3年前に行方不明となっていた歌手志望の若い女性(並木佐織)の遺体が発見される。容疑者はなんと、20年ほど前に起きた少女殺害事件(本橋優奈ちゃん事件)と同じ蓮沼寛一。しかし犯行確実と思われた両事件はともに、完黙の末「無罪」「証拠不十分」で釈放されてしまう。「あいつがやった」「犯人間違いなし」と思われているのに、司法の場では裁けない無念。遺族や街の人々の憎悪が噴出し、秋祭りのパレードの日、ある計画が挙行される。
二件の殺人事件を担当しながら起訴できず、悔しい思いを抱く草薙。米国から帰って人情味が増した感のある湯川(ガリレオ)。並木の家族や友人・戸島、新倉夫妻、佐織の恋人・高垣智也、警察の草薙の同僚・内海薫等・・・・・・。二転三転、絶妙のタッチで真実に迫り、心音を聞いていく。
11月9日、福岡市に行き、高瀬弘美参議院議員の政経セミナーに出席・挨拶をしました。これには、下野六太・参院選予定候補らが参加しました。
挨拶のなかで私は「公明党は常に真っ先に現場に駆けつけ、現場の声を聞き、それを具体的に政策実現することによって、今やすべての政策に公明党が関わっている」「現在国会で論議中の外国人労働者受け入れ問題で大事なことは、まず今の職場をしっかりさせること。そして、日本の若者が入って来られるような環境――『給料がいい、休暇がある、希望がある』の新しい3K、にすることだ」「大きな変革期にある日本において公明党は、変革の渦の先頭に立って、社会保障や防災・減災の対応をしていかなくてはならない」などと述べました。
政経セミナーに先立ち、有料老人ホームを訪問。翌10日は、公明党福岡県本部の幹事会に出席し、明年の統一選・参院選の勝利に向けての日常活動について話しました。
前著「森の日本文明史」に続いて、世界・宇宙をも視野に入れて新しい「生命文明の時代」が来ることをダイナミックに語る。その背景には「この広大な宇宙に生命の惑星地球が存在するだけで奇蹟にちかい。その地球に人類が生きているのはなおさら奇蹟である」との感動があり、一神教の人間中心主義に立つ「物質エネルギー文明」が死を迎え、生命の循環システムに立脚した「生命文明の時代」が構築される、という。前者は自然を支配し人間の王国をつくろうとしたが、これ以上自然の収奪が続けば、現代文明崩壊の闇が迫る。しかも、前者の制度・組織・装置系に憧れ、それを受容している間に、内核としての価値観や心も変わっている。それが今なお破局的に進行している。宇宙・自然の豊かな生命が失われ、人間が壊れていっていると危機感を発する。ましてや日本は、「生命を畏敬する多神教的な世界観と仏教的世界観を温存している」のではないか。それは「池田大作氏とトインビー博士の"21世紀の対話"」でも明らかではないか、という。そして、欧州と違って、城壁を持たない東洋の稲作漁撈型都市を「農村文明」として提唱する。ヨーロッパは「家畜の文明」であり、日本には誇るべき里山があり「森の文明」なのだ。つまり、これからの未来社会は再生力ある「自然=人間循環型の文明」を創造することだ、と強調する。
家畜を核とするヨーロッパの農耕社会は、自然搾取型の地域システムをつくり、これが世界を席巻するに至った。そして日本は「森の民」としての文明的伝統を維持してきたが、戦後のとくに昭和30年代から40年代、山村が急速に崩壊を始めた。「森の民」日本人の危機である。稲作漁撈民は、森の下草等、海の海藻等の資源を利用し、生命の水を核とする循環システムをつくりあげた。森を破壊し、自然から収奪する欧米文明ではなく、「自然を生かし己をも生かす」自然=人間循環系の縄文の文明原理にこそ真の価値を見い出す時だ、という。そして「里山・里海の生命の水の循環を守り通してきた祖先の生活様式(ライフスタイル)に感謝し、未来を想い描かねばならない」と強く主張し結んでいる。
この8月、豊島区が「東アジア文化都市」に選定されました。これを受け、7日(水)、キックオフとなる「東アジア文化都市2019豊島」シンポジウムが開催され、挨拶しました。
「東アジア文化都市」とは、日本・中国・韓国の3か国から、文化芸術による発展を目指す都市を毎年1都市選定し、年間を通して、3か国の文化交流を図る国家的プロジェクトです。2019年は日本の「豊島区」が選定され、「中国・西安市」「韓国・仁川広域市」とともに、文化の発信を行います。シンポジウムには、主催者である高野之夫豊島区長をはじめ、国会・都議会・区議会の各議員、町会・自治会・各種団体のリーダー、各企業のトップなど多数出席し、盛大に行われました。
私は「2019年は重要な年になる。その先駆的役割を豊島区が担う。ともに頑張っていきたい」と挨拶しました。
全12篇。世界を襲う戦争のために人生・生活を切断される人々。米国で、ヨーロッパで、アジアの国や小さな島々で、日本で、貧しさを乗り越えて、ささやかな幸せを感じてきた人々の戦争による別離と淋しさ。「国政を私物化して共栄を騙る強欲な徒党のために人はあらぬ方向へ歩かされるものだと思いながら、やはり儚いさだめを負わされて大地にうつぶす人を思いやらずにいられなかった」「丹精した畑が見る影もなく寂れたように、夫婦が睦まじく語らい、慰め合うときはもう二度とあるまいと思った。シャオシアも精一杯の微笑を浮かべて、終幕の淋しさに耐えていた」(こんな生活)・・・・・・。
「歩調はこつこつと生きてきた人の強さのようであり、時代を憎む人の地団駄のようでもあった。雨上がりの石畳はひっそりと輝き、婦人の後ろ姿にも雨のあとがあった。その貧弱なようすが今日の彼には美しく見えて、うつろな視野から消えてゆくまで目をあてていた。するうち唇が震えて、思ってもみない寂寥が押し寄せてきた」(足下に酒瓶)など、描写はなんともキメ細やかで美しく、心の襞に広潤な幅があることを感じさせる名文が続く。「貧しい街から抜け出し、やっと築いた生活とジャズを奪われる若者」(どこか涙のようにひんやりとして)、「小説を書くことを共に志した恋人とも別れる女性――『次々と大切なものをなくしてゆく女の前途に確かなものなどなかったが、傷んだ心の皮を剝いてしまうと、皮肉なことに生きてゆく目的だけが残った』」(万年筆と学友)、「あまりの貧しさから抜け出すために軍隊を志願する兄と残る妹」(とても小さなジヨイ)、「美しい島で一生を送れるはずが、文明と戦争で切断され、お腹の子を宿している新妻と別れて征く夫」(ニキータ)、「戦争は移住者のアイデンティティを引き裂く。完璧なアメリカ人になれる者、なれない者」(みごとに丸い月)、「戦争で別離するも現実に生きる生死の女性と煩悩の男性の淡い違いを明らかにする」(アベーロ)、「無学でも非力でも生きてゆく人の闘い方がある。そのかすかな力が家族たちにも希望の灯となる」(ミスターパハップス)、「見送ることも、(言葉を交さず)早速に去ることも、甘美な記憶と未練を断ち切ることであった」(隔日熱病)、「猫と暮らし、ささやかな幸せを街中で感じていた若者が別れの時を迎えた」(十三分)・・・・・・。
「黙聴と静思を忘れた自己主張の渦から一流の文学は生まれない」「人間を書けない文学は無力である」「報道には報道のための平明な文章があるように、文学には永遠を組み立てる美しい文章があって、後者はどこからか不意に生まれてくる」・・・・・・。なるほどと納得する。