「日本人には創造性がないので、イノベーションには向いていない」というのは誤解。「問題は、個人の創造性ではなく、組織の創造性。組織が個人をダメにするのだ。日本人に創造性を発揮させたければ、個人を鍛えるよりも組織のあり様を変えなければだめだ」と言う。
「イノベーションは『新参者』から生まれる」――。「最終的に重要なのは『意見の多様性』であって『属性の多様性』ではない。性別や国籍などの『属性の多様性』がしっかりと『意見の多様性』につなげられるかどうかにかかっている」「上下間の風通しが大事。日本はそれが弱い」と指摘。1997年の大韓航空801便の悲劇が例示される。副操縦士より機長の方が事故率が高いという。上司に反対しにくい権力格差が大きい国・日本と言うわけだ。そして「日本人は『権威』と『リーダーシップ』を一体のものとして認識しまうという奇妙な性癖を持っている」ことを指摘し、「若造と新参者が大事」というわけだ。しかも今や10年前の業務知識や経験は、ほとんど価値がない。「日本で起こっているのは『スキルやノウハウの不良債権化』だ。このような時代においては、人は、常に知識を時代に合わせてアップデートし、自分の持っているスキルやノウハウの陳腐化を防ぐことが求められる」と言う。日本の組織風土を変えるしかないのだ。それには「聞き耳のリーダーシップ」「好奇心がエリートに勝つ(アムンセンとスコット)」などが示される。
「イノベーションの実現にあたり最適な決め方はない。重要なのは『決め方』ではなく『決め方の決め方』」と指摘。「ケネディの手痛いデビュー戦(グアテマラで訓練された亡命キューバ人をカストロ政権打倒に使う)」と、「その失敗を学習して、2年後にキューバ危機を乗り越えるケネディの決断(ケネディは出席せず、先制攻撃派と海上封鎖派に分ける真剣論議)」を紹介する。キューバ危機におけるケネディの決断について、ジャニスの提唱した「集団浅慮の4要因」に沿っての分析は極めて重要であり面白い。上下関係や忖度、閉鎖された論議の打破、専門家に論議を任せることの危険性等、キューバ危機においてのケネディの決断は、示唆に富んでいる。
「『その先』を示すのがリーダーの仕事」「共感を得るビジョンを打ち出せ」「過度に定量化されたビジョン(何年後はここまで達成する目標など)を設定するな」「納得できるHow――どのようにそれを実現するのかを示す」「名ばかりの管理職(ノイズ)のアドバイスは無視しろ」など、「イノベーティブな組織の作り方」を豊富な事例やデータを交えて解き明かす。
「2035年の中国はどうなるか」――。中国共産党が江沢民以来、国民との公約として掲げてきた「ニつの百年」。一つは中国共産党建党100年の2021年に「全面的な"小康社会"」を作り上げること。もう一つの百年目標は建国100年の2049年、「富強の民主的で、文明的な調和のとれた美しい、社会主義現代化を実現した強国」を作り上げることとしている。その「中国の夢」実現の中間点が2035年になる。習近平の中国はどう考えているか。国際社会はどう向き合っていったら良いのか――。中国を最もよく知る宮本雄二元中国大使が、毛沢東、鄧小平、江沢民・胡錦濤時代、そして習近平の今を歴史的経緯も含めて丁寧に分析する。
「中国といえば、共産党の一党支配による強権政治のイメージが強いが、かなり違う」「中国共産党は『国民』を恐れている」「ソ連・ロシアと違って、中国では、すべての王朝が農民蜂起により打倒されている。しかも儒学は民の声は天の声。天の声に従わなければ、天命が尽きると説く」「江沢民、胡錦濤の時代、集団指導制は確実に定着したが、その弱点もあらわとなった。胡錦濤は、江沢民に権力集中を邪魔され、やるべきこともやれずに、腐敗は蔓延し、弛緩した党・政府組織にしてしまった。そこで習近平は、反腐敗闘争、制度改革で権力を集中した」。しかし、2019年末からの新型コロナではゼロ・コロナ政策や国民生活に対する管理と締め付けの強化に対し、国民が強い不満を表明する。「豊かになるほど『管理』の難しさも増す」「国民が望んでいるのは、もう少し豊かで、もう少し自由のある社会の実現」「中国社会の中核をなす『義』という価値観」など、丁寧に指摘する。
2022年の党大会において「習近平思想」こそが、これまでの思想や理論を基礎に、新たに創り出された「新時代の中国の特色ある社会主義思想」であると位置づけられた。毛沢東思想及び鄧小平理論と並ぶ共産党の指導思想との位置づけだ。「政治とイデオロギーを重視すれば、経済は相対的に軽視される。政治と経済の矛盾という本質的問題」にぶつかるし、党の指導と組織の強化やナショナリズムの反映も、一直線でやれば反発や抵抗を呼び込むことになる。
「終章」の「2035年の中国」で「『中華民族の偉大な復興』で国民を引っ張っていけるのか」「軍事大国化路線は持続可能か」「対外関係の修正は可能か」「2035年の中国はどうなっているのだろうか」を論じ、「現行の国際秩序にとどまることの重要性」「米中関係は、中国経済と連動しており、経済の観点からも米中関係を上手にマネジメントする必要がある」「米中が軍事衝突し、全面的な経済のデカップリングとなれば、世界は破局に向かう。そうならないよう、最大限理性の力を発揮するべきだ」と中国の経済と外交の分野での調整が急務であると指摘している。そして、「日中が一時の感情に突き動かされるのではなく、冷静に相手を眺め、21世紀という時代に、何が護られるべきかを真剣に考え、行動することを念じて止まない。日本と中国の関係は、最後は国民同士が決める。中国もそうなのだ。国民同士の直接交流が広がっている。観光も、ビジネス交流も・・・・・・」と言っている。
「高瀬庄左衛門御留書」「黛家の兄弟」に続く「神山藩シリーズ」の最新作。若き町奉行となった18歳の草壁総次郎。名判官と評判を得た祖父・左太夫、そして父・藤右衛門と続く草壁家は町奉行を家職としている。しかし、総次郎に家督・お役目相続が赦されると、父・藤右衛門は突如として失踪する。「とうとうやりよったか」――。実は祖父・左太夫と藤右衛門は、顔を合わせるのが億劫で、「倅とはどうしてよいかわからなかった」。縺れるほどの糸があったのだ。男の親子は昔からどうもそういうことがあるようだ。そのなかでの突然の失踪。準備もなく町奉行となった総次郎は、「おのれの差配ひとつで誰かが罪を負う」重圧に突如放り込まれ、戸惑う日々となる。
そんななか、藩の草創期から続く廻船問屋で神山城下屈指の大店・信濃屋の三番番頭・彦五郎が刺殺され、直後にその妻も殺されるという事件が起きる。「この事件の裏には何があるのか」「藤右衛門はなぜ失踪したのか、事件の真相と関係があるのか」――どうもまもなく入港する北前船、筆頭家老、信濃屋、そして藤右衛門失踪に関係が・・・・・・。
毎日暇を持て余す隠居後の屈託を抱えつつ若さにあふれる総次郎を眩しく見ていた左太夫だが、「隠居の身」として、自己を制しつつ孫を助けようとする。「お祖父さまに、はやく助けを求めればよかった」「うなずき返した左太夫は、うつむいたままの孫へ、おもむろに手を差し出した」・・・・・・。
いつの世も、男親と息子の関係はぎこちなく言葉が少ない。オイディプス・コンプレックスもある。しかし人一倍溢れる愛情があるのも事実だ。その心情が合流して事件解決へ進んでいく。静謐でありながら、それゆえに濃厚な時間が丁寧に描かれる。心に迫るものがある。
あの素晴らしい番組「100分d e名著」(NHK Eテレ)のプロデューサーが、「なぜこの本を選んだか」「なぜこの講師を招いたのか」を語る。著者が9年にわたる激闘の中で感じたのは、現代社会の迷妄を鋭くつく「名著の予知能力」。カミュの「ぺスト」は、まさにそれだ。歴史を動かす人間存在の本質を抉り出すからこそ、現代に蘇る。「名著は、歴史の風雪に耐えて読み継がれてきたからこそ、今に残っている存在だ・・・・・・ということをいろいろな機会を通して私は語ってきた。そうだとするならば、現在、こうした名著を読み継ぐという営為が人々によってなされなければ、名著は途絶えてしまうことになる。この事実を、ディストピア小説として、見事に表現したのが、この本でも取り上げた『華氏451度』(本を焼き払う仕事をするファイアマン)である」と言う。
名著をわかりやすく解説するのではない。名著を挟んで、その道の第一人者と伊集院光さんが質問、対話をする中で、化学反応が起きる。現代社会に名著が生き生きと蘇る。それが「100分de名著」というわけだ。「ハムレット」で、「講師が青ざめるとき――伊集院光さんが放つコメントの衝撃」は、いきなり放たれたカウンターパンチだ。メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」は、科学によって創造された「怪物」は、やがて人類に復讐を誓い圧倒的な力で殺戮を開始する話だ。マルクスの「資本論」では、現代における「コモン」を再考する。モンゴメリの「赤毛のアン」では、少女だけが読むのはもったいないとし、「多様性へ開かれた豊かな人生」を考える。「河合隼雄の幸福論」では、「幸福ということが、どれほど素晴らしく、あるいは輝かしく見えるとしても、それが深い悲しみによって支えられていない限り、浮ついたものでしかない」を紹介している。確かにそうだ、安部公房の「砂の女」は、コロナ禍で直面した「自由」の問題を考察する。
「全体主義に抗して」の章では、ハンナ・アーレントの「全体主義の起原」、オルテガの「大衆の反逆」、三木清の「人生論ノート」などを取り上げ、「熱狂に巻き込まれない『知性の砦』を築く」ことの重要性を解説する。
最近はコスパ、タイパ加速化の時代。省略、要約で「読んだ気」先行の時代だからこそ、原作の豊かさ、力強さを再発見する「名著の蘇生」が大事だと強調している。その通りだと思う。「時代を見つめるレンズの解像度を上げる」の章では、フランツ・ファノンの「黒い肌・白い仮面」、カミュの「ぺスト」、スピノザの「エチカ」、ボーヴォワールの「老い」を取り上げる。「新自由主義的思考」や「若さ至上主義(生産性重視)」への対抗を鮮やかに示す。
最後のところで、「メディアの足元を見つめ直す」「名著の未来」を扱っている。アレクシエーヴィチの「戦争は女の顔をしていない」は、小さな声を徹底的に拾っている。アーヴィング・ジャニスの「集団浅慮」での「キューバ危機でのケネディの行なった判断」「戦争への最大の抑止力は『教養』」は衝撃的だ。
中身は極めて深くて大きい。