「あなたを惑わすものの正体」が副題。コロナ禍でのデマや陰謀論、米国の大統領選での選挙不正やフェイク情報、ロシアのウクライナ侵略での情報操作・・・・・・。SNS社会となり、まさに情報パンデミックの中で社会は不安定となっている。「虚実のはざま」「何が真実なのか」、そして「なぜ信じてしまうのか」「誰が、何の理由でフェイクを流布するのか」を現場を歩いて徹底取材をする。警戒されたりどなられたりの連続だったようだ。
ヨハネの黙示録「アポカリプス」に掛け合わせ、「情報の終焉」「情報の死の世界」の「インフォカリプス」――ネット空間で事実がいとも簡単に歪められ、おびただしい数の嘘で塗り替えられ、少しずつ社会が蝕まれていくことへの警鐘だ。本書を読むと、「ワクチン打ったら死ぬんだぞ」「ワクチン人体実験やめろ」「新型コロナは医療ビジネス」という「真実はこれだ」の陰謀論に、いかに多くの人が巻き込まれたかを改めて知る。反ワクチンのインフルエンサー、強固な反科学と政治と社会への不信が増幅作用をもたらした。発信源の匿名の「まとめサイト」運営者を探し出すと、「SNSや匿名掲示板に溢れているデマや真偽不明の話を加工するだけで、たった10分程度ですぐできる。広告収入が目的」とはっきり言っている。
デマや陰謀論を信じ込む要因となる脳の「癖」があるという。「合致する情報を集め、相反する情報は排除してしまう習性」「人は見たいものを見て、信じたいものを信じる」という「確証バイアス」だ。加えてネット特有の仕組みが指摘される。「エコーチェンバー(狭い空間で発信すると賛同する意見が反響する)」と「フィルターバブル(見たい情報だけを通過させるフィルター、その人の好みを自動的に推測するアルゴリズムを用いて利用者に勧める)」だ。YouTubeは要注意。
陰謀論は、なぜ私だけがこんな目に合うのかという不満を持ってる人にとっては、「隠された真実を私たちだけが知っている」という優越感や陶酔感が得られるという。その世界の人たちの間で、その優越感や陶酔感がどんどん高まっていくわけだ。その結果、家庭内の暴力沙汰や離婚にもなった現実が紹介される。ウクライナ侵略での「偽ゼレンスキー動画、地震の際の「悪意の改変、フェイク画像」、宣伝サイトでの「架空の人物による偽コメント、偽ランキング」など、このネット空間全体は危険に満ち満ちている。なかなか難しい問題だが、「嘘の蔓延に抗う知恵」として、ヨーロッパやブラットフォーマー自身の試みが提示される。「リテラシー教育」も極めて重要だ。注目を集めるコンテンツばかり主流となり、感情を煽るものが量産される「アテンション・エコノミーの過熱」は重大なところに差し掛かっている。
統一地方選の前半戦、道府県議選と政令市議選が31日、告示となりました。今までになく大激戦です。私は埼玉県に入り、埼玉県議選南第二区=川口市の、しおの正行候補、はぎわら一寿候補、そして服部つよし・さいたま市議会議員候補(大宮区)への勝利を訴えました。多くの方が駆けつけてくださり、感謝のなかでの舌戦のスタートです。
いずれも実績豊富で、よく動くフットワークの良い議員です。川口市のバリアフリー、JR駅のホームドア設置、防災・減災、子ども医療費無償化の拡大・・・・・・。しおの、はぎわら両候補は、川口市発展のエンジンです。懸命の訴えは身に刺さりました。
「大宮から希望あふれる未来を」を訴える服部つよし候補は「駅や通学路に1,000台の防犯カメラを」「コミュニティーバス、デマンド交通も加えた交通網の整備」などを、実績を踏まえて訴えました。
私は、「仕事をするのが政治家の役割」「政治は結果だ」「言っただけでは、政策実現とはならない。料理でも言っただけでは料理はできない。頭を使い、足を運び、段取りをして、時間を工夫して初めて料理ができる。政治も粘り強く、時間をかけ、各関係者と打ち合わせをして、予算を工面して作る。言っただけで、予算にも反対して結果を出せるわけがない」など、公明党の政策実現への粘り強い戦いを訴えました。また「政治はマメが一番」「政治はフットワークだ。政治はネットワークだ」と勝利への訴えをしました。
「未来の年表」シリーズの第5弾。「瀬戸際の日本で起きること」が副題。業界、ビジネスの分野で何が起きるか、その姿を露わにする。「人口減少がビジネスに与える影響は、マーケットの縮小や人手不足だ。しかも、マーケットの縮小とは単に総人口が減るだけの話ではない。若い頃のようには消費しなくなる高齢者の割合が年々大きくなっていく。今後の日本は、実人数が減る以上に消費量が落ち込む『ダブルの縮小』に見舞われる」「この国内マーケットのダブルの縮小と、勤労世代の減少(担い手不足・人手不足)という『ダブルの変化』にどう対応するか」と指摘し、「戦略的に縮む」という成長モデルへの転換を提示する。「各企業が成長分野を定め、集中的に投資や人材投入を行うことによって、『戦略的に縮む』のだ」と指摘する。
第1部の「人口減少日本のリアル」には愕然とする。「革新的ヒット商品が誕生しなくなる(製造業界に起きること)」「整備士不足で事故を起こしても車が直らない(自動車産業に起きること)」「地方紙・ローカルテレビ局が消える日」「ドライバー不足で10億トン分の荷物が運べない(物流業界に起きること)」「30代が減って新築住宅が売れなくなる(住宅業界に起きること)」「ローカル線が消えていく」「地方に住むと水道代が高くつく(生活インフラに起きること)」「2030年頃には患者不足に陥る。『開業医は儲かる』という神話の崩壊(医療業界に起きること)」「多死社会なのに寺院は減少、葬儀も『直葬』が一般化する」「60代の自衛官が80代〜90代の命を守る(自衛官や警察官の担い手不足と高齢化)」をはじめとして、各業界の担い手不足、人手不足がいかに深刻か。地方の疲弊は想像絶するものになること、マーケットの縮小が各業界に根本的な転換を促すことを示している。
昨年の出生者数は約77万人、今年の成人式参加対象者(20歳)が117万人、団塊の世代最大の昭和24年生まれは270万人、戦争で極端に少なかった私の昭和20年生まれでさえ140万人。特にこの数年の100万人を切ってからの減少の激しさ(100万人を切ったのは2,016年)は、20年、30年後の日本の厳しい姿を示している。国内マーケットの激減と担い手不足・人手不足が、日本社会と各業界に襲いかかるのだ。「未来の年表」シリーズが示す現実から目をそらすことはできない。第二部の「戦略的に縮むための『未来のトリセツ(10のステップ)』」も重要だ。
「元自衛隊現場トップが明かす防衛行政の失態」が副題。元・海上自衛隊自衛艦隊司令官(海将)の香田洋二氏が防衛省に対し、直言する。防衛費の増額が進められているが、「防衛力を強化するために最も大事なことが忘れ去られている。シビリアンコントロールが機能していないという現実だ」「それは、政治家が軍事的素養を磨き、現場の声に耳を傾けて初めて機能するシステムだ」「政治家が軍事の現場を知ろうとせず、また防衛省・自衛隊の内部では背広組の官僚が幅を利かせ、現場を預かる制服組の自衛官の意見が反映されにくいシステムにメスを入れなければならない」と言い、防衛省と自衛隊(背広組と制服組)との連携不足、官邸が省内人事を握る弊害、「国産」信仰の間違いなどを、具体例を挙げ厳しく指摘する。
「イージスアショア問題が浮き彫りにした防衛省の独善」はその最たる例で、「当初陸上配備を想定していたイージスアショアが、よくわからない経緯で、現在のイージスシステム搭載艦に変わった一連の騒ぎ」「この検討はミサイルの専門家である各幕僚監部の参画はほとんどなく、内局だけで決定したと言われている」「より高額になるかもしれないので、計画時には盛り込まれていなかった極超音速兵器対策として新たなミサイルを搭載することにしたのではないか」と所見を述べる。また、「防衛費1%枠文化」を変えなければ防衛力強化はおぼつかないとし、「防衛力は『正面装備』『後方』『教育・訓練』の三本柱が大事」なのに正面装備に偏り、例えば弾薬等が削られ続けてきたと指摘する。「『文民統制』ではなく、『文官統制』のDNAがなかなか消えない。イージスシステム搭載艦の導入も、ヘリコプター搭載型護衛艦『いずも』の空母化も制服組の意見が入っていない」「手初めに官房長、局長クラスに制服組あるいは制服組OBを登用してはどうか」「インド洋に海上自衛隊艦艇を派遣するにあたり、イージス艦の派遣を予定していたが、イージス艦は攻撃的で危ないという誤解があり、当面見送りとなった。イージス艦は守りを専門とする防空機能に優れた船だ。自衛隊制服組による国会答弁を行い、専門的議論を深めるべきだ」「不可解な12式中距離地対艦誘導弾射程距離の延伸」など、「元ミサイル撃ち」の香田氏の舌鋒は鋭い。
さらに憲法改正が重要だとし、「防衛出動が発令されていない段階で自衛隊が手足を縛られたままであるならば、自衛隊と米軍が共同行動する場合に、自衛隊が足手まといになる」「日米合同司令部がないという怖さ」等についても述べる。
「防衛力強化」「GDP比2%」論議の、まさに中身を徹底的に論議し、説明責任を果たせとの訴えはおろそかにはできない。
宮城谷昌光氏が、自らの著作の中で「最も気に入っている」と言っている作品。末尾で解説をしている藤原正彦氏が「本書は小品ながら、とりわけ完成度が高く、宮城谷文学の魅力が存分に溢れる、後世に残る名作なのである」「氏の真骨頂たる繊細な美的感受性が横溢している。詩のような、淡い色調の水彩画のような小説である」「氏の『風』はやはり視覚的イメージであり、優しい響きの中に、人間の意思を超えた運命の力とか生の儚さがにじんでいる」と述べている。
漢王朝の時代の荒れはてた河北の観津の地。貧しい名家・竇家に、美しい娘・猗房、その兄・建、弟の広国がいた。ある日、郷夫老が訪ねてきて「このたび、皇室におかれては、全国から名家の子女を集め、皇宮において養成なさるとのこと」と、猗房を推すことになったと言う。そして猗房は王室に入るという驚くべきことになる。宮廷では呂太后が過酷に君臨していた。運命は、幾多の困難をものともせず、大いなる変転の後、猗房を皇后にまで引き上げる。一方、広国は、猗房が長安へと発ったその日に、人さらいにさらわれてしまっていた。これも運命か、ニ人は感動的な出会いをするのだった。
人と人との出会い、縁の連鎖、不思議な人間の運、そして運命。「猗房は老子が好きであった」「老子は弱いものの側に立った哲学である。弱い者とは庶民であり農民である」「『上善は水の如し』と老子はいう。最上の美徳とは水のようなもので、水は万物をうるおしながら万物と争うことをしない。しかも水は人の嫌がる低地へ流れこむ。人のためになり、人と争わず、人にへりくだる。人格をみがくということは、水をみならうことである。猗房はくりかえし自分にいいきかせた」・・・・・・。老子の思想が天命へと流れていく感動的な作品。しかも描写は、簡にして明、そして鮮、とぎ澄まされて美しく、たおやか。風とともに風景が浮かび、通い合う心が切ないほど迫る。広国と藺の出会いと再会もいい。「広国は立った。臣下も立ち、目を刺すような陽差しのなかに吸いこまれていった。馬車の走り出す音がきこえた。女は顔を上げた。藺であった」「嘘のような、夢のようなことが、現実であった。その人が自分を探しつづけていてくれたことが、どういうことであるのか、藺にはわかりすぎるほどわかった。自分の胸を自分の手でなだめなければ、痛みのとまらないようなせつなさを覚えたことは、奇妙なことにいまが生まれてはじめてあった」・・・・・・。