政治コラム 太田の政界ぶちかましCOLUMN

NO.153 脆弱国土を誰が守るか!/家康以来続く利根川・荒川との戦い

2021年8月 5日

「脆弱国土日本を誰が守るか」「防災・減災、老朽化対策、メンテナンス、耐震化を国の柱に」――私が政治活動のなかで言い続けてきたことである。「災後の復旧より事前防災」「インフラのストック効果こそ経済成長のエンジン」がその哲学だ。災害列島日本――。今年もすでに静岡県熱海市伊豆山で多くの死者・不明者を出した土石流災害が起き、今も救出活動が行われている。今年の通常国会で「流域治水関連法」が成立。防災・減災、国土強靱化のために今年から5年、事業規模15兆円の予算を緊急対策として行うことが決まっているが、災害を食い止めるよう闘うべきヤマ場だと思う。

7月3日、熱海市で発生した土石流災害は、紀伊半島で2011年に発生した深層崩壊とか、伊豆大島で2013年に発生した"河川争奪"といわれる土石流などとは違うようだ。災害のメカニズム、原因究明については、調査が続いているが、"盛土"に関連していることは間違いない。"盛土"も宅地造成等を行う場合には、排水や地盤強化策などが行われているのが通常だが、今回の熱海市の土石流は、残土が安全な措置をされずに盛土されていたとの見解がある。国交省は79日、「デジタルマップを利用した全国における概略的な盛土可能性箇所の抽出」を全国的に行い、盛土の点検作業に踏み出したが、原因究明・再発防止への積極的取り組みを行ってほしい。

京成視察①.jpg今年度中には私の地元・JR東北本線橋梁周辺の堤防嵩上げ工事が完成する。ここは、荒川が隅田川と分岐する岩淵水門のすぐ上流にあり、この堤防がJR東北本線の橋梁によって低くなっていることを改善する大事な事業だ。この堤防が強化され、埼玉県の荒川上流に建設中の第2、第3調節池が10年以内に整備されると、文字どおりの"荒ぶる川"の荒川の氾濫は防ぐことができる。残るは荒川下流で、最も低い堤防となっている京成本線荒川橋梁部分だ。周囲より3.7m低く(戦後に3.4m地盤沈下)、増水時には、ここから決壊の恐れが懸念されている。現在、橋梁の架け替え工事の計画がまとまり、土地の買収等が始まっている。ここを完成させて、荒川を治めることができる。

東京・関東にとって、この荒川と利根川との戦いは長い。実に徳川家康以来の長い戦いの歴史だ。1590年、徳川家康は江戸に転封される。当時の江戸は大湿地帯であり、今日の広大で肥沃で人口が集中する関東平野とは全く違っていた。1457年、太田道灌は、北への要衝・浅草と、水運における交通の要衝・品川の中間にある千代田に江戸城を築いたが、繁栄する城下町には到底なり得なかった。なんと利根川は当時、東京湾に注いでおり、雨になれば江戸は一面水浸しになり、人を寄せ付けない状況だった。

荒川橋梁視察②.jpg家康は決断する。利根川を東遷、水を太平洋に流し、湿原の関東を乾陸化しようとしたのだ。そのため、赤堀川の掘削を開始し、1621年、利根川と西の流域を結ぶ7間(13m)の赤堀川が開通、初めて利根川と太平洋がつながった。そして更なる拡幅工事を続け、1654年、家綱の時代に利根川は本格的に太平洋に注ぐことになったのだ。あわせて家康は、利根川と結んでいた元荒川の締切りと荒川の西遷までも行なっている。「利根川の東遷、荒川の西遷」の大事業だが、これによって関東は湿地から農地へ、江戸の大発展をもたらしたのだ。ちなみに現在の荒川下流部は、元々あったものではなく、明治40年、43年の大洪水を契機に人為で掘った放水路である(昭和5年完成)。

狂暴な水との戦いが、この関東では家康以来続けられた。利根川では一昨年9月、「八ッ場ダム」の堤体が完成し試験湛水を始めた。その直後襲った台風19号(令和元年東日本台風)の豪雨を八ッ場ダムが引き受け、氾濫を抑える大きな力となったことは記憶に生々しい。関東の治水・利水との戦いには、これほどの歴史があり、全国を見ても家康の同時代に北上川改修や大阪の大和川改修、広島の太田川改修などが行われており、今日まで続く悪戦苦闘の歴史は長い。日本は四季の美しい国だが、自然条件は厳しい脆弱国土だ。脊梁山脈が国土を縦貫し、河川は急流、河口部と山間盆地にしか平野はない。その狭い平野に人口が密集するが、軟弱地盤で弱い。そこに大地震と台風が襲来する。日本人はそのなかで戦い続けてきたのだ。脆弱国土に働きかけ、防災への戦いを続けて、今日の国土があることを認識しなくてはならないと思う。集中化、激甚化、広域化する豪雨災害に、そして自然に、人間は真摯に粘り強く、冷静に対処していかなければならない。それが、「防災・減災・国土強靭化」であり、「インフラ整備」だ。 

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