戦国武将の評価が時代とともに大きく変化していることを論証し、妄説を打破し、その虚像と実像に迫る。戦国武将の評価は「大衆的歴史観」を考える上で最重要のテーマ。本書は、戦国武将の評価の歴史的変遷を考察する。数多の歴史書や小説を、ある意味では撫で斬りにするわけだから相当の力技だ。
扱っているのは明智光秀、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、真田信繁、徳川家康の7人。「織田信長は革命児」「豊臣秀吉は人たらし」「徳川家康は狸親父」「石田三成は君側の奸」「真田信繁は名軍師」といったイメージはどうなのか、ということだが、その人物像は時代ごとに大きく変化している。それは、「歴史は勝者の歴史であること」「その時代の大衆に受けるように講談・浄瑠璃・歌舞伎などで演じられたこと」「江戸時代の中心を成した儒教的倫理観」「明治以来の皇国史観」「日清戦争・日露戦争、アジア出兵などの影響」「戦後の合理主義や革新者待望意識」などで、くっきりと人物像が変遷する。豊臣秀吉は、「徳川史観による著しい秀吉批判」「幕末の攘夷論と秀吉絶賛」「明治・大正期の朝鮮出兵への評価」「支那事変を背景にした吉川英治・太閤記の秀吉礼賛」「秀吉の朝鮮出兵を愚挙とする戦後の小説」など、その評価は極端に変化する。現在の「大衆的歴史観」において司馬遼太郎の影響はきわめて大きいとする。
最後に「英雄・偉人の人物像は各々の時代の価値観に大きく左右される。歴史から教訓を導き出すのではなく、持論を正当化するために歴史を利用する、ということが往々にして行われる。日中戦争を正当化するために秀吉の朝鮮出兵を偉業と礼賛する、といった語りはその代表例である。問題意識が先行し、先入観に基づいて歴史を評価してしまうのである」と言い、時代の価値観が歴史観、歴史認識をいかに規定するかという問題を剔抉する。
「定説」も「最新学説」も一から見直そう、と言っているが、日本の歴史がきわめて明確に見えてくる。時代の流れがよくわかる。
「この国の形は時代によって変わる――日本列島が一つの国といえるようになったのは、1590年、秀吉による奥州平定の完了時点」「古代――ヤマト王権の力の源泉は大陸・半島にあり。白村江の戦いが日本というアイデンティティーの誕生。天智天皇・天武天皇・持統天皇の三代で日本の原型。律令体制は現実からかけ離れた非現実なものだがタテマエの力でもあった」・・・・・・。
「平安時代――朝廷は全国を支配できていない。坂上田村麻呂は東北を平定していない。遣唐使の廃止は唐の混乱で外圧が弱まった。摂関政治の開始と菅原道真の左遷。貴族が地方を放置し東国に朝廷と別の体制をつくる平将門の乱。関東に先に進出した平氏。実はモロかった摂関政治。保元の乱と平治の乱で地方で力をつけてきた武士が政治の主導権を握る。平家政権は武士の政権だったのか」・・・・・・。
「鎌倉時代――関東武士はなぜ頼朝を担いだのか(頼朝の外交力)。朝廷に骨抜きにされないよう頼朝は戦略を組んだ(全く理解しなかった義経)。鎌倉幕府成立の1180年説。後鳥羽上皇は源実朝を懐柔しようとしたが暗殺されて討幕を考える(承久の乱へ)。鎌倉時代後期の天皇は名君ぞろいで徳へと進む。外交オンチが招いた蒙古襲来(攻める気のなかったフビライ)。得宗専制で自滅した鎌倉幕府。名字に『の』が入らなくなった理由」・・・・・・。
「室町時代――鎌倉幕府を倒したのは後醍醐天皇ではない。南北朝はなぜ50年余りも続いたのか。細川頼之がつくった足利義満1392年体制。応仁の乱は尊氏派と直義派の最終決戦だった」・・・・・・。
「戦国時代――エリート大名が戦国大名に進化できなかった理由。秀吉はなぜ家康を潰さなかったのか」・・・・・・。「江戸時代――江戸幕府の名君と暗君は誰か」・・・・・・。古代から近世まで時代の流れがよくわかる。
「Web3、メタバース、NFTで世界はこうなる」が副題。最先端テクノロジーが、従来のWeb1.0、Web2.0の世界を超え、私たちの社会、経済、個人のあり方に劇的な変革をもたらそうとしている。全てが大転換する時代、新しいルールで動き始めた世界にどう対処すれば良いか。テクノロジーが予測する未来を語る。
新時代を切り開いたのは「ブロックチェーン」のテクノロジーだ。非中央集権的な思想を掲げてビットコインが、続いて「コミュニティーありき」のイーサリアムが生まれ、新たなフェーズ、Web3ヘと進展する。Web3の最大の特徴は「分散」だ。すべてを非中央集権化するテクノロジーをきっかけとして、「僕たちの社会は非中央集権的なパラダイムへと移行しようとしている」という。着々と存在感を増しているWeb3に対しては「疑念半分、期待半分」だが、そのベクトルは不可避でもある。「Web3が広まり、新しい経済圏、クリプトエコノミー(暗号資産が流通)の影響力や存在感がますます増してくると、フィアットエコノミー側(法定通貨の世界)で危機感が高まる可能性があり、規制の動きが起こってくる」「テクノロジーは私に何をしてくれるのか、という受け身の姿勢ではなく、テクノロジーを使ってどんなことをしようか、という積極的にコミットしていく姿勢が重要になる」と述べる。「最先端テクノロジーが、日本再生の突破口を開く――それぞれ個別の目的や情熱を持って、プロジェクトDAOの発起人となる、それに貢献する、D e F i(分散型金融)で資産運用する、 NFTアートを楽しむ、出品する、メタバースで世界中の人と交流するなどが始まっており、アメリカの証券会社では、顧客の希望に応じて資金の一部をクリプトエコノミーに回すというのが当たり前になっている」という。
Web3、DAO(分散型自立組織)、メタバース(人間が自分の身体性や属性から解放され、時空を超えてコミニュケーションできる場)、NFT(代替できない価値を持つトークン)・・・・・・。働き方、アイデンティティー、文化、教育、民主主義などがいかに変わるかを語り、「全てが激変する未来に、日本はどう備えるべきか」を熱く語る。
昭和の初めからの北海道根室が舞台。昭和十年、十歳のミサエは亡き祖母の奉公先から請われ、新潟の橋宮家から幼い頃を過ごした北海道根室の酪農家である吉岡家へ貰われる。厳しい寒さ、ひたすらこき使われ、抜け出すことのできない地獄の日々で、学校にも通わせてくれない。酷使されるだけでなく、罵倒の限りを尽くされる。必死に生き抜くミサエを助ける者が出て、札幌で保健婦となって根室に戻る。懸命に働いて結婚をするが、娘がいじめにあって自殺。そのことで離婚。その時、お腹には雄介を身ごもっていた。運命の仕業なのか、その雄介は、吉岡家の長男として育てられる。手放したのだ。必死に生き抜くミサエの生涯が第一部、北海道大学に進学した雄介の決断が第二部。北海凍る屯田兵の魂が宿る原野で繰り広げられる厳しい生活と苛烈な人間関係。読んでいて辛いが、「絞め殺しの樹」の凄まじさが心に重く響く。
「人生のうち、最も多くの時間を過ごした故郷。この地で生活をするたびに、多くの苦しみと光が波のように交互に押し寄せてきた。人々のためにと幾度もわたしの身は削られて、もう何もこの手には残っていない。からっぽだ。・・・・・・わたし、もうつかれた」「半ば無意識に全身から雪を払って、ミサエは諦めたようにため息をついた。ああ、やはりわたしはまだ死ねない」「あなた、自分で思っているほど、哀れでも可哀想でもないんですよ」「わたしは、自分の悲しみに、依存していたのかもしれない。この身の不幸によりかかることによって、存在を規定していたのかもしれない」「立てる限りは立つ。死ぬ時までは生きねばならない。枯れかけたこの身でも、いつか完全に枯れるその日までは、理不尽に何もかもを吸いつくされようが、生きねば。でなければ、あの子らに申し開きができない」・・・・・・。
「人は、木みたいにね、すごく優しくて強い人がね、奇跡的にいたりするの。ごくたまにね。でも実際には、そういう人ほど他の人に寄り掛かられ、重荷を背負わされ、泣くことも歩みを止めることもできなくなる。あなたのお母さんも、そんな子だった」・・・・・・。絡み付いて栄養を奪いながら、芯にある木を締め付けて元の木を殺してしまう。死んだ実母。絞め殺しの木。しめ殺された木。絡み合い、枯らし合いながら生きる人々。哀れではあるが、根を下ろした場所で、定めに従って生きる。実母ミサエに思いを馳せ、雄介は生きていく。いたたまれないほど過酷で辛い、重い小説。
この4月に角川春樹事務所から出た詩集。同じ北海道の桜木紫乃が「メロディーのある文学作品は、簡単に胸奥の壁を突破してしまう」「中島みゆきの詩を読むと『自分のため』という動機しか持ち合わせずに伸びてゆく一本の木が見える。囲いも縛りも剪定もなく、原野にそびえ枝を伸ばしてゆく一本の木だ」と書いている。生命力を感じ、人生を感じ、大地や空や海や風を感じる。北海道の風雪を越えて進むむき出しの力だ。おおらかな庶民の強さだ。
「冬は必ず春となる」「海よりも広いものがある。それは大空である。大空よりも広いものがある。それは人間の心である」・・・・・・。「魂から湧き出る歌詞は、人生の詩そのもの」――元気をもらう歌詞とメロディー。聴きながら読んだ。