2021年に刊行された「日本語の大疑問」の続編。「ことばの正しい使い方や美しい言葉遣い」を示すものではなく、「私どもの研究は、日本語という一言語がどのような構造をもっているか、母語話者および非母語話者による日本語運用の実態はどのようなものか、日本語の多様性、歴史的変化などの問題を、客観的な手法で解明することを目指している」と言う。何気なく使っている日本語の構造を知ることができる。
「若者ことば・話しことばのナゾ」――「『上から目線』の『目線』はもとは映画業界用語だった」「置いてけ堀は『置いてけ、置いてけ』と魚を返せという幽霊(?)の声からのことば」「地域によるアクセントの違い――平安時代の標準語アクセントが各地で変遷した」「東と西では人を起こす言い方でも微妙に違う(『起きたらどうだ』と『起きなあかん』)」・・・・・・。
「どうにもモヤッとすることば」――「『感謝しかありません』という表現に違和感を持つ人は少なくない。『感謝の思いしかない』とすれば違和感はなくなる」「社外の人に対し、上司を呼び捨てにするのは違和感があるという人がいる。優先順位は<上下>関係よりも<内外>関係」・・・・・・。「文字にまつわるミステリー」――「人々の『々』は何という名前? 」「平仮名は空海が作ったのではない。だいぶ後の11世紀ごろにいろは歌はできている」・・・・・・。
「そろそろ決着をつけたい日本語」――「原則として表記に『づ』『ぢ』は使わない。『稲妻』は『いなずま』と書く。『稲』と『妻』の関係がわかりにくいから。『鼻血』は『鼻から出る血』で『はなぢ』」「『ムショ』は、監獄のことを言う盗人仲間の隠語で『虫寄場』の略。『刑務所』よりも前にあった言葉」・・・・・・。
「ことばの歴史を探る」――「現代の高校生が戦国時代にタイムスリップしたら言葉は通じるか。戦国時代は『古代語』と『近代語』のはざま」。「外国人学習者がとまどう日本語」――「『ら抜き言葉』を学習者が使う危険性」「用事があります『から』『ので』の違い。『ので』の方がより丁寧な印象になる」「日本語が上手ではない留学生とコミュニケーションを取るコツ――短い文で言葉を省略しない言い方をする」・・・・・・。演説などでも短く切って話をする方がわかりやすいと実感している。
大変面白い解説が続く。
コロナのパンデミック中の2021年から2023年に発表した作品6篇。ギリシャ語のパンは「全ての」、デモスは「人々」。パンデミックは「世界的な規模での大流行」。つまりパンデミック×"犯罪"を描いたわけだが、現代の日常の底にありそうな不気味さが通低音のように鳴り響く。
「違う羽の鳥」――大学を中退し、夜の街で客引きのバイトをしている及川優斗。大阪弁の女に声をかけられ、なんと中学時代に死んだはずの「井上なぎさ」と名乗る。過去の記憶と目の前の女の話に戸惑う優斗。「ほんまに親友やってん。何でも話せる同じ羽の似たもの同士。あの子は死にたくて、私は生き延びたかった、その違いだけ」と言うのだが・・・・・・。
「ロマンス」――4歳の娘を育てる百合は自転車に乗った「ミーツデリの配達員」に恋をする。以来ミーツデリを頼むのが日課になってしまう。夫は「お前はこんな出前なんかに無駄遣いしやがって」「わたしだって働きたかったのよ」・・・・・・。そして恐ろしい事件が・・・・・・。
「憐光」――今のあたしは「幽霊」、「15年前の豪雨で死んで身体は見つからないままだったけれど、松の木に願をかけてもらったおかげで、骨が発見された――らしい」――。親友の登島つばさと高二の時の担任・杉田先生が、遺骨が発見されたことで母親の元を訪ねてきた。つばさにも、杉田にも、そして母親にも恐ろしい秘密が隠されていた。
「特別縁故者」――。これはまた全く違う明るい良い話。「ご時世ってやつですよ。調理師専門学校出てからずーっと勤めていた店で人員整理くらって。人並みにできることなんて料理しかねーから何とか次を探すじゃないですか。そしたらまた緊急事態宣言だのまん防だのって切られることが続いて・・・・・・」――。調理師の職を失った恭一は、家に籠もりがち。そんなある日、小一の息子・隼が、近隣に住む一人暮らしの老人からもらったという聖徳太子の旧一万円札を持ってくる。翌日、恭一は得意のすまし汁を作って老人宅を訪ね、交流が始まる。いろいろな困った出来事や事件が発生して・・・・・・。今、身近なところでありがちな出来事だが、こんな良い話があればなと思う。
「祝福の歌」――。印刷工場に勤める達郎と高校教師の美津子の夫婦。高校生の娘の菜花が妊娠してしまいうろたえる。「娘は高校生で妊娠した。悪夢に悩まされるようになった。娘の彼氏がどうやら怖気づいた。母が階段から落ちた(あるいは突き落とされた)。そして今、齢50にして、出生の秘密らしきものを知ってしまった。考えることがありすぎて、頭の中はぐちゃぐちゃだが、そんな自分の傍に、妻と娘が当たり前にいてくれることが嬉しかった」・・・・・・。驚くべきどんでん返し、そして境地の転換。祝福の歌が響いてくる。
「さざなみドライブ」――年齢も、属性もばらばらな5人がツイッター上でつながり、一緒に自殺をすることになり集合する。人が来ない山中の林道を目指して走る車のトランクには、練炭と七輪が積んである。そして5人はそれぞれ何故に自殺をしようとするかを語り始めるのだ。「死に仲間」の条件は、「パンデミックに人生を壊された人」「ウィルスそのものにではなく、パンデミックとそれを取り巻く社会によって魂を殺されたという人」だった。その行く先には・・・・・・。
コロナ禍とネット社会などの生々しい現実が、巧妙に描き出される。
新牧口常三郎伝の「完結編」。「国家権力との壮絶な死闘、そして殉教」が副題。1937年(昭和12年)から1944年(昭和19年) 11月18日、東京拘置所で逝去するまでの激闘、崇高な生涯を描く。徹底した調査・ 研究しての力作で心に迫ってくる。
「1937年秋の幻の『創価教育学会発会式』」以降、個人人脈を広げることによる弘教拡大が北海道、九州を始めとして展開され、1939年12月、創価教育学会第一回総会が開かれる。自ら歩いて一人に会って折伏する、どこまでも一人一人を大切にする行動姿勢は凄まじい。心血を注いで完成した教育学の普及よりも、日蓮大聖人の仏法を流布することに奔走したのだ。しかし時代は軍国主義へ泥沼化し、宗教統制(宗教団体法施行=昭和15年4月)も進んでいく。その中で、牧口先生は大善生活法を訴え、滅私奉公の戦争政策を拒否する。天皇制ファシズムに対する驚くべき「非戦のデモンストレーション」まで行うのだ。「反戦」や「非戦」を表現せず、「大善生活法の実践」を表のテーマとしたのだ。「九州に弘教の旅、特高警察の監視下でも堂々と」――特高の前で、神主とヤクザ風の男の中でも堂々と弘教を行った姿が描かれるが凄い。
そして日米開戦――。座談会活動の重要性を徹底してまっすぐに進む。1942年(昭和17年)、「価値創造」の廃刊命令が下るが、牧口は怯まない、退かない。弘教拡大の波が増してゆく。1942年11月の教育学会第5回総会では会員数が4000人に達したと報告をされる。そうしたなかでの「総本山大石寺からの呼び出しと神札問題」。牧口は宗門に国家諫暁への行動を訴えていくのだ。
宗門が権力に下るなか、「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁の時ではないか。なにを恐れているのか知らん」・・・・・・。そして昭和18年7月6日、治安維持法違反、並びに神宮に対する不敬罪の容疑で逮捕される。会員も次々逮捕される。牧口先生は、その取り調べを国家諫暁の場とし、拷問や横暴な取り調べにも、一切屈しなかった。
牧口先生、戸田先生、池田先生に貫かれる師弟の死身弘法が心に迫ってくる。軍国主義の時代考証もしっかりされている熱量ある労作。
内舘牧子さんの「大相撲」「相撲道」への愛情は桁はずれだ。「土俵で相撲を取ったこともない女が」の噂を耳にした時は、「ここにいる男性委員も土俵で相撲とってませんよ、と言い返したのだから、それは嫌われる」と書いてある。完封勝利だ。私は大学の相撲部。相撲には相当詳しいが、内舘さんには全く及ばない。本書は、大相撲への愛情に満ちた専門書のような凄みがある。しかも「初恋の人が鏡里」と言うのだから。相撲部の経験では、とにかく立ち会いが怖いし難しい。ジャン・コクトーは「相撲の立ち会いはバランスの奇跡である」と言ったようだが、やる方から言えば立ち会いが勝負だ。本書にある「後の先」は、「相手が先に立ち上がった瞬間、一瞬遅れて立たった力士が、相手がつっかけて腰高になった瞬間、下からぶつかり主導権を握る」だと思う。足腰が強くなければできない技だ。
相撲は「相撲道」だ。「勝てば文句ねぇだろう」(朝青龍)は、スポーツではあっても相撲道ではない。「白鵬の我流に崩した土俵入り、立ち会いの張り手、『かちあげ』とはいえないプロレス技のエルボー、土俵上でのガッツポーズ、懸賞金の品のない受け取り方」には厳しい。横綱は香りと品格があって横綱だ。双葉山の「後の先」を目指していたのに残念だと言う。数学者で作家の藤原正彦氏が舛添要一都知事の辞任について語った言葉、「頭の良いはずの彼なのに、日本人の善悪が、合法か不法かでなく美醜、すなわちきれいか汚いかで決まることを知らなかった。嘘をつく、強欲、ずる賢い、卑怯、信頼を裏切る、利己的、無慈悲、さもしい、あさましい、ふてぶてしい、あつかましい、えげつない、せこい・・・・・・は、すべて汚いのだ」を内舘さんは引いている。禁じ手ではない、違法でもないが、汚い技は日本の道徳基準に合わない。これはまさに今年の「政治とカネ」を巡る政治家への批判の急所だろう。
もう一つ、「時代錯誤か伝統か?――女人禁制の不思議」の問題に徹底して踏み込んでいる。「『霊力を秘めている血』を体内から溢出する女が、男を脅かす存在になり得る危惧」「好奇の目にさらされた見せ物・女相撲」「女は穢れた存在か」・・・・・・。徹底して調査研究して、「土俵は結界である。結界内は聖域で障害物は入れない・・・・・・。祭祀でも芸能でも宗教でも何でも、長きにわたって死守してきた女人禁制をどうするか」「独自で決断することだが、そのかわり、協会も結界された『聖域』の重みをもっと理解する必要がある」と言う。
「勇み足、あごが上がる、懐が深い、家賃が高いなどの相撲由来の言葉」「雷電為右衛門」「理事長の割腹」「腕力に劣る双葉山の真骨頂、相撲力」「北の富士と貴ノ花、つき手か生き体か」・・・・・・。面白い話が山ほど出てくる。
「物理学者は世界をどう眺めているのか?」が副題。「個々の天体ではなく、宇宙そのものの起源と進化を研究するのが宇宙論」「常識を超えた宇宙の謎を物理学者がとことん真面目に考えた」――。難解極まりない世界を談論風発のごとくユーモアを交えて解説する。素晴らしいの一言。ありがたいと思えるほどの著作。
「宇宙は有限か無限か」――。「我々が現在観測できる宇宙(ユニバース)」と「観測できるかどうかに関係なくその外に広がっている宇宙(マルチバース)」の2つの異なる概念を区別すべき」「天文学者の宇宙は『現在観測できる領域の宇宙』を指しており、宇宙誕生以来138億年の間に光が進む距離が半径。光が進む速度が有限であることと、宇宙には始まりがあること。この2つの結果として、我々が観測できる宇宙の体積は有限となり、夜空を埋め尽くす星の数もまた有限となる。それこそが、夜空が暗い理由なのである」と言う。観測できる宇宙の有限性だ。「『宇宙は点から始まった。ビッグバンは爆発現象』は間違い。我々が現在観測できない宇宙(マルチバース=我々の宇宙は唯一ではなく他にも存在するたくさんの宇宙の中の1つに過ぎない)までを含めるならば、正しいとは言えない。その外にある宇宙が現在無限に広がっているとすれば、過去にさかのぼってもやはり無限に広がっているはずで、少なくとも我々が考えるような意味の点ではない。我々が現在観測できる半径138 億光年内の宇宙は、138億年前にはサイズが極めて小さい体積の、高温かつ高密度の状態にあった。しかし、宇宙全体は、その領域を超えてはるかに広がっており、無限の体積を持っていたと考えても、現在の観測事実とは矛盾しない」「4次元時空――曲がった3次元空間と時間を組み合わせた4次元時空(リーマン時空)がこの世界を記述する基礎だと考えるのが一般相対論。平坦な3次元空間と時間を組み合わせた4次元時空(ミンコフスキー時空)に基づいた理論が特殊相対論。高次元時空――超ひも理論では10次元空間に時間を加えた11次元時空が前提となっている」・・・・・・。
アインシュタインは1915年に一般相対論を発表。1919年、一般相対論が予言する「光の経路が重力の影響を受けて曲がる現象」を検証したアーサー・エディントンのアフリカでの日食観測の話はとても面白い。幸運な男アインシュタイン。すごい人は往々にして運に恵まれた男だ。
本書の話題はとにかく宇宙のように広がっていく。「世界の退屈さをなくす『対称性の自発的破れ』」「最小作用の原理的人生と微分方程式人生」「人生に悩んだらモンティ・ホール問題に学べ(3つのドア、どれを開けるか?)、簡単そうで全く直感に反する正解を持つモンティ・ホール問題の魅力」「青木まりこ現象(書店に行くたびに便意を催す)の謎の検証(仮説を比較し淘汰する)」「我々のユニバースと同じ宇宙が存在し得る理由。コピーはどこまで我々のユニバースと同じなのか? 自分のコピーがどこかに存在する?」「並行宇宙は存在するか?」「生物が存在しないロンリーユニバースも」「パラレル人間も、いつかは誕生する」「宇宙に、脳が突如発生するボルツマン脳の確率」・・・・・・。
マルチバース的世界観が、日常から量子、宇宙、そして小宇宙たる人間の心まで、縦横無尽に展開・開示され、心が広がる。