27日、日本旅行業協会(会長=坂巻伸昭・東武トップツアーズ 代表取締役社長執行役員)との懇談会に出席しました。これには、伊藤渉財務副大臣、佐藤英道衆院議員などが出席しました。
同協会からは、コロナ禍による影響・現状などを聞くとともに、「雇用調整助成金の更なる延長」「地域観光復活のための支援拡大」「デジタルパスポートの導入」などについて強い要望を受けました。
私は「旅行業界は未曾有の危機に直面している。事業規模の大小にかかわらず、国の全面的な支援、バックアップをやらなくてはならない。また、ワクチン接種、パスポートなど一刻も早く陣形を整えて、少しでも安心感を与えていかなくてはならない」と挨拶しました。
3日間で10万人もの人が集う大規模なアニメコンベンション――。突然、一人の男が火炎瓶を次々に投げ、8名が死亡し重軽傷30数名という無差別大量殺人事件が発生した。犯人・斎木均は現場で焼身自殺。マスコミは少年期に受けた"いじめ"を機に小・中・高と学校に行けず、就職もままならなくなった斎木の転落の半生を容赦なく暴き続けた。一流銀行に勤務し、幸せな家庭を築いていた安達周は、この犯人の名に驚愕する。じつは"いじめ"の発端となる"斎木菌(細菌)"呼ばわりの"あだ名"を付けたのが安達だったのだ。斎木の人生を狂わせた罪の意識に苛まれ、ネットで報じられることへの怯えで、安達はパニック障害を起こし会社を休職する。なぜ斎木は無差別大量殺人事件を起こしたのか。斎木は何に怒ったのか。「社会に対する恨み」と決めつけていいものなのか。安達は、動機・真実に迫ろうと苦しみもがく。「悪の芽」は一体どこで生じたのか。
"いじめ"はいじめた方も生涯、心に傷を負う。"ネット社会"の悪口は、人の人生を根っこから崩壊させることがある。「こうなったのは全部、社会が悪い、他人が悪いというのは努力が足りない人間のいうことだ」というのは、弱肉強食の理屈ではないか。斎木は懸命に働き、心を通わせた"キャバ嬢"に「人間はまだ進化が充分じゃないんだ。・・・・・・見下したり、攻撃したり、人間はおかしな生き物ですよ。ネットでの悪口だけでなく、キャバ嬢とか風俗嬢を見下してるから、それで萌愛のために寄付する気がなくなったんでしょ。立派な生き物の振りして生きている人も、ホントは他人を見下す気持ちを心の中に持っているんです。人間がもっともっと進化して、みんなが優しい生き物になってたら萌愛はきっと死なずに済んだんです」と語り合ったという。人間であることの放棄、優しい生物になれない人間への絶望。世界にも、人間にも、自分にも、もういいやって思ってしまう絶望。「人間はなぜ、自分の周囲に向ける分しか優しさを持っていないのだろうか」と問いかける。無差別大量殺人事件まで至らなくても、現代のありうる問題を剔抉する傑作。
東北中央自動車道の相馬―福島間(45.7キロ)が24日、全線開通しました。福島市から相馬市へ行くには、阿武隈山脈越えのため、大変な時間がかかっておりましたが、これで大きく短縮されます。福島支援の復興支援道路です。
24日は赤羽国交大臣が、霊山―伊達桑折間の開通式典に参加しましたが、ここは、私が国交大臣の時に着工したものです。8年で完成するという類例のないスピードでの全線開通です。
開通により、沿岸部を通る常磐自動車道と内陸部を走る東北自動車道がつながりました。立谷秀清・相馬市長から、「郡山からも米沢からも相馬の方へ一気に人流・物流が増えることになります」と、感謝と喜びの電話がありました。
大変嬉しい相馬―福島間の全通です。
「関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日)」を一次史料を駆使して新進気鋭の執筆陣が最新の研究成果を示す。すると、「家康の小山評定」や「小早川秀秋への問鉄砲」などが、どうも怪しいことがわかる。歴史文書を残すということが、自らの人生や一族にとって不利か有利か、二次資料等は"勝者の歴史"となりがちだということだ。歴史研究はそうしたこともあって難しいし、面白いといえるだろう。
徳川家康(水野伍貴著)、上杉景勝(本間宏)、伊達政宗(佐藤貴浩)、最上義光(菅原義勝)、毛利輝元(浅野友輔)、石田三成(太田浩司)、宇喜多秀家(大西泰正)、大谷吉継(外岡慎一郎)、前田利長(大西泰正)、長宗我部盛親(中脇聖)、鍋島直茂(中西豪)、小早川秀秋・黒田長政・福島正則(渡邊大門)、そして「関ヶ原の戦いの従来のイメージの打破」「近衛前久書状」について白峰旬氏。14武将が描かれる。「関ヶ原」については、越後から会津へ移封された上杉景勝に対して最上・伊達との"北の関ヶ原"である「慶長出羽合戦」があること、そして家康と西軍の三成、大谷吉継、さらに宇喜多秀家、長宗我部盛親は勝敗がはっきりしているが、他の武将も関ヶ原の後、大変な激震に見舞われたことがよくわかる。「東軍が最終的に勝利をつかんだのは、小早川秀秋、黒田長政、福島正則の力なくして語れない。しかし、その後の命運は大きく違ったのである」と結ばれているが、小早川秀秋などは1602年には"酒の飲みすぎ"で20才で死亡している。
「豊臣七将による三成襲撃事件も一次史料にはない」「小山評定における福島正則の大演説は作り話」「石田三成と大谷吉継の"友情物語"は根拠がない」「小早川秀秋への"問鉄砲"はフィクション」「直江状はあったが"家康への挑戦状"と評される内容ではなかった」「政宗は秀吉への思いをもちつつ、家康の時代を認めた」「輝元は"お飾り"にはほど遠い独自の思惑で戦いに加担する"野心家"だった」「三成は福島正則が味方すると想定したことが誤算で敗因」「鍋島直茂の処世術」「抜け駆けを許した正則(井伊直政、松平忠吉)」・・・・・・。
イメージが先行、定着している「関ヶ原の戦い」も、史料に即してみると今も動いている。