてきた。「きょうも、そしてこれからも、私は澎湃として涌く問題意識に向かうでしょう。なぜなら、宮沢賢治作品に触れることによって、日中からアジア文化圏、漢字文化圏という大世界へ邁進することができたからです。・・・・・・謝々!賢治、いつまでも、です」と言う。
宮沢賢治は、「雨ニモマケズ」「銀河鉄道の夜」など、100点あまりの寓話や童話と1000余りの詩や文章を書いた。「雨ニモマケズ」「デクノボー」など心を激しく叩く宮沢賢治独特の言葉の底には、自然への畏敬、民への共感、究極の誠実さという深き哲学性、精神性がある。
さらにその奥を掘り下げると、繰り返し襲う三陸大地震・津波、冷害等を引き起こす厳しい自然の脅威、さりながら美しい動植物との共生、広がる宇宙、もたらされる漢字文化、西域(シルクロード)に翔ける夢が賢治にはあったと言う。本書で「東日本大震災と『雨ニモマケズ』」「言葉の魔術師・賢治と漢字」「賢治と『西域(シルクロード)』と禹王」を語っている。王敏さんでなければできない卓越した日中文化関係論が宮沢賢治を語るなかで展開される。さらに「禹王への尊敬と信仰は、漢字文化圏の日本においても、中国と同様に存在したことに気づいた」「人々が禹王を『治水神』として祀り、信仰し続けてきたことがわかった」と言い、神奈川県開成町の石碑を始め、全国各地での共同調査が行われ、「禹王サミット」まで作り上げたと言う。すごいことだと感嘆する。
「孔子のモデルは『君子』、賢治のそれは『デクノボー』。孔子は『修身斉家治国平天下』をエリートに教えたが、宮沢賢治は政治的な志向を抱かず、『ホメラレモセズ』の脱俗の姿勢をよしとし、対象は地位や肩書のない農民などの不特定多数」「荘子や老子の言葉が、賢治の『デクノボー』に共通する生き方を示しているように思われる」と言う。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と宮沢賢治は言い、人生そのものを幸福のための「求道」と見立てた。王敏さんは「生きることの原点を求めて問いかけ、その解答に全身全霊を導入した賢治の姿勢に啓示を受けた」「賢治を文学者より哲学者と言ったのは、賢治に学び、文学という枠を超えて、社会科学の範囲における人間学を探求したかった」と言っている。
宮沢賢治の詩に頻繁に登場する「微笑み」や「笑い」――。災害をはじめ苦難にあっても、微笑みを絶やすことなく、「イツモシズカニワラッテイル」日本人。「微笑みの文化」について、エドワード・S・モース、ラフカディオ・ハーン、エドウィン・O・ライシャワーの3人を挙げ、「悲しい時ですら、日本人は微笑みを湛えている。日本人に生活の作法として、生活のしきたりとなって根付いている」「感情を表面に出すまいとする日本人の自制だろう」を紹介し、「『笑い』は、諦観もしくはさとりの境地ともいうべきもの」「自然を人間の『敵』とする西洋の自然観に対して、賢治は自然の中の存在としての人間、自然と共に生きていく自然観、人間像を打ち出し、それを『笑い』『微笑み』で表現した」「『笑い』を媒介して、多様な生物とのある種のコミュニケーション空間を形成している(人間と自然との共生モデル)」と王敏さんは言う。また「デクノボー」にも注目し、「誰が賢くて誰が賢くないかわかりません」「いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」「心の苦痛を取り除く『癒し』、日本人の感性に根ざす『清らかさ』『清浄感』がある」と分析している。
宮沢賢治の生命観、人間観、自然観、哲学が、「賢治ことばの源泉」から浮き上がってくる。
息をのむ、壮絶さに苦しくなった。「夫と人生を歩むと決めた日から、私はどこか脅えていた。そう遠くない将来、この人を喪うときが来るかもしれない――。私たちが出会ったとき、彼は血液透析を始めて8年が過ぎていた」から始まる。血液透析、そして母親の決断から腎移植、9年の後に再透析。夫である林新さんの苦痛を押さえ込んでの生きる力、最後の一瞬まで仕事を遂げようとする執念と気迫。24時間、片時も離れることなく全身で支え戦い続ける堀川さん。闘病と献身的介護、二人の心の強い結びつき、医療関係者との関わり合い、医師との感情のズレと葛藤・・・・・・。あまりにも壮絶、理不尽、辛くなる。透析をしている友人が何人もいるが、これほどのものかと思い知らされた。
「私たちは確かに必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それがわからなかった」「私たちには、どんな苦痛を伴おうとも、とことん透析をまわし続ける道しか示されなかった。そして60歳と3カ月、人生最後の数日に人生最大の苦しみを味わうことになった。それは、本当に避けられぬ苦痛だったか、今も少なからぬ疑問を抱いている」ーー。そして本書について、「透析患者の長期にわたる維持透析、移植期、そして終末期を取材することは、望んでも簡単にできることではない。まして、透析クリニックの内情、大病院での看取りの過酷な現実を、患者に24時間ずっと付き添い、リアルタイムで観察して記録に綴り、カルテまで入手する取材など絶対できない。・・・・・・そう自分に鞭を入れながら、私はふと『献体』のことを思った」と述べている。
血液透析は腎不全患者の血液中の老廃物と過剰な水分を取り除く治療で、現在日本の患者さんは約35万人だという。本書第一部では実体験が息苦しいほど語られ、「長期透析患者の苦悩」「腎臓移植という希望」「移植腎の『実力』」「透析の限界」、そして「透析を止めた日」が書かれている。第二部では問題点、課題、新たな選択肢などの挑戦が掘り起こされ、提起される。特に緩和ケアと腹膜透析。また透析の方針の選択に当たって、患者とその家族等への丁寧な情報提供と患者の気持ちに沿った要望とのすり合わせが不可欠だと訴えている。それらが「巨大医療ビジネス市場の現在地」「透析患者と緩和ケア」「腹膜透析という選択肢」「納得して看取る」の各章で述べられる。
あまりにも深く、心に突き刺さる衝撃作。
田沼時代を追い風に、江戸の文化をリードした蔦屋重三郎の生き様を通して、泰平の世・江戸の活気ある姿を解き明かす。蔦屋重三郎は、江戸のメディア王と呼ぶにふさわしい実績の数々を残したが、それは田沼時代であったことを抜きにして語ることはできない。本書は、田沼意次の人生や、その時代に着目することで、蔦屋重三郎の実像に迫る。
蔦屋重三郎は、寛延3年(1750)に吉原で生まれる。9代将軍家重の時代である。両親と生き別れになり、喜多川氏が経営する商家の蔦屋に養子に入る。蔦屋は吉原で茶屋を営んでいた。重三郎が書店を開業したのは安永元年(1772)、23歳の時。吉原の入り口に書店耕書堂を開店した。「一目千本」「吉原細見」などから始め経営基盤を固めた上、日本橋へ進出、江戸の出版界を牛耳る地本問屋にジャンプアップする。時は10代将軍家治の時代、その政治の全権を委ねられたのが老中でありながら側用人を事実上兼任した田沼意次であった。商品経済の発展を背景に株仲間の結成を積極的に認めることで運上・冥加金の徴収、流通や物価のコントロールによる物資の確保、公金貸付の拡大、印旛沼干拓や蝦夷地開発、新産業育成など、進取の気性に富む田沼意次は果敢に挑戦した。重三郎はそんな時流に乗って、出版事業に果敢にチャレンジし、業界トップにのぼりつめる。
「黄表紙の隆盛と戯作者・ 山東京伝」「天明狂歌の時代と狂歌師・大田南畝」「狂歌師と浮世絵師のコラボで狂歌絵本を編み出す」「強力にプッシュした浮世絵師・喜多川歌麿」「吉原と持ちつ持たれつの重三郎」・・・・・・。
しかし時代は反転する。天明2年(1782)からの天明の大飢饉、浅間山の大噴火(天明3年)、連鎖的に起きた米騒動・・・・・・。頼みの綱の将軍・家治が急死(天明6年)、高まる政治不信のなか田沼意次が失脚する。そこに政敵・松平定信が台頭する。天明8年(1788)に意次は70歳で死去する。蔦屋重三郎39歳の時だ。出版統制は激しいものであった。
「田沼意次が成り上がり者として、先祖代々の幕臣からの嫉妬や反感を避けられなかったように、重三郎も出版界では成り上がり者であり、同じく嫉妬を買い、反感を持たれていたはずだ。だが、その人間性とたぐいまれなるビジネス力で売り上げを伸ばすことで、ネガティブな空気を封じ込めてしまったのではないか」と言う。その重三郎を危険視し、松平定信は出版取り締まり令によって処罰しダメージを与えたのだ。
閉塞した時代を変えようとした田沼意次と、江戸庶民大衆の中での息吹を創り出した蔦屋重三郎はなんと魅力的な人物であることか。面白かったのだと思う。