碁打ちにして数学者、天文学者の祖・渋川春海(安井算哲)が日本独自の暦をめざす苦闘。保科正之、酒井"雅楽頭"忠清、関孝和をはじめとして、1650年以降の江戸の知性が北極星をめざすがごとく一筋の道を突き進む。
戦乱でないこんな角度の時代小説が描かれる意外性とともに、困難が降り注ぐなかでも、純粋な善い人に恵まれることがいかに幸せか、その幸せ感が伝わってくる。
命じたのは名君・保科正之。
「人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって天下の御政道となす・・・・・・武家の手で、それが叶えられぬものか」
「どうかな算哲、そなた、その授時暦を作りし3人の才人に肩を並べ、この国に正しき天理をもたらしてはくれぬか」
「この国の老いた暦を・・・・・・斬ってくれぬか」
ちょうど本書にある会津に3日間いた時に読んだことや、明暦の大火や玉川用水、利根川の東遷などを調べていたこともあり、面白かった。2010年の本屋大賞受賞作。
宇宙に字を書け、砂上に字を習え――と副題にある。
北大路魯山人は書家、陶芸家、美食家だが、この書を読んでそのすごさは次元を越えている。
「芸術は結局人である」
「人物の値打ちだけしか字は書けるものではない」
「(梅原龍三郎は)富士をにらみ倒して描く。・・・それでは、にらむたびに、それが邪魔になってますます描けなくなるだろう。・・・(大観は)人間は時々お灸を据えられることが必要だ。灸を据えられない為に、とかく人間はいい気になる。――全体を見て絵を描け、部分を集めてもそれでは絵にならぬ」
王義之、顔真卿、池大雅、そして良観に心酔していく歩みは、想像を絶する境地としかいいようがない。
格調高く、敢然として、恰幅があって、穏やかで、雄渾を秘めていて衒いがない、生命力溢れた魯山人の書の代表として山田さんは山代温泉の「白銀屋」の看板をあげる。私も一泊して魯山人の世界に触れたことが思い出される。
魯山人を語り切る山田和さんもすごい。
対話。しかし重松さんは鶴見さんの「講義」を生徒として聞いて、生徒冥利に尽きるという。決して高みに立つことのない、フェアで新鮮な好奇心――鍛え抜かれた思想・鶴見さんの姿にふれて対話が進行する。難解な思想・哲学とは違って淡々とした対話だ。
「自分はこういうふうに生きている」「きみはどうか」――それが私にとっての哲学だと鶴見さんはいう。
「普通の家庭だと子供を一人ぼっちにしない、子供に失敗の悲しみを味わせないことが親の愛だと思う(思いがちだ)が、一人で生きられる力をつけさせることが子供を育てるということだ」
「友達万能時代(友達100人できるかな・・・)。一人になるということに対する耐性・免疫がない。つながりたいといつもケータイ、メール」
「成績がいいということと、頼りになる人間とは違う」「ひらめきがあって持久力もある人はいま少ない」「現役ということ」
「理屈や言葉だけでなく、実行する人を評価する、生活に密着した行動する人を」
対話とは、こういう人生の生の重い言葉にふれられる喜びだ。