mokureinokoe.jpg「武田勝頼の設楽原」が副題。信長が新式の鉄砲を使い、武田勝頼の騎馬隊を打ち破った、歴史を変えた長篠・設楽原の戦い。長篠城は、私の生まれた愛知県新城市にあり、小学校の遠足でも行き、鳥居強右衛門の活躍、狼煙を上げた鴈峯山も田代もまさに故郷だ。武田軍勢約一万ニ千、織田・徳川勢約三万八千、武田の騎馬軍団を食い止める馬防柵、そこでの「三段撃ち」、勝頼は鉄砲の有用性に気づいていなかったのか、織田・徳川勢を侮っていたのか、そして武田勝頼は愚将であったのか、長篠城から少し距離がある設楽原が戦場となったのは何故か――。まさに合戦のリアルと、暗愚と嗤われた勝頼の真の姿とその苦悩を描き出した素晴らしい力作。「大我と小我」「木霊(こだま)の声」は、「無常と常住」の哲学性に踏み込み、深さに誘う。

偉大な巨魁・武田信玄を父に持つ勝頼。四男、しかも傍流。家臣の中心は信玄時代の老将たち。保守と保身、「3年喪に伏せ」との遺言を死守するばかりで、勝頼は焦る。決して愚かではない。分別もある。時代を見る目もある。ますます強大になること必至の織田信長、それつく家康。北と西に難敵を抱え気を取られる信長、三河も盤石でない家康、そのある意味での乾坤一擲のワンチャンスが、長篠城の奪取だった。その構造と緊迫感が、本書から溢れ出てくる。実にクリア。

長篠城を奪取寸前まで追い込み、設楽原に出陣する勝頼、止めようとする老将たち、大軍を隠す信長、酒井忠次の南側の山地から長篠城を監視する鳶ヶ巣山の付城奇襲作戦、それを採用する信長のアクロバティックな芝居・・・・・・

そして天正3(1575)520日、凄まじい設楽原の馬防柵での激突となる。はやる勝頼を止めていた武将も腹が決まったらさすが武田の武将、死を覚悟した壮絶な突撃を展開する。家康が震え上がる事態も。「御屋方様、早くお退きください」「ここにて死ぬ」――なかでも勝頼を退かそうとする馬場美濃守信春の姿は、神々しい。

しかし、武田は終わったわけではなかった。設楽原敗北から7年ほどの天正103月、天目山に追い詰められ自害したが、「武田家が、越後の一部、信濃全域、西上野、武蔵北部を含めた最大領土を実現したのは滅亡直前の天正9年のことであった」――。しかし、信長も勝頼が死んでわずか3ヶ月後、本能寺で死ぬ。人の運命はわからない。

「大我と小我」――その「木霊(こだま)の声」を反芻しつつ人生を歩むものだ。勝頼は愚将であったか、なかなかの人物であったか、ではない。信長にあっても家康にあってもそうだ。それを超えて、それぞれの運命の中で「どう生きたか」をリアルに迫る傑作。 


ittamonogati.jpg「ポピュリズムとSNS 民意にどう向き合うか」が副題。昨年の東京都知事選挙から選挙が変わり、衆議院選挙、兵庫知事選を経て、2025年参院選で完全に選挙が変わった。「砂になった民意」「中間団体の衰退でバラバラになった社会、そうした流れを加速させるSNS」――。まさに「ポピュリズムとSNS」が席巻する参議院選となった。

「居住地域とのつながりが薄れ、中間団体が廃れ、派閥も消滅し、バラバラとなった国民政党」――。中間団体が廃れ、民意が砂と化す以上、選挙で勝ち抜かねばならない議員は、ポピュリズムの誘惑にさらされる。「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」(英国の政治学者マーガレット・カノヴァン)わけだ。新聞、テレビから次第に離れ、ネット、SNS時代、しかもダイパ・コスパ時代となれば、短い、刺激的な言葉・動画が好まれる。いつの間にか多くの個人情報が集積され、「世論操作」され、「フェイクに誘導」される危ういデジタル・ポピュリズムの選挙があらわになっている。その実態に迫ろうと取材したのが本書。630日発行なので、東京都議選、参議院選挙の結果は入っていないが、構造分析はその通り。

「民意とは何か」「民意をどうつかむか」「SNSと動画サイト(2024年の選挙を振り返る)」――。陰謀論的議論を信じた斉藤氏の支持者。ネットを通じた地上戦(自民党牧島かれん)、駅頭を舞台として「駅頭に民意あり」(維新の金村龍那)・・・・・・。現場の戦いが紹介される。

知恵と執念が「ほとばしる」ことなくして勝利はない。そして知恵は現場にある。問題は現場に現れる。「問題は正しく提起された時、それ自体が解決である(アンリ・ベルクソン)」と言うが、フェイクに誘導されないためには、「徹して一次情報に触れること」「伝達され数値化された情報に惑わされるな」「勉強を怠るな」「木を見て森を見ないという言葉があるが(その逆も)、森に入り木を見ることだ」と思う。西部邁氏は「ポピュリズム(人民主義)とポピュラリズム(大衆迎合人気主義)を分けよ」と言ったが、現場主義こそポピュリズムへの誘惑に抗する力だと感じてきた。

デジタル・ポピュリズムが席巻する今、そのポピュリズムに抗する政治家が求められる。大変な時代を迎えている。


renren.jpg日本と台湾を往復、心温まる4つの物語。日韓といえば歴史認識などでぶつかるとげとげしい物語になりがちだが、この台湾との物語は「国境と言葉を跨いで射し込む光に照らされた」「歴史が交錯する中で生まれた複雑な感情を温かく包むような」物語で、こちらの心まで幸せに包まれる。

「ニ匹の虎」――。3歳の頃から仰々しい「上陸許可」申請で、台湾籍のまま両親とともに日本に来て「台湾人だけれど、日本で育った」女性。台湾人? 日本人? 日本語とも中国語ともつかない言語。その台湾でも、母の両親は大陸の出身。「みんなして、私のことを本物の台湾人ではないと思っているんでしょう」と亡くなった母は台湾語で嘆いていた。そして今回、祖母のお葬式で台湾に来ると、親族が集まり思い出を語る、その温かなこと・・・・・・

「被写体の幸福」――。日本で働く台湾からの留学生が、写真家の青年に声をかけられモデルとなる。親密な夏が始まり恋をする。「可愛い台湾人の女のこ」と言われるが、「ちがう、そうじゃない。わたしは----」「台湾人の女の子として、ではなく、ただのわたしとして、かれに見つめられているつもりだった」「わたしは台湾人だけど、台湾人じゃないよ。わたしはわたしだよ」・・・・・・

「君の代と国々の歌」――。新潟で挙式をして、2ヶ月後に、台湾にその報告に帰った女性。日本で育った娘が日本人の花婿を連れて台湾に帰ってくる。「日本人なのに、中国語がよくできる婿なんか、姉さんたちは運がいいな」「子供の頃からずっと、まるで日本人の女の子みたいだったわ」と言われる。親族が迎えてくれるが、台湾語、中国語(外省人)、日本語が飛び交い、「富士は日本一の山。おじいちゃん、この歌、好きだったよね」などの声。日本への好感も共通だが、世代で日本への感覚も違う。自分の名も台湾での発音は違うが肯定的だ。「日本人じゃないくせに、日本人みたいに日本語を話すわたしをお祖父ちゃんはどう思っていたんだろう? わたしは、台湾人としても、日本人としても半端なのだ」・・・・・・。ふだんは、日本に住んでいて、台湾人。微妙かつ複雑な歴史の中の自分のアイデンティティー。「日本の元号が令和になってまもない20195月吉日。わたしたちの宴も、まだ、はじまったばかりだ」・・・・・・

「恋恋往時」――。日本人と結婚したが、不妊のために離婚し、父が開いた生活雑貨商を手伝う台湾人女性。その父は、かつて新聞社の写真部に所属しており、退職後、カメラを買い取ってたくさんの写真を残していた。

台湾と日本――それぞれの思いが、温かく、肯定的に交錯する。稀有な作品。


zankou.jpg動乱の幕末、家禄2500石の旗本としての矜持と4度にわたる勘定奉行を任せられた小栗上野介忠順の生涯を描く力作。幕末の歴史を徳川幕府の側から描くと、徳川慶喜や勝海舟らがどうしても表に出るが、破綻寸前の幕府財政を支え、列強に負けない近代日本の産業化を目指した聡明、厳格、信念の男であり、徳川家に忠義を尽くした直参旗本。それが小栗上野介忠順だった。時流をつかみ、数字にも強い。ズケズケと慶喜であろうが、老中であろうが直言する。それゆえに、敵は多く、職を辞すことも何度も。「自己顕示の塊のような勝麟太郎」と合うはずがなかった。

1860(万延元年)、遣米使節団として訪米。金銀流出問題の解決での通貨の交換比率の見直し交渉に辣腕。先進技術に圧倒され、日本での造船所建設を志し、鉄による一本のネジを大切に持ち帰った。

帰国して外国奉行に就任、ロシア軍艦が対馬に居座る事件に対処。この交渉の辣腕ぶりも見事。1864(元治元年)に、軍艦奉行に就任すると、造船所の建設に本格的着手。多くの借金をしてまでとの反対論に、フランスとの借款という日本人の誰も考えつかない方法を使ってまとめあげてしまう。

最も苦しんだのは攘夷思想の跋扈。生麦事件を始め、列強への賠償は、結局は幕府の負うこととなり、財政のみならず、兵庫の開港など外交要求は右往左往する老中のなか、小栗忠順が奮闘するしかなかった。長州征伐も将軍の入洛も、すべては財政負担に帰着する。「攘夷によって、この国が背負った代償は、あまりに大きい。諸外国への莫大な賠償金、改悪された関税、不利な条件のまま迫る兵庫開港、ニ度にわたる長州征伐に垂れ流された軍費」・・・・・・。それを工面するのも、結局は小栗忠順に委ねられた。

時代の趨勢を予見し、正論・ 直言の忠順は、憎まれても、裏切られても、「この国の100年後の希望」のために、信念を貫こうとする。武士の誇り、旗本の忠義、無責任な者たちへの怒りと慨嘆が伝わってくる。

大政奉還、王政復古、そして戊辰戦争・・・・・・。自ら手がけたカンパニーや造船所の行くえを見ることなく斬首となる。「最期に思うことは、ただ一つ。それは、この世に生きた一人のネジとしての、切なる祈り。百年後に生きる人たちへと続く航路に、どうか、消えない光が残っていることを」と結んでいる。読んだ後も、小栗忠順の「残光」がある。 


yosimotoono.jpg吉本ばななによる現代版「遠野物語」が表題だが、そんなリキミはないと言う。「私が不思議を書くのであれば『日常を生きている中で、確かだったはずの世界に裂け目を見た、そしてそれは結果として、長い目で見たら、人生に少しだけ光を与えることになった』というものであってほしいと思った」と吉本ばななは言っている。 

日常の喧騒の中で、ふっと訪れる生と死の実存的生命の世界。家族や友人の死に触れたとき、過去と未来を映し出す夢を見たとき、偶然とは思えない人との出会いや出来事、本書にも出てくる「天井の木目に小さな顔があった。何度見ても顔だった」ようなこと、事故(訳あり)物件の住居・・・・・・。理屈のつかない、不思議な事はこの世にあり、人は事象の根底にある生命の深淵を覗くことになる。「怪談」話ではなく、生死の生命論的な感情に光を当てた13の短編集。

「だまされすくわれ」――。山の中を一人で歩くと、精神状態が変化する。人に会っても、人? 霊?

「唐揚げ」――。白血病で亡くなった従姉妹の小さなノートを預かる。お見舞いに行った日のことが書いてあり、「生きている若者へのうらやましさにもだえる」と・・・・・・。生きるって、贅沢なものだ。

「渦」――。外国人の元彼が死んだ。父も死んだ。「なんだかんだ言っても、先に進むのがいいんだよな。まだ見ていないものを見るっていうだけでも」と言った父を思う。「カーテンを開け、少し窓を開けた朝の光が部屋を照らし、新鮮な空気が細く入ってきた。今にいる・・・・・・やはり今というものが、何より最強なのだ・・・・・・とつぶやいたら、私の気持ちはさまようのをやめ、大丈夫になった」。

「幽霊」――幽霊みたいな細い傷が腕に刻まれたリスカの女に惹かれた。美しい、純な世界。とてもいい。

「光」――。著者の実話だと言う。中学生の時から知っていた若い女性のAさんがビルから飛び降りて亡くなった。彼女に言った最後のきつい言葉がどうしても気になってしまう。壊れてしまっていたAさん。「人は母の子宮からこの世に出てきたときに、世界との大きなつながりを失った感覚になるのだと思う。そして誰かたった1人でいいから、いつも自分の事ばかり考えてかまってくれる、母のお腹の中にいたときのように、一体化してくれる誰かを心のどこかで一生探してるように思う」「そのことを思い知りながら、やはり私はこの宇宙の理を、計らいを信じていたいと思うのだ。個人の世界の中では解決できない、もっと大きな因果の中で人は生きている」・・・・・・。「あらためてAさんに対して思う。出会ってくれてありがとう。笑顔を共有してくれてありがとう。思い出をありがとう。出会ってよかった」と言う。無常の中に常住を見る。宇宙生命の中で人間を見る人間哲学に導入する生老病死。

「炎」――。同級生のリュークが失踪する。普通に家族がいて、日常がある自分。家族の土台もなく、周りは知らない人ばかりのデューク。彼のベッドで眠ると悪夢を見る話。「おまえは育ちがいいんだよ。でも、すばらしいことだよ。俺はさ、いろんなバイトをしているうちに、裂け目みたいなものをいっぱい見た感じがするんだ」・・・・・・。「人が、どんなに人生をしくじってしまい、もしかしたら命を落としたかもしれなくても、何かほんのわずかな救いのようなものが、そこにはあり得る。親というものは、理屈も時空も超えて猛進して、子供を守りたいものだ」ということを知るのだった。

「わらしどうし(僕はひとりで寝る夜、天井の模様の中にひとつの絵を見つけていた)」「楽園(お母さんは死んだ兄を庭に埋めたという)」「最良の事故物件(大学生活のボロアパートに男の幽霊がいた)」「思い出の妙(天井の木目に知らないおじさんの顔があった)・・・・・・

世の中の裂け目に触れても、長い目で見たら、結果的に人生に光を与えることにつながる。絶望の中にもその深さを抱え続ければ小さくても光は見出すことになる。無常の中に常住を見る生命の哲学への機縁。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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