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20日、沖縄県に行き、先月31日に大規模な火災が起きた首里城を、視察しました。これには、金城ツトム、金城ヤスクニ両県議らが同行しました。内閣府沖縄総合事務局の案内で、首里城の奉神門正面から、焼失した正殿をはじめ、諸施設の火災状況を調査。首里城は沖縄の歴史と文化の象徴であり、一刻も早い再建・復元の手を打たなければなりません。また、首里城は沖縄の観光の柱となっています。売店の方からは「今が観光客の一番のピークで、これから本当にどうなるのか不安だ。早く復旧して欲しい」など、不安の 声を聞きました。単に復旧を待つのではなく、直ちに、残された首里城の資源を生かして、観光への影響ができるだけ少なくなるよう、知恵を絞って手を打たなくてはならないと痛感しました。

視察の後、金城ヤスクニ県会議員(浦添市選出)の県政報告会に出席し、挨拶をしました。「国交大臣時代から、那覇空港の第2滑走路、県内の渋滞箇所の解消、観光に力を入れて来た。何より沖縄は観光が大切であり、さらに政策を総動員していかなくてはならない」「公明党は仕事をする党だ。議員はその先頭に立って結果を出さなくてはならない。浦添市において、西海岸道路の完成は、金城ヤスクニ議員が先頭に立って、国と連携して実現して来た」などと述べました。

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祝祭と予感.jpg「蜜蜂と遠雷」のスピンオフ短編小説集の6話。養蜂家の父をもち、ピアノも持たず破天荒な演奏で衝撃を与える異能の少年・風間塵、天才少女で母の死とともにピアノが弾けなくなってしまった栄伝亜夜、名門ジュリアード音楽院の俊英・マサル・C・レヴィ・アナトールら芳ヶ江国際ピアノコンクールで競った若者たちの周辺で何が起きていたか。背景にある師匠らの人間模様が描かれ面白い。一期一会というが、人生は不思議な縁によって彩りを獲得するものだ。

マサルと亜夜に風間塵が加わり、恩師・綿貫先生の墓参りをする「祝祭と掃苔」に始まる。「獅子と芍薬」では、芳ヶ江国際ピアノコンクールの審査員・ナサニエル・シルヴァーバーグと嵯峨三枝子の若き頃、30年前のドラマチックな出会い。作曲家・菱沼忠明が、課題曲「春と修羅」を作るきっかけとなった早逝した小山内健次。「そもそも音ってのは、楽譜で弾ける平均律に収まるような代物じゃない。・・・・・・音楽を記譜に寄せるのはそこそこにしとけ。記譜のほうを音楽に寄せるんだ。音楽を譲るな」という「袈裟と鞦韆」。マサルとナサニエルの師弟の絆と戦略を描いた「竪琴と葦笛」。

「鈴蘭と階段」――ヴィオラを求める栄伝亜夜の友人・奏。楽器との相性があり「知らず知らずのうちに、ヴィオラの世界を、イメージを、可能性を、ステレオタイプに限定していたのではないか。あたしはヴィオラの豊かさと包容力をみくびっていた」と奥深い世界を描く。「伝説と予感」――風間塵のピアノに、巨匠・ユウジ・フォン・ホフマンが受けた恐怖にも似た衝撃と戦慄。


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11月17日は公明党結党55年の大きな節目。「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいく」という立党精神、そして結党の時掲げられた「日本の柱 公明党」「大衆福祉の公明党」を貫いてきた55年です。「現場第一主義」「政治は結果」との信念のもと、走り抜いた戦いの歴史です。また今年は自公連立20年でもあり、「政治の安定と改革のリーダーシップ」を実践してきた20年です。それが今、「全世代型社会保障」が政府の政策の柱となっています。

人口減少・少子高齢社会、AI・IoT・ロボットの急進展、頻発・激甚化する大災害という大きな構造変化を直視し、10年、20年後の日本のため、「時間軸を持った政治」を貫いていきます。御支援に心より感謝いたします。

16日には地元行事に参加しました。


世界史の実験.jpg「1973-74年に、『マルクスその可能性の中心』と『柳田国男試論』を書いた。いずれも文芸評論の延長として書いたものだが、それらの違いは大きかった」「『世界史の構造』(2010年)を書き終えたあと、私は急に、柳田国男について考えはじめたのである。それは一つには、2011年に東北大震災があったからだ。だが別の視点からみれば、私の中で『文学』と『日本』が回帰してきたということかもしれない」という。明治8年に生まれ昭和37年に亡くなった柳田国男は民俗学者・官僚。「日本人とは何か」を近代日本の黎明期から激動の時代を生き、調査・研究を続け求め続けたがゆえに、「柳田にとって『神国日本』とは、世界人類史の痕跡を留める『歴史の実験』場だった」「日本は世界史の『実験』にとって恵まれた場所だ、と柳田は考えた」・・・・・・。

世界の文明・宗教・思想を凝縮して掴み、柳田国男の人類史のベースとなった「実験の史学」を浮かび上がらせる。カントの「永遠平和のために」「国際連盟」とマルクスの「ドイツ・イデオロギー」「ロシア革命」の近接と「1928年の不戦条約」「大正デモクラシー」「憲法9条」――それらが1921年に新渡戸稲造に誘われてジュネーブの国際連盟委任統治委員に就任した柳田に投影されるのだ。その「歴史の実験」が1930年代に消滅し、柳田は1935年に「実験の史学」を書いた後、沈黙する。

「実験の文学批評」として、島崎藤村と柳田国男の思想と確執、本居宣長の古道と平田篤胤の平田神道・本地垂迹、本居・平田を超えた柳田の「祖霊」が止まる「神国日本」の「新国学」等々が、研ぎ澄まされるように詳述される。第2部の「山人から見る世界史」では、デカルト、レヴィ・ストロースから「柳田のコギト」を示しつつ、関西弁で「思うわ、ゆえに、あるわ」と語ったりする。柳田はナショナリズムとは対極の「一国民俗学」を唱え、「山人」に固執する。「狩猟民、遊牧民、漁撈民の遊動性と商人」「原無縁と原遊動性、原父と原遊動性、武士と遊牧民、インドの山地民と武士、海上の道と鈴木姓や信州の文明、山人の動物学とオオカミ(山人は遊動的狩猟採集民で狼と一緒に狩猟した)」等が語られ、「山人の宗教学―固有信仰」「御霊と氏神」「双系制と養子制」「歴史意識の古層」などが解説され、抜群に面白い。


八本目の槍.jpg本能寺の変の後の天正11年(1583年)4月、羽柴秀吉が柴田勝家と雌雄を決した賤ヶ岳の戦い。華々しい活躍をした秀吉の小姓衆の殊勲者7人は、「賤ヶ岳7本槍」と呼ばれるようになった。名を轟かせたこの7人――加藤虎之助、志村(糟屋)助右衛門、福島市松、脇坂甚内、平野権平、片桐助作、加藤孫六。それぞれが夢見た大名へと出世していくが、もう一人、同年代の小姓衆の仲間に、桁違いの知力をもち、秀吉の信を得た男がいた。石田佐吉である。朝鮮への出兵の後、秀吉は1598年に没し、1600年の関ケ原。賤ヶ岳7本槍は東軍・西軍にそれぞれ分かれて戦い、石田三成、糟屋助右衛門は散る。しかし、この7人の胸中には「豊臣家」があり、「厳しいことも言い争うことができた8人の仲間」があり、とりわけ「佐吉の言っていたことの深さと情、眩しいほどの生き方を曲げない姿勢」が心の芯にあったのだった。抜群に面白い気鋭の作品。こんな三成なら魅力的で好きになる。凄みもある。

「家康は佐吉のことを無謀な戦に挑んで敗れた愚将だと流布している。佐吉は己に汚名を雪ぐ機会をくれた。今度は己がこれをもって佐吉の名誉を取り戻すつもりでいる。・・・・・・治部は恐ろしい男であったと覚えておこう(「権平は笑っているか」の章)」「家康は隙あらば天下を簒奪しようとする。『俺たちが付いて負ければ、豊臣家は真に滅びる』。虎之助に限らず、豊臣家を守らんとする者の大半の意見が『内府家康亡き後ならば、徳川を封じ込められる』であった。・・・・・・殿下は四杯目を所望した。困り果てた佐吉は遂にどのようにすればよいか、殿下に直接尋ねたという。困った時はつまらない誇りを捨て、真摯に尋ねることが出来るか。人の身になって物事を考えられるか。殿下はそれを試されたのだろうと佐吉は取っていたらしい(槍を捜す市松)」「当初は勝手に戦を起こし、結果的に豊臣家の力を削ることになったと佐吉を憎んでいた。しかし、佐吉のいうように、あの時しか家康を排除する機会はなかったかも知れない。さらに佐吉は負けた時のことも考え、一計を打っていた」「佐吉は皆が羨むほどの権を握ったが一点の清らかさだけは失わなかったらしい。それは佐吉が心の中に、いつも原点に立ち返る『家』を持っていたからではないか(槍を捜す市松)」・・・・・・。他の「虎之助は何を見る」「腰抜け助右衛門」「惚れてこそ甚内」「助作は夢を見ぬ」「蟻の中の孫六」の各章。いずれも自らと佐吉の心中を語らせている。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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