「父の遺言では無いのですけど、遺していたノートに書いてあったのです。我れ中国革命に関して成せるは孫文との盟約で成せるなり。これに関する日記、手紙など一切公言してはならず」「あなたは革命をなす。私は革命を養う」――中国の独立を目指す孫文、辛亥革命後も失脚の苦難の中にある孫文を支え続けた梅屋庄吉の姿を描く。梅屋庄吉、妻となる登米やトク、宮崎寅蔵、萱野長知、宋慶齢らを描くが、いずれも凄まじい。特に本書で印象的なのは、この女性3人と庄吉の母・ノブの凄さだ。庄吉、孫文、彼らを囲む女性たちの肚の決まり具合といい、スケールといい、破天荒ぶりといいケタはずれだ。
長崎の貿易商・梅屋商店の跡継ぎとして育った庄吉。逃げて渡った中国、香港で写真館を経営するが、そこで出会ったのが、清朝を打倒し、西洋の侵略から自立を目指す孫文。孫文の情熱にのめり込むように支援を誓った梅屋庄吉。次々とおそいかかる苦難をものともせず、写真から映画へ。日活の前身となるMパテー商会を創立し、黎明期の映画事業の大成功で得た資金で、革命を支援し続ける。その気迫と情熱は凄いものがある。また孫文が亡くなった1925年以降も、中国への日本の侵略が始まっていくなか、人脈を通じて戦争阻止に情熱を傾ける梅屋庄吉の姿が浮き彫りにされる。
孫文の三民主義と王道――。「衆生のために幸福を図ることだ。民族主義、民権主義、民生主義の三民主義と、立法、行政、司法の三権の分立とともに、官吏を選抜する考選権、行政を管理する糾察権を加えた五権分立によって、漢族4億人の最大の幸福を得る」「西洋の覇道に、東洋は王道を持って向き合うべし」「蜂起に十度失敗するほど革命に尽くし、10年以上も海外をめぐって共和制を訴えたものは他にいない。孫文こそが中国革命の理論家であり、体現者だった」・・・・・・。孫文が日本で行った最後の演説、「日本民族は、すでに一面欧米の覇道文化を取り入れるとともに、他面、アジアの王道文化の本質を持っている。今後日本が世界の文化に対し、西洋覇道の犬となるか、あるいは、東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべきことである」との情熱がほとばしる。民衆救済にかけた戦いの人生が心に迫ってくる。
当初は「日米関係史」を構想していたというが、ご両親の生い立ちから始める「自叙伝」となったという。あの戦争の終わった1945年生まれの私と同学年。自らの戦いの生き様を、なんとしてもこれだけは残し伝えようとした渾身の著作。2020年4月、亡くなる寸前まで手を入れていたという。同時代を生きてきただけに、その思いがストレートに伝わってくる。
「この本の執筆には明確な目的があった。自己の過去を振り返ることでもなく、ましてや自分がやってきたことを人々に理解してもらいたいということでもない。僕はいろいろな立場でアメリカと、特に安全保障に関わってきた。その姿が正しくアメリカに伝わっていないことに苛立ちを感じることが多かった。・・・・・・そして、日本側でわかってもらいたいこと、つまりこのような遅々とした進み方では日本は世界についていけない」と語り、日本がやってきた事は60点位だろうが、国際社会はせいぜい30点という不当な評価に過ぎないと怒る。日本の気迫なきリーダーにも、少しも前に進もうとしない官僚にも、「口先平和主義、超安全主義、人命を最高の価値となし硝煙を悪魔とみなす日本の独特の規範」の国民意識にも、どれだけ遮られてきたか。激動し漂流する世界のなかで、「ジャパン・ファースト主義」から「国際公共財を担う新たな国家」に転換せよと切々と訴える。
ご両親を語ることから始まるが、自叙伝のためではなく「父母たちの戦争」で731細菌部隊と父、日中戦争、ガダルカナルや沖縄戦での母の弟たちの死・・・・・・。まさにあの戦争が何であったかを生々しく語る。「日本人とアメリカ人」では、戦後鎌倉の家を借りて住んだ青春時代、そして外交官生活が始まり、1980年代の日米の摩擦、最強の外交官・牛場信彦との出会い。緊迫して激しい外交交渉の現場が語られる。目に浮かぶようなエネルギッシュで感受性豊かな我らの30代。そのような空気を想い起こす。
1985年、北米局の安全保障課長になる。もっとも活躍できる課長の時代。昼も夜もなく働いた。「武器輸出三原則」「核持ち込み疑惑」問題への苛立ちとともに「日米同盟の金字塔――米ソ中距離核(I NF)交渉」が語られる。そして湾岸危機だ。戦後平和主義に浸りきった日本は、金だけで済ませる国として屈辱的な外交敗北をする。国際安全保障に全く参画できない情けなさのなかで、中心にいた岡本さんは懸命にせめて物資支援をと奔走する。凄まじい戦いが行われ実行されるが、米国を始めとする国々に評価されるところまで至らなかった。その悔しさが溢れている。
外務省を辞めた岡本さんだが、2度にわたって首相補佐官になる。私には当然だ、活躍してもらえる、という記憶がある。ここでも岩盤にぶち当たる。「沖縄の普天間移設」「インド洋への給油、自衛隊のイラク派遣」問題だ。湾岸危機の時の悔しさを胸に走り回る。それも前線で。世界との落差を体を張って埋めようとする姿が迫ってくるが、それだけに同志として戦った奥イラク大使などの死は誰よりもこたえたことが書かれている。
「難しき隣人たち――日本外交の最大課題」として中国、韓国についても率直に述べる。そして「日本の行く末は心配である。日本はアジアの中ですら相対化され、影が薄くなりつつある。僕らは今、没落の始まりの時期にいるのかもしれない。だから、日本の若者にお願いしたい。君たちはどういう時に日本人であると自覚するのだろうか。君たちの価値観と行動力で、君たちが作って欲しい。誇りに満ちた国・日本を」と結ぶ。これは遺言だ。改めてご冥福をお祈りします。
新しい年を迎えました。昨年は、ロシアのウクライナ侵略、安倍元首相銃撃事件の衝撃があり、コロナ禍、円安・物価高など、大変な年でした。そのなかで、多くの方々にお世話になりました。心より感謝申し上げます。
本年は、日本にとって極めて重要な年だと思います。コロナ禍で苦しんだ3年を終え、日本の未来に向けて力強くダッシュする年だと思います。
人口減少・少子高齢社会、AI ・ロボット・ DX社会への急進展、気候変動のなか頻発・激甚化する災害への対応など、構造変化を見据えた骨太の対策に踏み出す時です。特に長期にわたる緩やかなデフレに陥ってきた経済を再建する。物価高に対し生活を守り、賃金を上げる戦いが大切になります。安全保障もエネルギー対策も未来を見据えた喫緊の課題となっており、災害ということでは、今年は関東大震災から100年の年です。
先送りや、対応型の政治ではなく、「腰を据えてやるべき事はやる」「政治は現実を直視した臨機応変の自在の知恵である」ことを肝に銘じ、今年も元気で頑張っていきたいと思います。
本年も何卒よろしくお願いいたします。本年が皆様にとって、良き1年でありますように、心よりお祈り申し上げます。
「劉秀が世の闇を払って昇った日であるとすれば、馬援は夜に輝く巨星であろう」「人々に好かれ、親しまれ、愛されるという点では、馬援は劉秀をしのいだといってよい」――。秦の始皇帝が天下統一を行った後、中国では天下王朝が続いた。200年以上続いた前漢王朝が乱れ、簒奪した王莽の新が改革に失敗、反乱が全土に及んだ一世紀初頭。光武帝劉秀は名将・呉漢らに支えられ後漢王朝建国に突き進む。一方、異なる地から這い上がり、後に劉秀と邂逅、信頼関係を結んだのが馬援であった。
馬援はいわゆる武将とは異なり、野心ではなく平等思想に立つ「徳の人」だ。人々に慕われ人に恵まれる。「牧場に着いて牛馬を見ると心がなごんだ。人間世界は、わずらわしいことが多い」「しかしながら、実力と徳を持った者が、この乱世を鎮めなければ、人々は逃げまどい、斃れるだけである」「人に礼儀を教え僭越を戒める儒教がかえって人をあつかましくさせたのか。馬援は強制する秩序を嫌い、権力には無関心である。巨大な富を築いたが富溢を嫌ったらしく、資産を使用人だけではなく、縁故にも分配した」「これほど世が紊れてくると、学識の博さや過去の官位の高さなどは、なんの役にも立たない。力の世界である。ただしその力は、武力だけを指してはいない。いわゆる徳の力をも指している」「自慢げにいわない、功を誇らないのが馬援の特徴である」・・・・・・。
皆、馬援から離れない。老耶、包淇、阿藤、范勝、毛恢、張辛と張庚の兄弟、梁芳、荀律、周芬・・・・・・。「王莽が、儒教を政治の根幹としたのはよいが、そこから派生したことは、制度の複雑さと分かりにくさである。――善い政治は、わかりやすい。それが古代以来の通義である」「学べば則ち固ならず――他人の言葉を借りて生きている限り、本当のおのれには出会えない」「君子豹変(豹柄のようにはっきり善に変わること)」・・・・・・。
「当今の世、独り君、臣を択ぶのみに非ず。臣も亦、君を択ぶ」は、馬援が初めて光武帝に謁見した時に述べた有名な言葉だ。「もともと儒教は最下級貴族という士に、礼楽を教えて、為政者の地位に押し上げようとしたもので、支配者の思想である。・・・・・・支配されるだけの民衆にこそ、時代の主権がある、と孟子が説いたことによって、革命が正当化された――民意にこそ天命がある。そういう思想である」・・・・・・。人間学が詰まっている。
