最近もあった少年たちがリンチで殺害する事件――。その事件に突然、わが子が巻き込まれた時、父親は、母親は、娘は、関係のあった人々は、狼狽のなかで何を思い、考えたか。辛い。
サッカー少年であった石川規士が高校初の夏休み直後、2日も帰って来ず、父・一登と母・貴代美は胸騒ぎを覚える。そして息子の友人が遺体となって発見され、犯人と思われる少年2人の逃亡が目撃される。しかし、行方不明者は3人。息子は加害者か、被害者か。犯人であっても生きていてほしいと思う母・貴代美。加害者のはずがない、被害者であれと思う父・一登。無事であってほしい、いや無実であってほしい・・・・・・。
「望み」は絶望のなかのせめてもの望みでしかない。望みなき望みだ。父と母、男性と女性、親と子、現在と今をはらむ未来。日常と死。死の現実のなかに「怨」が消える。交錯し、相反する思いが、生死の現実のなかで融け、定置する。
「心こそ大切なれ」という仏典にある心は生命のことである。森羅万象の生命・こころが滲み出て、日本語がいかに美しいか、味わい深いものか、生命の真髄に迫るものであるか。感動した。本書は本であって本ではない。境地の現われだ。
「はじめに」で「万象への深い認識を示す日本語に、わたしは脱帽しつづけている」という。「あとがき」で「動作とはすべてことばのこころを演じるものなのか。・・・・・・もうこうなると、ことばはほとんどこころにひとしい。こころは、言語となり動作ということばによって現されているのだった」と語る。本書の後ろから抜き書きすると「しかし当時の現実主義者・定家が主張する丈の高さを、丈の暗みに引きずり降ろした珠光の、冷えや痩せの心が滲み出た陰翳の美学は、大きく日本美を深化させる、勇敢な発言だったというべきだろう」「日本人はつねに常識、偽制、権威といったものの正体への絶望と、それへの断念を表明してきたように思える」「しかし、正反対に、古典人の山川草木は人間とあい融和し、ともども在る物であった。お互いに魂を持つ者としてまなざしを交わす物だったことを、古典は教えてくれる(自然と人間)」「あいまいさも、ごまかしも、すべてがそぎ落とされて、それこそ冴えざえとした物の輪郭を鏡として自分を発見できる季節が、冬であった。心の季節といったものを古典から汲みとることもまた、大事であろう」・・・・・・。うなってしまう。
日本の歴史と文化、ことばのこころを受けて、「丁寧に生きていこう」「いちだんと深い人生の味わいを尊重しよう」と思う。
「スポーツランドみやざき」を築こう――10月6日、宮崎県の要請を受け、宮崎市のスポーツ施設や総合運動公園等を視察しました。宮崎県は、2020年の東京オリンピックに向けて、スポーツ立県・宮崎を大きなテーマとして掲げています。視察のほか、宮崎県経済団体協議会主催の会合に出席し「社会資本整備のストック効果と地方創生~スポーツランドみやざきの位置づけ」のテーマで講演を行いました。この視察には、河野哲也県議、新見昌安県議、重松幸次郎県議が同行しました。
宮崎県は、トップアスリートの競技力向上のために、屋外型ナショナルトレーニングセンターの整備・誘致を目指しており、私が今回訪れた「フェニックス・シーガイア・リゾート」は、その一大拠点になる所です。ここはすでに、ゴルフやトライアスロンなどの強化拠点施設になっていて、サーフィンの強化拠点としても有力です。
また宮崎県はとくに、プロ野球やJリーグ、ラグビーや陸上などのキャンプの受け入れ実績が豊富にあると同時に、すでに専用の施設があります。このメリットと経験を生かして、知事を筆頭に、市町村、経済界などが一体となって、スポーツ立県・宮崎を作り上げていこう、という熱意を感じました。
安倍内閣の「日本再興戦略」では、10本の成長戦略の柱の一つとして「スポーツの成長産業化」をあげており、私も強く進めています。全国の各県・市が「スポーツ立県(市)」をめざして手を上げるようになってきました。観光に続いて、スポーツ産業が経済けん引の1つの柱に育つことが望まれています。