松本健一さんが長い間、あたためてきた「海岸線の歴史」だという。なぜ、これが思いの深い書なのか――。
そう思いつつ読み進んだ。読んでいるうちに、「ナショナル・アイデンティティの再構築」「ナショナル・アイデンティティ(日本とは何か)とは、軍事的な強さや経済的な豊かさで形成されるものではなく、わたしたちはこういう風土と歴史と文化のなかで生まれ死んでゆく、という自己意識において形成されるものだ」「各民族の文化的な固有性の再認識や、国家的な歴史の書き直しという動きとなっている」「グローバリズムによる世界各地の文化破壊に対する抵抗は、ナショナリズムではなく、パトリオティズム(祖国愛=郷土愛)によって成されようとしている」「どんなに近代化を進めても、現代化をしても、便利な文明を求めていても、国民の誇り、そして心の豊かさはその風土にある」
――まさに海岸に住んだ人々の生命のなかに営々としてパトリオティズムが形成され、そのためにも、海を取り戻すことが大事だということがわかる。
「公共事業はムダ」とか「公共事業悪玉論」が世を席巻して、声も出せないような状況にある。治山治水がいかに大事であり、黙々と先達が努力してきたか。とくに災害列島、脆弱国土の日本だ。未曾有の経済危機に対して世界が協調している金融や財政出動に、逆噴射という世界で驚くような政策をしている政権。財政再建の名の下に、公共事業叩きと役人叩きをして、成長戦略を考えない人々。経済を内需も外需もバランスよく発展させなければ、この国はもたない。少子高齢化社会は想像を絶するものだ。
森田実さんは、覚悟をもって正論を吐いている。「建設業の再生が日本経済を救う」「建設産業復興論」という主題、副題自体に、その覚悟が表われ、その背後に中庸の哲学が満ちている。
藤原新也氏の「東京漂流」を衝撃的に読んだのは、相当前のことだ。その感性はよりとぎすまされ、やさしく、透明になっている。「尾瀬」「コスモスの野」「トメさんと菜の花」「カフェ恵と真っ黄のアワダチソウ」「宮間(写真家)とアジサイの花」「カハタレバナ」・・・・・・。
美しい花が目に浮かぶような小説が続くが、都会の喧騒のなかで、人々の"渇き"のなかで、男と女の交わりや別れ、生老病死が描かれている。しかし、藤原さんは「人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ人間は救われ癒されるのだという、私の生きることへの想いや信念がおのずと滲み出ているように思う」といい、「哀しみもまた豊かさなのである」という。
「他者への限りない想い」が哀しくも美しく、感動的に描かれている。