「日本は1995年をターニングポイントして世界から劣後・衰退している」「日本再興のためには、日本とは、日本人とは何者であるかを、しっかり認識する所から始めよう。リアリズムを取り戻そう」「それには、日本国土の自然・地理的条件、そこから生まれた日本特有の歴史観、死生観、感覚と思考形態を『国土学』から解き明かそう」「浮き彫りにされるのは、大量の紛争死を繰り返し経験してきたユーラシア人の『紛争死史観』と、紛争ではなく地震・津波・風水害等の大災害で命を失ってきた日本人の『災害死史観』の根源的ともいえる大きな違いだ」と、広範な具体例を引きつつ毅然と論述する。副題は「紛争死史観と災害死史観の視点から」で、我々の世代が共有する「後の世代にいい日本を残したい。日本再興」の願いがある。
「ユーラシアの『紛争死史観』と日本の『災害死史観』」――。「日本の国土条件の9の特徴」「繰り返し起こる集中的災害」は、いかに日本が災害列島であるかを鮮明にする。とくに日本の国歌「君が代」と欧米の"戦闘的な国歌"の違い、都市城壁・秩序感覚・宗教観と虐殺の規模、死の受容の仕方。さらには「駅伝」「土地所有概念」など日本と欧米の相違が明示される。
「世界と異なる日本人の感覚と思考」――。「顔見知り仲間の民族」「ドアに見る安全保障概念」「小集落民と峠(結界)」「自然災害のため長期的戦略思考にならない」「我々の思考欠陥は、仕組み・ルール・やり方を変えられないこと」等を指摘する。とくに「情報収集は死活問題であるユーラシア人に比べ、メディア情報へ依存する日本人」「ユーラシア人の"積み重なる過去"と日本人の"流される過去"」が語られる。「言語感覚と日本語の乱れ」に論及、「言葉の大切さへの理解は、グローバル人材として絶対的な条件」「後継者の条件とは、大きなビジョンを持って、人を奮い立たせられるか、そのための言葉を持っているかということ(鈴木貴子エステー社長)」等をあげる。言葉が軽くなっている政治家の心すべきことだ。
「国土学が問う現代日本の危機と再出発の道」――。「1995年というターニングポイント」「誤りの財政破綻論」に触れ、「リアリズムを失った時に国は滅ぶ」ことを例示する。
世界のなかで生き抜くためには、「思考が流され」「長期的戦略思考ができない」「ルールを変えづらい」「情緒的で科学的思考をすぐ放棄する」等の日本人の弱点をよく見詰めて克服し、自然と人間の共生、平和思考、駅伝等の結束の力をもつ日本人、異文化を取り込む、吸収し応用する力をもつ日本人の力を、今こそ鍛え、発揮しようという声が本書から聞こえる。日本再興へ。大変分かりやすいが、骨太の優れた著作。
2月28日、東京北区のUR神谷掘公園ハイツに備蓄倉庫が完成。岡本みつなり衆院議員、古田しのぶ区議会議員らと視察しました。
この地域は北区のハザードマップによると、水害時に最大3階下の5メートルまで浸水の危険性があります。この倉庫は12階につくったもので、非常用電源、赤ちゃんのオムツ、マスク、体温計、タオルなど災害時に必要な多くのものを収納することができます。
一昨年10月の東日本豪雨では、荒川、隅田川の水位が大変上がって緊迫した状況でした。私は「集会所や防災倉庫の多くが1階にあるため、浸水時には使えなくなる。ハザードマップの水位の上に集会所や防災倉庫をできるだけつくる体制を」とURや都営団地に提唱してきました。これを受けての第一歩が、今回のハザードマップの水位の上につくった防災倉庫です。
これをきっかけに、災害・浸水に備えていく公営住宅にするようさらに頑張ります。
両親が弟を溺愛し、母の連れ子である自分には食べものを満足にくれず、殴られ続けた女性・三島貴瑚。その義父が介護となれば全ての世話を押しつけられ「こいつが病気になればよかった。こいつが死ねばいいのに・・・・・・!」と母から罵られた貴瑚。その地獄から救い出してくれた親友の牧岡美晴とアンさん(岡田安吾)。抜け出して大分県の小さな海辺の町に来た貴瑚は、母に虐待され言葉まで失った「ムシ」と呼ばれていた少年・愛(いとし)と出会う。虐待され、凄絶な辛い過去を背負い、愛された記憶もない二人の魂は邂逅し共鳴していく。
生きることが苦しい貴瑚らの心に沈潜する「奥底の寂しさ」が、息苦しいほどに伝わってくる。そこに手を差し延べるアンさんや美晴の力、一條の光なくして、人は生きていけないことが追い込まれるように描写される。「魂の番(つがい)って知ってる? ひとには魂の番がいるんだって。愛を注ぎ注がれるような、たったひとりの魂の番のようなひと。あんたにも、絶対いるんだ。あんたがその魂の番に出会うまで、わたしが守ってあげる」――。アンさんが貴瑚に、貴瑚が言葉がしゃべれないゆえに52と呼ぶ愛に「魂の番」を語るのだ。
52ヘルツのクジラ。普通のクジラと声の高さ、周波数が全く違う52ヘルツで鳴くクジラ(普通は10~39ヘルツだという)。世界で一頭だけの最も孤独なクジラ。その声は広大な海で確かに響いているのに、受け止める仲間はどこにもいない。誰にも届かない歌声をあげ続けているクジラは、存在こそ発見されているけれど、実際の姿は今も確認されていないという。「本当はたくさんの仲間がいるのに、何も届かない。何も届けられない。それはどれだけ、孤独だろう」・・・・・・。
JR埼京線北赤羽駅赤羽口にエレベーターーー。2月28日、待望のエレベーターか運用開始となり、岡本みつなり衆院議員、大松あきら都議会議員、近藤光則区議会議員とともに視察をしました。
JR北赤羽駅は浮間口にエレベーターが設置されておりましたが、同駅の構造が特殊。駅の真下に新河岸川が流れており、反対側の浮間口までは約300メートルの距離。「高齢者や障がい者、小さなお子様連れの方々が大変に困っている」と10年以上前から強い要望をいただいていました。
しかし、「1つの駅にはエレベーターが1つ」との原則でこれまで難航してきましたが、国や区、JR等の関係者と連携を取り続けてきた結果、今回の実現にいたりました。この日も多くの方から喜びの声を聞きました。
これからも皆が移動しやすいバリアフリーのまちづくりを推進していきます。
「日本人の<心>をみつめて」が副題。ラフカディオ・ハーンがこれほど日本と日本人、日本文化を深く理解していたのか、驚嘆する。ハーンは1850年にアイルランド系英国人の軍医を父に、英国軍が駐屯していたギリシャの島の娘を母に、ギリシャで生まれ、アイルランドの親戚のもとで子供時代を過ごす。来日したのは39歳の時、松江に英語教師として赴任、「知られぬ日本の面影」を著わしたのが1894年。1904年、東京の西大久保の家で没した。1894年とは内村鑑三が「代表的日本人」を著し、1900年には新渡戸稲造の「武士道」、岡倉天心の「茶の本」は1906年だ。この1900年前後、欧米の近代文明を受容し翻弄された日本のなかで、「日本人とは何か」を問いかけようとした人々の営みが噴出し、外国へも「日本人」を発信しようとした時だ。幾多の来日外国人の日本人論のなかで、最も優れた観察力と深い共感の眼差しをもった人物としてハーンを描く牧野さんの洞察に感銘した。
異文化・日本を訪れ、街の清潔さや勤勉さを賞讃した訪日外国人は何人もいた。しかし、その人達も「西洋」を絶対の視座としてキリスト教の絶対神と文明の優越性により、日本の後進性を観ることを拭い去ることができなかった。祖先崇拝や自然崇拝を観て日本の宗教哲学がいかに空虚なものであるかと蔑視する者も多かった。日本人自体が「西洋」のダイナミズムを羨望のなかに受容したことからいって、当然といってよいだろう。しかし、ハーンは日本の風物や文化、民俗、信仰心、宗教的感性、自然観、死生観等々、まさに「日本人の<心>」を見つめたのだ。生まれも育ちも松江も辺境であったこともあったであろう。牧野さんは、それを浮き彫りにしつつ、さらに「ラフカディオ・ハーンが見た寺と神社の風景」「神社空間のダイナミズム(魂のゆくえ・風・里山の風景)」「福井の朝のグリフィスと松江の朝のハーン(宗教と生活。宗教という魂の領域と人々の日々の生活の情景の結び付きを見た)」「棚田の風景――グリフィスの民話集のなかの2つ『蛍姫の求婚者』『雷の子』(蛍の美しさと雷神の贈り物を把える感性、人と自然の照応)」など日本人の精神的基底部へと掘り進めて論述する。
そして「ハーンと日本近代」を、「柳田國男の『遠野物語』(怪異譚の再話と民族学)」「柳宗悦の民藝運動(朝鮮文化の自立性の擁護)」「芥川龍之介の『南京の基督』」「『雪女』の"伝承"をめぐって」などで掘り下げる。「この世と異界をつなぐ」「心の闇の深さ」を多重的に表現する"怪談"は民俗の本質に迫るものであること、李朝白磁の美が悲哀や苦悩ゆえに醸し出される神々しさであること、「日本人の微笑」が苦悩・悲哀・死・抑圧・受け身・被支配・自己否定の美的昇華などの要素が不可分の関係でつきまとうといえることなどの分析は圧巻ともいえる。西洋的近代の視座から批判される「日本人の個性の欠如」は、意識的かつ自発的な自己抑制の精神によって規制されたものであり、ハーンは「古き日本の文明は、西洋文明に物質面で遅れをとっていたその分だけ、道徳面においては西洋文明より進んでいたのだ」と結論づけているという。
さらにイザベラ・バードの「日本奥地紀行」、キャサリン・サンソムの見聞記「東京暮らし」や回想録「ジョージ・サンソン卿と日本」、林芙美子の「浮雲」などを比較しつつ、山・樹林・雨という自然のサイクルのなかで昇華される日本古来の宗教的感性・伝統慣習と近代合理主義との軋みを剔抉する。日本文化が優れているとただ単に言っている訳ではない。走ってばかりの今の社会――「日本人とは何か」を常に問いつつ、「国や民族、文化の違いを越えたところにある普遍的かつ根源的な人間の心」に迫ろうとする営為が大切なことを、ハーンを通じて問いかけていると思う。