仏典に「心如工画師」とある。また、ヴィクトル・ユゴーだったと思うが、「海よりも壮大な眺めがある、それは大空だ。大空よりも壮大な眺めがある、それは人間の魂の内部だ」――たしかに心・生命・脳・人生は広い。脳を磨き、手入れすることが大切であり、またどんな時に活性化するか、働くかは、人生そのものといえる。
どの項目もきわめて面白いし、有意義であり、読みながら発想が浮かび、脳が動いた。
茂木さんのいう「クオリア(質感)」はたしかに、無機質のものでなく、温度も量もある質感だ。
「脳と仮想」も読んだが、小林秀雄のテープをこよなく愛して買い込んだ私としては、ともすると考えもしない感じもしない時代にあって、生きることとはいかに豊かにできるものか、考えることと感じること、そして仮想を生きる喜びを感謝をこめて味わうという茂木さんの概念「仮想」が、小林秀雄賞に輝いたことは、私にとってもうれしい。
跋記に小説はその奔放な嘘にこそ真骨頂があり、歴史学には嘘は許されぬ。「本来相容れざる文学と史学とのいわば不義の子としての歴史小説を、あえて世に問う私の覚悟」と浅田次郎は書く。また「何気なく手にした書物を、その内容いかんにかからず熟読する癖がある(夥しい折り込み広告の類も)」ともいう。面白い。
幕末から維新。激動の世相だが、武士の仕来り、掟、形式などは定形化し、そのきしみは時に「おかしく」、時に「苦しく」、時に「かなしく」現われてくる。
形式の鎧をぬいで、人間がたちあらわれるのも、世の縛りが激変のなかでゆるくなっているせいかもしれない。「日本の文化と伝統」「武士道」というと礼賛される時代の流れがあるが、本書にある260年の甲羅の奥にある人間の真実の心、日本人の生真面目で智慧があり、やさしさ、風情の心の方を観ることが大事だと私は思う。
村井実氏は明治以来100余年にわたる教育史の中で歴史を作った三つの文書として「被仰出書(おおせいだされしょ1872・明治5年)」「教育勅語(1890・明治23年)」そしてこの「アメリカ教育使節団報告書(1946)」をあげている。連合軍総司令部(GHQ)が、日本の軍国主義的・超国家主義的教育を一掃しようとして、27名の教育使節団を派遣し、日本の教育者等の協力のもと、この報告書をつくりあげた。
当然、憲法と同様、米国文化の強制的勧告であるとか、いわゆる保守層の批判も浴びるが、同時に、教育の逼塞にあえいでいた知識人や教師に共感をもって受け入れられたことも事実である。
内容を読めばそれは明らかだ。現在の教育の原型、原点を、より鮮明にみる思いだ。歴史の文書として、ありのまま如実知見することだと思う。
「今の若者は」「今の子供たちは」「今の教育は」というなかに、著者たちのいう青少年ネガティヴ・キャンペーンが含まれ、とくに「ニート」は「やる気のない若者」として批判の対象となっている。私自身、「今の子供は人のことも考えず、思いやりもなく、すぐ切れる」などという論には全く違和感をもってきた。
若年雇用と60代雇用、それは日本の社会のかかえるこれからの最重要課題だと思っている。
「景気の低迷」「団塊の世代が50代高賃金」「女性雇用の増加」「人件費縮減と労働力の量的柔軟化など企業の経営環境の変化」「依然として学校経由の就職が典型雇用(正規)への独占的採用ルートであること」など、本田氏の指摘する構造的要因は確かに大きい、その対応は、個人や家庭や教育にのみ還元してはならないし、ニート自体の現実把握と原因の把握が重要である。
職業的意義の高い学校教育をつくりあげることが指摘されているが、高校・大学をどう考えるか、生涯学習ををどう考えるか――考え続けている私としては「言葉のひとり歩き」「バッシング」ということ以上に学ぶこと大であった。どこまでもリアリズムに徹することが問題解決には大切だろう。