仮想的有能感という概念を提示している。「現代に生きる人々は"怒り"の感情が生起しやすいことと同時に、仮想的有能感という心性を獲得してしまった」という。自己愛的有能感と自尊感情と仮想的有能感の違いと関係性が示されるが、現代人には「自信のなさ」「不安」「関心は他ではなく自分にあり、社会や他者への関心は薄く、友人が自分をどう見ているかについて意識過剰となる」「人間は本来、常に自分を高く評価していたい動物だが、意欲がなく、下方比較で安心する」
「安易な自己肯定」「自尊感情が傷つけられた怒り」――などがあると指摘する。
なぜそうなっているのか。「貧しさから豊かさへ」「権威主義から民主主義へ」「宗教の衰退」「集団主義から個人主義へ」、そして「新たな電子機器でパワーを獲得できている」「マスメディアの発達」「個人主義が先鋭化」「テレビなどのお笑い番組のように人を軽く扱う風潮」を指摘する。
そのとおりだと思うが、問題はどうするかである。
「宗教と道徳――思うままに」(2002年8月)が文庫本としてこのほど出された。その時に読む感銘もあるが、後に読んでなお、臨場感があるのはすばらしい。教育基本法や靖国、そして皇室典範の現在の課題について、深い洞察から確たる見識が示される。従来から靖国をはじめとする梅原先生の考えには、人にも読むことを薦めるほどであったが、「哲学不在の時代」の起点に、廃仏毀釈を示し、ドストエフスキーの問題意識を示してくれているのは、なつかしさのなかに心を落ち着かせてくれる。
道徳は善の価値に関係するとしてカントの「実践理性批判」も提示するが、私が感ずるのは「生命に価値を置く」ことと、その表れとしての自他不二の菩薩的利他行動が根源的なものだと思う。基本的には梅原先生の考えにきわめて近い。
「大阪とノック知事」「新生という言葉の意味」「家康型人間への期待」「奇人の時代」「皇室について」など、一寸したことに至るまで、さすがだ。
80歳の 「妻へ、子へ、そして後なる人たちへ」という副題が付してある自伝だが、格調、見識、教養、哲学、文化、バランス――高潔な人格が全文を通して伝わってくる。凸版印刷の特別相談役、日本経団連常任理事をはじめとして、わが国を支えてきた鈴木和夫さんの自伝だが、感銘をもって一気に読んだ。
戦争をどうとらえ、そして戦後をどう考え、生きてきたかを知りたいと思ったが、日本が繁栄し、正道を歩んでこれたのは、こういう人たちがいたからだとの思いを深くした。
「人間と自然との調和、物と心のバランス(日本美)」「冷徹な市場優先主義批判」「天生我材心有用(李白)」「有志事竟成」「マイネッケの近代史における国家理性の理念(国家は常に権力衝動に動かされるが、野放しにこの衝動に身をまかせれば、必ず破滅の悲運に見舞われることは、歴史の教えるところである)」「日本海軍が壊滅したのは、米軍にたたかれる前に、内部崩壊していた」――。
写真集も本当に美しい。
たしかに「国の財政」「少子高齢社会」の両面から、日本は破綻寸前という論は多く、それにともない負担増の悲鳴が聞こえる。増田さんは、「現実を見よ」「現場を見よ」「凡人の良識を信頼せよ」という。底上げ教育による日本人の底力、製造業の"生もの"をつくる価値創造の底力、厳しいマーケットで鍛え上げられた日本の小売業、エネルギー効率のよい国・日本、内需が高い国・日本などを示し、官公庁依存であるゆえに、低い生産性になっている公共事業・農業にメスを入れよという。
国債についても低金利での借り換えや永久債、利便性の高い都市への集中、都市再生債、ピークロード運賃などを提唱する。
「凡人なりの結論」を忠実に実行することと、自力での生産性が不可能なほど脆弱化した産業へのメスを訴える。教育と良識と倫理をもつ真面目でキメ細かな日本人がこわれない限り、国家破綻はありえないということか。
「国会報道からTVタックルまで」との副題がついている。本にして論ずるには難しいテーマだが、よく論じている。政治にはしっかり論評できる新聞が最もふさわしいと思うが、間違いなく政治の場においてもテレビの影響力が他を上回るようになった。
民意が欲するところを番組にして、民意の欲する形で提示していると、醸成された空気から脱することができなくなり、政治的方向性がつくられてしまう。
「もっと他のことも扱ってほしい」「もっと落ち着いて論じさせてほしい」――我々政治の側からは映像の力を認識するからこそ、そうした気持ちが常にある。憲法論争というといつも「9条」、教育基本法論争というといつも「愛国心」。たしかに1時間の番組の討論ではそれ以外も含めて論じたらとても足りないし、深まらないし、どうしてもパフォーマンスになる。
星さんは、「メディアの立て直しが急務」というが、じつは、社会全体が、「面白さ」「深さ」「一体感」をどう育てるかという曲がり角に来ており、それほどテレビ、新聞の影響が大きい時を否応なく迎えている。