「90年代においては、デフレ、不良債権、構造調整の3つが負の相互補完性を持って影響しあっていた」が、今、3つの課題の相互関係がプラス方向に作用し始めていると小峰さんはいう。
日本の経済・社会の構造変動を直視して、時代が要請する構造改革をやる。今よくいわれる貧富の格差が発生した、その為の政策は別途用意する。
日本型システムといっても雇用も企業経営も、金融もいろいろあるが、それがまさに相互補完性をもって成り立って今日まできており、それが、グローバリゼーション、少子高齢化をはじめとする構造変化に対して、結合しているがゆえにドミノ倒し的になる、ということをよく示してくれている。
政治における「構造改革」について、「社会や経済がどんどん構造変化している。それをとらえよ」といい続けてきた私としては、本書の冷静な分析はきわめて有意義であった。
「改革なくして成長なし」ではなく、「成長なくして改革なし」というのはある話だが、都留さんは「成長なくて改革をこそ」という。
対米一辺倒からの脱却と、成長を前提としない改革を提言する。非核や安保廃棄で平和条約、シュマッハー「スモール イズ ビューティフル」、「市場化は市場の領域を拡大することにより、自己決定権を少なくする。
ところが、福祉のために非市場の領域を拡大しなければならないとすると、自己決定権の拡大を必要とする」「社会保障は、権利なのか恩恵なのか(シビル・ミニマムとしての社会保障)」「不良債権処理がなぜ構造改革か。産業の再配置という構造改革」「消費税の引き上げではない。資本所得に対する課税を強化して得られる"フローの社会化"の中から社会保障給付の財源を確保できる」「豊かさの貧困とスローライフ」などの指摘が、どうしても「なつかしい」思いがする。
経済を専門的に掘り下げてほしいという思いが残るが、遺稿となった。
昨年の「論座」7月号の「政治家は『勇ましい姿』より『ちょっと待てよ』の気概を」(久間さん、仙谷さん、そして私太田の対談)が掲載されている。
後藤田正晴さんの「遺言」はこんなに平易に語れるかと思うほどだ。「憲法というのは、民主主義を信用しないからこそ大事」「憲法という国家の基本法へのシニズムを生み出す危険水域に入っている」(大沼保昭氏)、さらに「立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分すること」として、
価値の多元化した近代社会で、人々が立場の違いのなかで生きるために立憲主義があるという長谷部恭男氏。そして梅原・五百旗頭対談もいい。ナショナリズムの危険性を理解し、それをコントロールできる多くの人が必要となっている。
わが国の国土は、不毛であった大地を肥沃な土地に変え、安全に安心して暮らせるために、働きかけてつくってきたものだ。
しかし、現代人はそれを天与のものとし、国土をどうするか、国のグランド・デザインをどうするか、都市や街をどうつくるかということを忘れているかのようだ。そして、昨今は公共事業を目先だけの財政問題としてとらえている。
それにしても、こういう本がなぜ日本に少ないのだろう。なぜ日本の文化と伝統を学ぶ格好の国土学を、そしてそれを築いてきた日本人の知恵と努力と格闘を学ばないのだろう。
大石さんの博識と熱気と冷静・沈着さは学生時代から(同級生)いささかも変わらないが、各章それぞれ刺激的でうなずくばかりだ。できうれば続編を望みたいし、表や地図を入れてくれればよりあり難いと思う。
ぜひ一人でも多くの人に読んでほしい。