「芸術する体と心」が副題。ルビンの壺――デンマークの心理学者、エドガー・ルビンが考案した多義図形で「白い部分を見れば壺に見えるが、外の白い部分を見れば顔に見える」もの。二つの見え方は、せめぎあうように入れ替わって、同時に両方を見ることができないのも特徴だ。「壺に限らず、どんな物にもさまざまな側面があって、同じ物を見ても、視点によって、人によって見え方は違う」「凝り固まりがちな人間の物の見方をぐるっと反転させるところに、アートの『ツボ』が隠されているのではないか」「大胆に一般化するならば、サイエンスは『!』を『?』に変えてその答えを追及していくもの。アートは『!』をかたちや音に表現していくもの」「『!』を感じるこころと『?』を探すこころを磨くことが肝心」という。じつに面白く深い。「頭で考えるより五感を鍛えて感じて生きる」「生命の豊かさ、楽しさ」が滲み出るエッセー集。
齋藤亜矢さんは、京大理学部を出て大学院は京大医学部、それから東京藝大大学院美術研究科で博士課程(博士(美術))、しかも大学の研究室(霊長類学)でサルを観察していて崖から落ちて背骨を骨折、高校時代には網膜剥離で右目を失明。見方、感じ方は、異色の研究者という域をはるかに超えている。「感性は、言葉や観念でなく、からだを通した体験からしか生まれない(サイエンスの視点、アートの視点)」「アーティストは、新しい切り口で世界のおもしろさを切り取って見せてくれる(チンパンジーとアール・ブリュット)」「『なにか』を別の『なにか』に見立てるという想像力が芸術に深く関わっているのではないか。見立てるコツは視点をずらす(手の想像、目の想像)」「ほんとうの自由とは、あらかじめ与えられた状態のことではなく、自分で(とらわれていた)枠をこわすプロセスにこそあるのではないか(自由と不自由)」「美しいものに畏れを感じる。恐ろしいものを美しいと感じる。美しいと怖いはどこかとても親和的(美しい、怖い)」「これまで理学、医学、芸術学、教育学と立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。人ごとにさまざまな視点があり、見える景色がまるで違う。・・・・・・ときには木を見たり、森を見たり、自在に視点を変えられる目をもっていたい(木を見る、森を見る)」「三次元を二次元に投影する絵画の技法が、人間の視覚の特性を反映して発達した。・・・・・・立体視と動物の目の位置(二次元と三次元)」・・・・・・。
アートとサイエンスの交差する場で、「芸術する体と心」「五感で感ずる」ことが、いかに根源的で面白く楽しいか。とてもいい。
江戸時代の末期、九州の豊後・日田の豪商・広瀬家の8男として生まれた儒学者・漢詩人の広瀬旭荘。長兄が詩人として著名な広瀬淡窓、家業を継いだのが兄・広瀬久兵衛。淡窓は温和で平明な詩を作ったが、旭荘は才気横溢の詩を作ったといわれる。旭荘の詩を斉藤松堂は「構想は泉が湧き、潮が打ち上げる様、字句は、球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞き上げる様だ」と評したという。しかし、旭荘には情があふれる一方で、胸の裡にいつの間にか憤懣が溜まり、炎が吹き荒れ、苛立ちのあまり妻を打擲。はじめの妻は、去ってしまう。悔恨と自己嫌悪をもつ旭荘の下に2度目の妻・松子が来る。松子は、激情にかられ暴力を振るうこともある旭荘の心の奥底に優しさのあることを感知し、支え続けた。葉室麟の描く、至高の夫婦愛は心に激しく迫る。
旭荘の生きた時代は、幕府の衰えに天変・大火・飢饉が加わる不安定な天保、そして激動の幕末。日田を拠点としつつも、上方へ、江戸へと旭荘の舞台は移る。そこで遭遇する大塩平八郎の乱(天保8年、1837)、蘭医・緒方洪庵の滴々斎塾、田原藩・渡辺華山や高野長英らの逮捕(蘭学者を弾圧した蛮社の獄)、禁令が頻発される水野忠邦の天保の改革とその挫折・・・・・・。それらは旭荘の人生に直接、影響した。
「ひとは才において尊いのではない。人は慈しむ心において尊い」「ひとはおのれが手にしているもののことは思わず、持っていないもののことばかり考えてしまうようだ。わたしは、そなたを娶れて幸せであったと思っている。ほかの女人のことを考えたことはない」「わたしは妻のことだけを案じて泣く小人なのだろうか」「ひとりを懸命に救おうとするひとが本当に多くのひとを救えるのではないかと思う。ひとりを救わずに多くのひとを救うことはできないのではないでしょうか」「旦那様、話を聞かせてくださいまし・・・・・・桃花多き処是れ君が家 晩来何者ぞ門を敲き至るは 雨と詩人と落花となり」・・・・・・。松子の思い出を書いた「追思録」を旭荘は晩年に至るまで手元に置き続けたという。追悼 葉室麟。
池袋が大きく変わる――。「1」が4つ並んだ、令和1年11月1日、池袋の旧豊島区役所・旧豊島公会堂の跡地に建設された、新複合商業施設「Hareza(ハレザ)池袋」のホール棟(東京建物 Brillia HALL)、としま区民センター、中池袋公園が先行オープンし、式典が挙行されました。
「Hareza池袋」は、オフィス棟やホール棟、区民センター、中池袋公園からなり、この日は、東京建物 Brillia HALL(ミュージカルや伝統芸能、宝塚、歌舞伎、バレー等も行われる)、としま区民センター、中池袋公園が本格スタートしました。式典には、このたび、文化勲章を受賞される野村萬氏(豊島区在住)や、高野之夫豊島区長をはじめとする関係者が出席し、華やかな式典となりました。
また、中池袋公園では、池袋周辺の駅や公園、商業施設を結ぶ電気バス「イケバス(IKEBUS)」の出発式も行われ、運行を開始しました。私の地元でもある豊島区は、文化・芸術の街へと大きく変わり、盛り上がります。
「財政(赤字)」「異次元の金融緩和」「デフレ脱却」、加えて「電子・暗号通貨の流通」「キャッシュレス化」「MMT」などが話題となる新時代――。本書はあらためて「貨幣とは何か」を問い直す。しかもそれを「歴史から経済学的な知見を導き、検証」する。「貨幣から見る歴史」にも「歴史から見る貨幣」にもなっている。経済から見て貨幣とは何か、国家から見て貨幣とは何かである。
663年の白村江の戦いでなぜ倭国軍は敗れたのか。めざすは中央集権国家の樹立。広範囲に及ぶ安定的な統治があるとき、政府発行の貨幣は、貨幣としての役割を十全に果たすことができる。白村江の敗戦はまさに中央集権国家「日本」のはじまりであり、日本における貨幣を生むことになった。無文銀銭からはじまり、初の政府鋳造貨幣としての富本銭、初の本格的流通となった和同開珎プロジェクト、そして皇朝十二銭の消滅で古代貨幣史はひとまず終焉する。「新貨が旧貨の10倍の価値」では貨幣にとって最も重要な信頼を失い、稲や布での取引を行うようになった。平安時代後期の銭不在の時代だ。宋、明からの渡来銭、不足する銭とデフレーションの時代を経て戦国時代へ移るが、常に問われるのは「政府負債の発行と、それに耐えるだけの信用」の問題だ。
江戸時代は支配力を持った政権が浸透し、金融価値と名目貨幣を分離させ、貨幣発行益を得ることになる。元禄の改鋳により、日本の貨幣制度は「政府が発行し(政府負債であり)」「原材料価値と額面価値が無関係で(名目貨幣であり)」「誰でも貨幣として受け取るから貨幣として流通する(循環論法に支えられる)」に踏み出す。元禄、正徳、享保、元文、家斉・忠成のそれぞれの改革(失敗も)を経て、幕末は通貨問題・国際為替問題・金流出に苦闘する。政府発行の貨幣の強みは「納税に使えること」であり、政府発行益を手にできるのだが、「政府負債、名目貨幣、循環論法」の3つは重要な要素だ。
「貨幣とは何か」を歴史の変遷を通じて掘り下げ、現在の「財政」「金融・財政政策」「仮想通貨」の本質を突く。きわめて面白く秀逸だ。