謙信の軍配者.JPG長尾景虎(上杉謙信)の軍配者・宇佐美冬之助、武田晴信(武田信玄)の軍配者・山本勘助、北条氏康の軍配者・風魔小太郎――。「早雲の軍配者」「信玄の軍配者」の両書とは違って、テーマは"霧の川中島"だ。永禄四年、1561年の川中島第4回目の戦いだ。謙信が信玄に襲いかかるあの戦さ。

軍配者を描くというより、長尾景虎の兵法の常識を覆す異能ぶり。景虎の眼は人ではなく神仏に注がれる。神出鬼没の行動の背景には、毘沙門天そのものしか心中になしとの非政治的世界の覚悟がある。

一方の武田晴信は全くこれと対極。常識的、人間的、政治的世界が描かれる。

さしもの勘助、冬之助の軍配者もこの強烈な二人の背景に遠去かる。足利学校で共に学んだ軍配者3人の戦いと友情も完結する。


うらない処.png

場所は東京北区の王子。その王子稲荷のふもとの商店街に、ホストあがりのイケメン毒舌陰陽師・安倍祥明がよろず相談ごとを受ける占いの店「陰陽屋」を開く。そこに、ひょんなことから妖狐(化けキツネ)で飛鳥高校に通う沢崎瞬太がアルバイトで入ることになる。この妙なとりあわせのコンビが、「いいかげん」というか「おせっかい」というか、「絶妙な人心掌握」というか、結果として悩みを次々と解決に導いていく。ほのぼの感が残るこの人気シリーズは、「陰陽屋へようこそ」で始まり、本書で第5巻目。主人公の沢崎瞬太も中学生から高校生。やっと2年生になる。

私の地元・王子が舞台、しかも10月からは連続ドラマ(錦戸亮主演)が決まっている。不思議なこの物語が、どういう映像になるのか、それも興味深い。


新幹線とナショナリズム.png

あの昭和の戦争が終わって10年余――。昭和34年に着工した新幹線は、わずか6年で完成、39年の東京オリンピック直前の10月1日に開通した。きわめて鮮明に、高揚感があったことを覚えている。しかもそれが企画された時は"鉄道斜陽化論"の真只中にあった。

「ナショナル・シンボルとしての新幹線」「ナショナリズムがつくりあげた新幹線」だと藤井さんはいう。そこでいうナショナリズムとは、「歴史と伝統、文化を中心とする民族主義(エスニシズム)」と「近代化の過程で生ずる政治的、経済的意志に基づく政府主義(ステイティズム)」の二つを焦点とする楕円的なる性質を帯びたものであり、両者の化学反応で生ずるものと指摘する。つまり新幹線は「敗戦で傷ついたナショナル・プライドを取り戻し、日本国民が一致団結して立ち上がる、そして文字どおり"世界一"の技術でつくり上げた新幹線を、オリンピックという全世界が注目する舞台で世界に見せつける、という"大きな物語"のうねりのなかでつくり上げられた」というわけだ。

新幹線、高速道路、リニア、東北の復興――「つなげよう、ニッポン」を成功させるためには、精神的結びつきが不可欠だとする。


新時代の企業防災.JPG「3・11の教訓に学ぶ地震対策」と副題がついている。首都直下地震と南海トラフ巨大地震が起これば、人的および社会経済被害は計り知れない。被害の最小化、迅速な回復を図る「減災」と「レジリエント(強靭化)」を早くから訴え続けた河田さんが、災害多発・激化時代に対して国・自治体、企業、個人・家族がどう迎え撃つかを示した著作だ。

東日本大震災やタイ・チャオプラヤ川氾濫被害、米のハリケーン災害などで何がおきたのか。そこから導き出される教訓は、災害は各般、広域、時間的変化と多岐にわたる甚大な影響をしっかり想定した対応の必要性だ。さらに地震と水害などが重なってくる複合災害となることを想定した体制、組織、対策をつくることの緊要性だ。企業におけるBCPは、そうした大災害に対応するものでなくてはならないし、道路や通信などのネットワーク(網)というものにとくに配慮したものでなければならない。

脆弱国土・日本。それが高度に発達し脆弱性をより内包した社会となっていることを直視し、国土と社会の安全保障に踏み出さなければならないことを痛感させる。具体的、包括的、実践的な防災・減災の必読書だ。


官僚の反逆表紙.jpgオルテガの大衆社会論と、ウェーバーの官僚論がまず提起される。「官僚の反逆」とは、オルテガの「大衆の反逆」をもじっている。オルテガの大衆批判は辛らつを極めるが、今なお鋭い。オルテガのいう大衆とは「個人としての特定の意見をもたず、附和雷同、大勢に流される人間」という。一方で「エリート、貴族とは決して現状に満足することなく、より高みを目指して鍛錬を続け、常に緊張感をもって生きている存在」であり、オルテガ大衆社会論に依れば、当然ながらエリートは大衆に嫌悪されることになる。この困難な道を引き受けて進もうとすれば、官僚バッシングを蒙ることになるが、その道を逃げれば(エリートからの逃走)凡愚に屈する大衆的人間となり果てる。

ウェーバーは、官にも民にも及ぶ近代社会の「官僚化現象」――「官僚は規則の拘束の下で職務を執行し、"非人格的"な没主観的目的に奉仕する義務を負う」「そのためには批判基準の定量化・数値化や、主観的価値判断・感情の排除が随伴する」ことを示す。人格的、主観的な「政治」とは対極に位置する。

私自身が長く意識してきた「大衆社会論」「ファシズム論」には、1930年代のオルテガ、ウェーバー、ホイジンガ、アドルノやベンヤミンらのフランクフルト学派、その後のE・フロム等が常に基底にあった。

本書では、70年代頃から日本の大衆社会化が顕著になり、80年代には決定的になったと見る。「政治の上に立つような"国土型官僚"は60年代までは多数存在したが、70年代には"政治的官僚""調整型官僚"が優勢となり、80年代にはそれとは全く異なる"吏員型官僚(非政治的な官僚)"が現われるようになった。それはウェーバーが抽出した官僚像だ。90年代にはグローバル化の進展とともにその官僚制的支配の拡大が顕著になる」。そして「非政治化・官僚制化による自由民主政治の破壊」となると指摘。

現代社会は、オルテガの大衆社会化状況、ウェーバーの官僚制化現象、ホイジンガの小児病化が顕著になっている。そして中野さんは、リーマン・ショック、ユーロ危機、日本の失われた20年等で、官僚制的支配の破綻が明らかになった今、「自由民主政治」を復活させなければならない。「政治とは何か」を考え、「政治主導」なる意味を真に蘇らせなければならないという。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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