政治コラム 太田の政界ぶちかましCOLUMN

NO.42 "子ども"から"大人"の政治へ脱皮を 安全・安心の勢いのある国づくり!

2012年2月20日

政治の劣化、政治家の劣化がいわれる。危機感がない。責任感がない。言葉が軽い。「着眼大局、着手小局」とも「鳥の目と虫の目」ともいわれるが、全体観に立った総合的視点がなく、現場の悲鳴・苦労にも鈍い。国会論戦自体がイライラを怠起し、被災地などの現場では「遅い、にぶい、心がない」という政権批判が飛びかう。

「民の憂い募(つの)りて国滅ぶ」「信なくば立たず」「政は正なり」「綸言汗の如し」――人間の基本が崩れ、正しき道義たる政治の基本が崩れたら社会は混乱する。

民主党政権について「子どもの政治」「素人の政治」ということがいわれる。経験不足が許される段階はもうとっくに過ぎ去っている。

我の世界と我々の世界
子どもと大人は何が違うか。人は一人称の世界から二人称、三人称の世界へと進む。教育改革国民会議で主導的役割りを担った梶田叡一氏は「我の世界と我々の 世界」と述べ、「我の世界」を深めるとともに、「我々の世界」に生きる自覚と役割りを果たすなかに人生があると言われた。「我の世界」は深淵だ。カントは 「感歎と崇敬とを以って心を充たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳律である」と「実践理性批判」の結論の冒頭に書いている。 デカルトは「我思うゆえに我あり」といった。いわゆる"左"という人たちは教育について「人の心の中に踏み込むな」というが、教育とは一元的価値観を強要 するものでは勿論ないが、人の心を鍛え、豊かにし、育てる作業であり、だからこそそこに師弟がある。ユゴーは「海よりも広いものがある。それは大空であ る。大空よりも広いものがある。それは人間の心である」といっている。「我の世界」を深めることは不可欠だ。

政策通より政治通・人間通
問題は「我々の世界」に生きるという自覚だ。東洋思想では人間を「人と人の間、じんかん」とも言う。一人称の世界、我の世界にとどまる限り、子どもから大 人へは脱皮できない。人それぞれには歴史がある。異なる人間が、それぞれ生きてこの世はある。大人にはそれぞれ事情がある。相手のことが少しでもわかるよ うにならないと、政治はその役割りを果たせない、J・カーティス氏は「(日本では最近)政策通だと自慢してテクノクラートのような態度を取る。まさに政治 家の官僚化現象だ。今必要なのは、政策通よりも『政治通』である」といっている。人間通・現場通の政治ということではないか。

「信なくば立たず」――現場の声をずっと聞いて感ずることは、国政の論議と現場の悲鳴のズレだ。そして危機感と責任感の欠如だ。言葉は軽いし、約束した政策は次々と反古にする。信頼が得られるわけがない。

子どもの政治ではなく、大人の政治。一生懸命さが現場に伝わる政治。政治が壊れると人心が壊れる。真面目に頑張っている人が「もうやってられない」と気持 ちを投げてしまったとき、日本は本当に崩れる。私は「大衆とともに語り  大衆とともに戦い  大衆の中に死んでいく」との立党精神を胸に、「安全・安心の勢いのある国づくり」をめざしたい。

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