政治コラム 太田の政界ぶちかましCOLUMN

NO.8 社会と人間の劣化への反撃

2010年4月13日

「1900年台前半の50年は領土争覇の時代、後半50年は富の争覇の時代、21世紀はアイデンティ競争の時代だ」と松本健一氏はいう。21世紀が生命の世紀、人道の世紀といわれるゆえんだが、日本という国の形、日本人のアイデンティが問われている。宮台真司氏は「現代とは社会の底が抜けた時代」として日本の論点を示した。諸制度がことごとく劣化し、あわせて思考の粘着力を欠いた哲学の不在、人間の劣化が進んでいる。
  社会保障にしても、日本には見えざる社会保障がかつてはあった。家族が支え合い、地域が助け合い、そして企業もまた終身雇用のみならず社員の福利・厚生に心を及ぼした。しかし今、それは崩れ、さらに昨今の家族形態の激変、雇用形態の激NO.8 変のなかで追い討ちをかけられている。

社会もしっかりしていないが、人間もしっかりしていない。政治家もしっかりしていない。全てが薄っぺらで、ない、ないの悪循環だ。

ちょうど10年前の2000年、小渕首相は教育を建て直そうとして、教育改革国民会議(江崎玲於奈座長)を発足し、私は国会議員の3人のうちの1人として参加した。その冒頭、私は100年前の1900年前後の話をした。明治維新後、日本は欧米の文明を急速度に受容した。そうして30年、日本とは何か、日本人とは何か、文明と文化を受容しつつも知識人は悩み、問いかけ、世界へと発進した。それが新渡戸稲造の「武士道」(1899年)であり、内村鑑三の「代表的日本人」(1894年)であり、牧口常三郎の「人生地理学」(1903年)であり、岡倉天心の「茶の本」(1906年)だ。

人間は人と人との間に存在し、社会の中にある。郷土・地域の文化を呼吸し、歴史の重みを生命の中に背負いつつ永遠性と刹那の変化、常住と無常の十字路の瞬間、瞬間に生きる。

教育改革国民会議の議論の最後に、教育基本法改正の項目が入った。これを受けて「義務教育とは」「小、中、高、大学は何をするところか」「国を愛するとは」「地域の教育とは」「社会教育とは」「公と共の概念とは」・・・・・・。与党での3年にわたる議論を経て60年ぶりの改正となった。

ちなみに「国を愛する」という問題では「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という条文(第2条の5)となった。私は、国はネイション・ステーツという機構ではなく、カントリーという郷土、パトリを人は愛するのだと主張した。今、社会の劣化、人間の劣化、哲学不在の時代という現実のなかで、ポピュリズム政治がますます薄っぺらな社会を助長している。ビクトル・ユゴーは「海よりも壮大な眺めがある、それは大空である。大空よりも壮大な眺めがある。それは人間の魂の内部である」といった。教育は人の心を培い、鍛え、豊かにし、育むことだ。

そうした人間教育とともに、崩れてしまった地域社会の共同性をいかにして、どのようにして築いていくか――全ての基本はそこになる。国は戦乱や経済で亡びゆくものではない。人間の基本が崩れたときに亡びるとして、司馬遷は史記のなかで「本を失う」と表現している。

今、日本にはそうした本質に迫る危機感がない。

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