18日、北区志茂にある国土交通省荒川河川下流工事事務所で行われた「第22回日本水大賞」の表彰式に参加し挨拶しました。
これは、「北区・子どもの水辺協議会(石渡良憲代表)」や「北区水辺の会(柳澤耕太郎代表、太田桐正吾参与)」が長年取り組んできた荒川下流・岩淵のワンド(本流とつながり池のようになっている地形の場所)の整備・保全・活用の取り組みが高く評価され、日本水大賞の「審査員特別賞」を受賞となったもの。
「日本水大賞」は、日頃から健全な水循環のために活動している団体、学校、企業を表彰するものです。本来は、国全体として盛大に行われる表彰式ですが、新型コロナウイルスの影響の為、規模を縮小して各部門ごとの表彰式となりました。
平成13年に市民による「北区水辺の会」が設立され、 私もワンド(大池・小池)のスタート時から何度も足を運んできました。協議会の底泥改善作業や清掃などの大変な活動が続けられ、近隣の小学校の魚とり総合学習、区民の水辺交流、中央大学の水質調査などのフィールドワーク活動、国・区・市民の協働による水辺の生物などの視察会などが広範に行われています。この日の受賞式で私は、整備活動をしてきた協議会の方々への感謝を述べるとともに、豪雨が多いなか、「防災・減災」「水辺空間の共生」「水との交わり」の大切さを短く話しました。見えない所で黙々と頑張って下さっている協議会等の皆様、本当に有難うございます。
松永弾正久秀(1508年~1577年)、大和国の戦国大名――。「将軍・足利義輝殺害」「仕えた主家殺し」「奈良東大寺の大仏殿焼き払い」という人がなせぬ大悪を三つもやってのけたといわれる戦国の梟雄。信長に二度従い、二度謀反した稀代の極悪人ともいわれる男だ。その松永弾正久秀とは何者だったのか。
天正5年(1577年)、天下統一に突き進む信長の下に「松永弾正謀叛」の報せが入る。二度目の謀叛という信じ難い報せに、信長は少しも慌てず怒りも見せず、笑みまで浮かべたという。そして信長は小姓・狩野又九郎に、久秀本人から聞いた九兵衛と呼ばれた幼き頃よりの壮絶な人生を語り始めたのだ。
この世に放り出された孤児。幼き子ども同士の結合。主君・三好元長との出会い。そこで聞いた高邁な志「あるべき者の手に政を戻し、二度と修羅が現われぬ世を創るのだ。民が政治を執る」「堺の自治。人間の国を取り戻す」「戦が無くなり、武士を悉く消し去る」――。噂話の軽薄さで動かされていく世間。神や仏のエセ権威に逃げ込む人間の浅はかさ。「永禄の変の将軍義輝殺害の後に信長がもらった弾正からの初の書状――。信長はいう『思わず笑ってしまった。嬉しくてな。』『世に神はいない。当然仏もいない。それらは人が己の弱さを隠すため生み出したまやかしである。神仏がいないのに、どうして人に過ぎぬ将軍如きに阿らねばならない。将軍の権威なるものもまた、人が生み出した紛い物だと存ずる・・・・・・』という書状だった」・・・・・・。
悪名の噂が支配する理不尽な世間。それが人と人とが織りなす「人間(じんかん)」のこの世だ。久秀は弁明する道も迎合する道もとらなかった。"夢を追う道""己に正直である道"を選んだのだ。「人は己の一生に正直になればよい」「俺はつくづく人の縁に恵まれた男よ」と思ったのだ。自分を悪者にしても、恩を受けた三好家を守り、助けてくれた良縁の人々を助け、民を思い民を信じ、その正義を貫こうと思ったのだ。戦国の確執の二次元平面ではなく、時代を超えた異次元たる出世間の境地から戦国の黎明期を疾駆した。信長との共鳴盤が鳴らないわけがない。そんな松永弾正久秀が活写される。面白い。
小さな政府、規制緩和、市場原理の活用、官から民・・・・・・。フリードマン、レーガン、サッチャーから小泉政権・・・・・・。世界を席巻した新自由主義とはいったい何か、なぜ影響力をもったかを、この40年の歴史的事実を検証し、剔抉する。「経済的に自由になれば、必ず政治や市民の自由が生み出されるとまではフリードマンはいっていない」とか、「新自由主義とグローバリゼーションを僕たちは同じ意味のように使いがちだが、両者は同じではなく、むしろ所得の格差を拡大させた犯人は後者である可能性もある」など、分析はきわめて冷静で詳細。かつまた、80年代のレーガンの米国、サッチャーの英国の事情、日米の激しい貿易摩擦、米国からの厳しい内需拡大要求、行革や財政健全化への政官財と民意、ITの急進展・・・・・・。世界の全方位の動向のなかで、まとめてみると新自由主義と呼ばれるものの潮流が巻き起こっていたことが描き出される。新自由主義というイデオロギーが歴史を動かし、世界を染め上げたというのではないことがわかる。「レッテル貼りとしての新自由主義」「新自由主義へ舵を切れ!」「アメリカの圧力、日本の思惑」「新自由主義の何が問題なのか?」「『経済』を誤解した新自由主義の人びと」の各章で「新自由主義の抱え込んだ矛盾、再考」への思考が語られ、きわめて明解。しかも眼は、だからこそ「経済・財政・社会をどうするか」に注がれる。
「経済をつくりかえるためのポイントは、人びとが生きる、くらすための共通のニーズを満たしあう、『人間の顔をした財政改革』を『欲望の経済』に対峙させることである」と、「頼りあえる社会」への道筋を示す。「財政危機というおどし文句」「小さな政府が経済成長を生むという呪文」「社会的弱者は既得権者との怒り」「ムダ遣いへの犯人さがし、袋だたき政治」「所得制限が生む不公正さと社会の分断」を越えて、「みんなの必要をみんなで満たしあうという財政の保障原理に立つ」「財政とは、互酬や再分配を受け持つ社会の共同事業」「税という痛みの分かち合い」「国家は必要悪ではなく、必要である」とし、「税を財源として、すべての人びとに、教育、医療、介護、子育て、障がい者福祉といった『ベーシック・サービス』を提供する」ことを提案する。「くらしを保障しあう社会とは、じつは人間の尊厳を公正にする社会」「社会全体の幸福と個人の幸福の一致こそが、『頼り合う社会』のめざすゴール」という。「大きな政府」「消費税16%」は「財政」や「お金」の問題ではなく、「人間の尊厳」「"縮減の世紀"は人道の21世紀に」という哲学に立脚する。それゆえ「MMT」や「ベーシック・インカム」も切る。「BIではなく、ベーシック・サービス」だ。「経済への依存」「苦痛に満ちた労働」「かせぐ人とはたらく人(専業主婦も)の距離」「終わりの見えない就労」「奪われた自由」――そうした生きづらさに覆われた社会を変えよう、と主張している。
コロナについては語っていないが、「人間と自然」「人間とは何か」「人間の危機」「文明と人間の幸福」等について、根源から問いかける対談。重要で面白くて深い。「もとより虫屋とサル屋。人間を外から眺める視点が一致した」「暮らしを支えている自然を読み解く能力を鍛えるきわめて特殊な体験を積み重ねてきたことになる」「最近、人間のやっていることは、優劣をつけたがって競争ばかりしている。人と付き合えなくなって引きこもる。仲間と違うことを前提に共鳴しあうのが幸福だと思えるのに、争い合いながら均質化の道を歩んでいる。それは人類が歩んできた進化の道から逸脱し始めているのではないか」「人間以外の自然とも感動を分かち合う生き方を求めていけば、崩壊の危機にある地球も、ディストピアに陥りかけている人類も救うことができる」と山極氏はいう。
人間を外から眺める二人からすれば、どうも今の"人間は変だ""逸脱している"ということが見えている。「微生物も虫と人間も共鳴している。生命の世界は共鳴する世界だ」「私たちが失ったもの――道路の拡張、海岸線の破壊。サルもシカも身近に姿を現わす異変が急増している。東のサルと西のサルのように列島構造線で切れている。房総半島のサルは形態的にも遺伝的にも違う」「コミュニケーション――自然との会話ができなくなった(言葉を持つ以前の人間はもっと生物とコミュニケーションをしていた)」「情報化の起源――言葉、交換。言葉が『蓄積する文化』をつくった」「森の教室――危ない世界を身体で学ぶ、"論理vs感覚"の衝突、倫理というのは論理ではない」「生き物のかたち――オスは選ばれる性でメスは選ぶ性」「日本人の情緒――カルテのような情報化が進むが現物は違う、システムがあって現物がなくなる。理性的な社会をつくろうとして妙な社会ができちゃった」「微小な世界――ヒゲのなくなった人間、動物はいろんな音を聞いたり察知している」「価値観を変える――感じない人を大量生産している日本社会、受動的人間になっている。好奇心があってこそ人間の面白さ」・・・・・・。
そして「人間の身体が幸福に暮らせる環境というのは地球の環境だ。しかし人間は地球を使い捨てにしている」「こぼれ落ちていくものほど価値があり面白い(虫も)」「人間どうしのつながりには常に自然が介在していた(季節の移り変わりと生老病死、衣食住)」「人と人はヴァーチャルにはつながれない」「安全は科学技術でつくれるが、安心は人が与える。人への信頼、自然への信頼が大切」といい、自然と人間とも感動を分かち合う生き方を求めていこう、という。