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11日、12日の両日、奄美大島で「公明党ティダ委員会」「新春政経懇話会」、鹿児島市で「新春政経懇話会」「大光会総会」に出席、地域の発展に向け新年のスタートを切りました。「ティダ」とは太陽。公明党は奄美群島の振興を目指し、「ティダ委員会」を結成、住民の声を聞き実現するために積極的に活動をしてきました。今回も奄美市を始め各市町村長が出席、今年で日本復帰70年を迎える奄美群島の発展に向けて意見交換をしました。2021年、奄美・沖縄が深い世界自然遺産に登録となりましたが、コロナ禍のため観光客が増えない状況でした。しかし、いよいよ今年は飛躍する勝負の年。「観光客を増やしたい」「交通費の関係で物価高が追い打ちをかけている」「人手不足が深刻」「太田国交大臣の時代に創設してもらった振興交付金の拡充と対象拡大を」など切実な要望が相次ぎました。委員長の浜地雅一衆議院議員等は丁寧に答え、要望の実現に向けて頑張ることを誓いました。地域、なかでも離島の諸課題は極めて切迫したものであり、離島振興に懸命に頑張ってきている公明党への期待は極めて大きいものがあります。頑張らなければなりません。

また、奄美でも鹿児島市でも「新春政経懇話会」が、知事、市長、市町村長、自民党の国会・県会等の議員、地域を担う有力者多数の出席を得て、盛大に行われました。4月の統一地方選挙の勝利に向けてのダッシュです。

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syouwatennou.jpg令和となった2019年の著書。昭和50年9月20日、「ニューズウィーク」東京支局長のバーナード・クリッシャーのインタビューに、昭和天皇は自らの役割について、「戦前も、戦後も基本的に変わっていない。自分は常に憲法を厳格に守るよう行動してきた」と言った。統帥権をもち「神聖ニシテ侵スへカラス」の天皇は、西園寺公望によれば、「天皇が自らの一存で一つの内閣を倒し、また、新たな内閣を立てるということになれば、もはや立憲君主ではなく、専制君主である。それでは、大日本帝国憲法を定めた明治天皇の聖旨に背くことにもなるし、失政があった場合、その責任は直接、天皇が負わなければならないことにもなる。天皇や皇室は本来、『悠久の日本』を体現し、時々の権力から超然としていなければならない」ということだ。現実にこの難問は、張作霖爆殺事件をめぐっての田中義一内閣総辞職における西園寺公望と牧野伸顕の見解の相違という形で現れた。本書は「昭和天皇の声」と題するが、「昭和天皇の政治的決定」という大日本帝国憲法下の天皇の難しい位置と決断に真正面から迫っている。

昭和天皇が自ら政治的決定を下したのは三度だという。「天皇はのちに『自分は2.26事件のときと終戦のときの2回だけは、立憲君主としての道を踏みまちがえた』などと回想している」「田中義一内閣の総辞職を加えると、3度だけは天皇は憲法の条規に従わず、余人の輔弼を待たずにみずから決定したと考えられる」と言う。「2.26事件のときには、総理官邸が叛乱軍に襲撃され、岡田啓介総理大臣の生死も不明となって、政府の機能は麻痺した。その中、天皇は断固として叛乱軍討伐の方針を打ち立て、事態を収拾させた」「終戦のときには、首脳たちの意見が対立し、方針を決められなくなったときに、天皇はみずからポツダム宣言受諾を決定した。ことの当否は別にして、立憲君主としての『常道』は踏み外したという思いを天皇は持っていたのだろう」と言う。

本書は5章に分けて、その生々しい現実場面を描く。「感激居士」――。昭和10年(1935)8月12日の陸軍中佐・相沢三郎による永田鉄山殺害事件。激情型の感激居士への北一輝の影響、皇道派と統制派の対立・・・・・・。「相沢さん一人を見殺しにすることはできない」と、相沢事件は2.26事件の導火線となっていく。

「総理の弔い」は、昭和11年(1936)2月26日未明の2.26事件。岡田啓介総理、齋藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が即死、鈴木貫太郎侍従長が瀕死の重体と伝えられた。しかし岡田総理は生きていた。小坂曹長らが救出、天皇は「よかった」と繰り返し言った。「陸軍が躊躇するならば、私がみずから近衛師団を率いて鎮圧にあたる」とまで言った。

「澄みきった瞳」――。2.26事件で瀕死の重傷を負った鈴木貫太郎。妻・たかは、「とどめだけは、やめてください。どうか、やめてください」と叫ぶ。「とどめは残酷だからやめろ」と安藤輝三大尉が言う。その青年の瞳は恐ろしいほど澄み切っていた。「傷つけられた『股肱』として、天皇が真っ先に思い浮かべたのは、鈴木とその妻のたかではなかったか。蹶起軍を叛乱軍とみなし、徹底的に討伐しなければならないとする天皇の方針は、侍従長遭難の報告がもたらされた時点で、ほぼ決まっていたといえそうだ」・・・・・・。

「転向者の昭和20年」――。田中清玄が昭和20年12月21日、天皇に会い、「龍沢寺で山本玄峰老師のもとで修行いたしております。天皇陛下なしに、社会的、政治的融合体としての日本はあり得ません」と述べた話。

「地下鉄の切符」――。昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾の決断。「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。・・・・・・少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」・・・・・・。皇太子時代の渡欧のときの思い出の品「パリで乗った地下鉄の切符」。いずれも日本を背負った天皇の生身の姿が描かれる。


sekaiinrure.jpg現在の世界インフレは、景気の過熱に伴う「デマンドプル・インフレ」ではなく、景気後退・政情不安を招く「コストプッシュ・インフレ」だ。パンデミックの収束による需要の急回復やサプライチェーンのボトルネックが原因であり、それに2022年2月のロシアのウクライナ侵略が加わり、供給制約に起因するコストプッシュ・インフレなのだ。そしてその背景には、グローバリズムの終焉という歴史的な大変化があると言う。中心のアメリカは、このインフレに対して、利上げという主流派経済学の手法で臨んでいるが、それはデマンドプル・インフレに対する手法で、直面しているコストプッシュ・インフレには逆効果で誤りだ。ニつのインフレは、原因も結果も対策も大きく異なることを銘記しなくてはいけない。デマンドプル・インフレは「需要過剰で物価が上昇」「賃金の上昇や国民所得の倍増を伴い経済を成長させる」のに対し、コストプッシュ・インフレは「供給減少で物価が上昇」「経済を縮小させ格差も生む(食料やエネルギーと言った基礎的な生活物資の価格が高騰するので低所得者に大きな打撃)」「コストプッシュ・インフレ下の利上げはインフレ自体は抑制できるのかもしれないが、その結果として、家計や企業が犠牲になるという誤った政策」「供給制約を緩和することが重要」なのだ。

まずグローバリゼーション――。「グローバリゼーションとは、貿易、投資、人、情報、技術、思想の国境を越えた移動が活発になることを意味している」「終わりの始まりは2008年の金融危機。ロシアのウクライナ侵略をもって、グローバリゼーションが終わった(アメリカのリベラル覇権戦略の破綻)」「70年代のインフレが新自由主義の台頭をもたらした」・・・・・・。

「フリードマンらのマネタリズムによれば、インフレの原因は貨幣供給量の過剰なので、貨幣供給量を制御すればインフレが制御できると考える。しかしマネタリズムの理論に反して、貨幣供給量の増加とインフレとが相関しなかった」「主流派経済学にとってインフレはデマンドプル・インフレであり、また金融政策を中心に考えた。しかし金融政策に限界を感じ、財政政策の有効性を唱えるようにはなってきているが・・・・・・」「問題の根源は貨幣に対する致命的な誤解にある――主流派経済学の貨幣・金融理論は貸付資金説に立脚している。これは事実に反している。銀行は集めてきた預金を借り手に貸し出しているのではない。借り手に貸し出すことによって預金を創造している。いわゆる『信用創造』だ」「注目すべき貨幣循環理論と現代貨幣理論」「財政支出に税による財源確保は必要ない。政府の支出が徴税より先にされなければならない。政府の支出によって民間部門に貨幣が供給され(貨幣を『創造』)、それが課税によって徴収される」「ポスト・ケインズ派は『需要が供給を生む』と考える」・・・・・・。
アメリカのバイデン政権は財政出動をしたが、コストプッシュ・インフレで格差が拡大し不満が充満する。アメリカの利上げが世界の各地域の通貨安をもたらし、債務危機のリスクが高まってEU等はナショナリズムが先鋭化する。

そして日本――。「軍事、食料、エネルギーさらには経済全般に及ぶ安全保障の抜本的な強化、サプライチェーンの再構築、ミッション志向の産業政策、内需の拡大、学者の是正と社会的弱者の保護などは巨額の財政支出を要請する。積極財政によってディマンドプル・インフレを引き起こしかねないほどに需要を拡大することが必要である」と言い、「大規模な積極財政による資源動員、産業政策による資源配分、資本規制、価格統制。まるで戦時経済体制のような『恒久戦時経済』の構築以外に生き残る道はない」と過激な提唱をする。


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9日は成人の日。18歳から成人ということになりましたが、18歳の人は大学受験寸前、コロナ禍で間を空けた会場設定など様々な理由で、地元では「20歳の集い」として行われました。北区では同級生の語らいが出来るように展示会場などが設置され、また豊島区では盛大にオーケストラ演奏でお祝いしました。元気で荒波を乗り越える意欲ある若者が、未来に希望を持つ社会であることが最も重要なこと。豊島区では約3割が外国人の若者で、コロナ前の40%弱より減少しています。間違いなくコロナ禍の影響です。公明党が「若者支援党」として、子育て支援や給付型奨学金の拡充、最低賃金の引き上げなど、360度の若者全面支援策を次々と実現してることを、さらに進めたいと思います。

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nanyouno.jpg「あんたらは、パラオ人だけじゃなく、世界中の有色人種に希望を与えたんだ。非欧米圏の人々にエレアルを示したんだ。そのことを忘れるな。誇りを取り戻せ」「日本人は貧乏だったかもしれないけれど、精神は立派だったと僕は思っている。誇り高く生きることを僕らに教えてくれた。僕は日本人に謝罪なんて全く求めない」「日本人は一般に、自分たちの植民地経営が欧米のそれとは違うと自負してきた。欧米人はただ自国の利益のために植民地を利用しようとし、現地の人々の幸福など顧みないが、自分たちは植民地の人々も『天皇の赤子』と考えて統治を行うのだ、と。実際、台湾や朝鮮でも、教育水準や衛生水準の向上、食糧増産、産業発展等のために多額の投資を行ってきた。・・・・・・島民たちは日本国籍を持たないけれども、学校や病院を作り、発電所を立て、あるいは産業指導を行うなどして、あらゆる面での生活の向上が目指された」「パラオに来たスペイン人も、ドイツ人も、島民を家に入れませんでした。ご飯を一緒に食べるなんてことは、あるわけもないです。彼らにとって、島民は動物と同じ・・・・・・でも日本人は」「おばあさんこそ、日本人です。日本人の中の日本人です。人種や民族の違いにかかわらず分け隔てなく家族として受け入れ、がんばりなさい、胸を張りなさい、あきらめてはいけません、一生懸命やりなさい、と励ます人です。君のお母さんは、僕らニ人が協力して、よき南洋のエレアル(明日)をつくることを期待していた」・・・・・・。太平洋戦争の最中、パラオ諸島には多くの日本人が家族共々住んでいた。そこで育ったニ人の少年が、残酷な戦争を経て、約40年後再び出会う感動と涙の物語。

昭和17年のパラオ・コロール島。小学校教員である宮口恒昭の長男・智也は、パラオ人の少年・シゲルと親友になる。「男に七人の敵あり」「やむにやまれぬ大和魂」でシゲルを守ろうとした「南洋神社の決闘」からだ。しかし戦争は悪化し、南の島々は次々に陥落。「太平洋の防波堤」としたパラオ諸島も、大空襲に見舞われる。太平洋戦争のなかでも、ペリリュー島とアンガウル島の戦いは、小島におけるものであり、かつ、日本軍守備隊の圧倒的劣勢にもかかわらず、特筆すべき激戦となった。「陽がのぼるたびに、死体の数は増えていく。焼け焦げ、腐った屍の上に、また焼け焦げ、腐った死体が重なる。そしてしまいには、この島は屍と、それに群がる南風蠅で埋め尽くされることだろう。そのようなことを思いながら、恒昭は昏睡した」――。軍人はもとよりすべての民が悲惨な死を遂げた。必死に抗戦、助けようとする住民。智也の母が亡くなり、戦争に召集された恒昭も重傷を負い生死不明。戦争の悲惨さに心が潰される思いだ。これがあの戦争だったのだ。そのなかでの智也とシゲルのひたむきさがつらい。

そして時は流れ、昭和63年末、パラオ共和国独立準備のため、シゲルは訪日する。「自分の知る日本人は今とは違っていたように思う。もう少しゆったりと構え、弱い人を助けることを励まし、我欲のために粗暴な振る舞いをすることを恥じ、戒める日本人はどこに行ったのか」「どうして日本人は謝ってばかりなのか。どうして、日本人は自分たちの文化や歴史を誇らしく思わないのか。どうして言うべきことを、堂々と言わないのか」と思いながら、宮口家の人々を探すのだった。そして智也と会う。
戦争の悲惨さと残酷さ、日本人とパラオ人の歴史と心の交流を、ニ人の少年の純粋な心を通じて描く感動作。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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